2010/08/31

氏家ト全「妹は思春期」 - 『“女の欲望”とは何か?』、に関連し

氏家ト全「妹は思春期」第1巻 
関連記事:ラベル“氏家ト全”

倉島圭「メグミックス」を題材にした前記事『“女の欲望”とは何か?』(*)にて、それと並び立つ傑作(=ケッ作)としてご紹介した、氏家ト全「妹は思春期」。そっちの記事中にあれこれと書いたらごちゃごちゃしたので、この記事で「妹は思春期」について、かかわるところを手短に述べると。

ご存じのように今作「妹は思春期」は、とんでもなく耳年増な妹(ら)がヒーローである兄に、やぶからぼうな性的挑撥をかましてくるので、お兄ちゃん困っちゃう…くらいなことを描いたシリーズ作だが。
それについて筆者はかって、かなり考えに考えたすえ、『むしろそれは彼女らが、性交をやらざるための“挑撥”なのだ』、といういったんの結論を得た。それは主として、ラカン系ドクターのJ-D.ナシオの著書「ヒステリー」からのインスパイアで。以下、むかし書いた堕文をちょこっと直して再利用しつつ、まずいきなり引用で…。

 ――― J-D.ナシオ「ヒステリー」(訳・姉歯一彦, 1998, 青土社, p.16-19)より ―――
『{ヒステリー患者たちが、病むまでに怖れているのは…}絶対的、純粋な危険であってイメージ・姿形がなく、定義されるというよりは感覚的なもので、つまり最大の享楽の満足を体験するという危険である』

『ヒステリー神経症の精神生活の中心を占めるのは享楽に関する恐怖と執拗な拒否である』

『ヒステリー化とは、どんな人間の表現であっても、それ自身が内的には性的性質をもっていなくとも{他者のふるまいやもろもろの徴候を、}エロス化することである』

『理解せねばならないのは、ヒステリーの性が決して性器的な性ではなく性の模造物であり、本当の性的関係の具体化に向けた現実の企図行為と言うより自慰行為や小児の性的悪戯により近い偽の性であることだ』(以上、{}内は引用者の補足)

すなわち。このヒステリーの方々は、じっさいの性的行為とその≪享楽≫を怖れるので、そこで性交を行わないために、そして≪享楽≫に接近しないために、あえて逆に自分の世界を無法にエロス化しつつ、そしていたずら半分の性的言動に及ぶ。
で彼らは、そのことにより『私は性的存在ですよー♥』というフェイクを周囲に向けてかましながら実は、そのいたずらをとうぜんの失敗や挫折に導くことからこそ、少々の安堵というリターンを得ているのだ。そんなご苦労に及んでまで彼らは、『不満足の存在であり続けようという欲望に拘(こだわ)るのである』(同書, p.19)。

とまでを知った上で、あらためて氏家ト全「妹は思春期」なる創作を、チェキし直すと…。

その題名に言われた『思春期の妹』こと≪カナミ≫は、公衆の知らぬところでエロス一色の精神生活を送り(!)、そしていっつも周囲の人々への豪放大胆なるセクハラざんまいをエンジョイしながら(!!)、しかしじっさいのシリアスな性的行動へと及びそうな気配が逆に、みじんもない。
だいたい、状況をよく見れば。そもそもカナミの挑撥の対象は、実の兄と女の子たちのみでしかない(…あと、ごくまれに男性“教師”)。すなわちひきょう千万にも(!?)、セーフティな相手だけをねらい撃ちにして、『私は性的存在ですよー♥』とのアピールが敢行されているのだ。

そしてそれは何のためか…と考えたら、いまやわれわれは、カナミがじっさいの性的行動をしないためにこそ、その生きる世界をわざとらしくエロス一色に塗りつぶし、かつたわけた性的ないたずらにはげんでみせて、そして(意図的に)人々を引かせているのだ、と解釈できる。言い換えるとそれは、あまり病的でない限りの≪ヒステリー≫的なアチチュードなのだ。

また「妹は思春期」で、追って登場するカナミの親友にして同類たる≪マナカ≫という少女は、同じく下ネタまみれのおしゃべりや性的なおふざけに明け暮れながら、しかも自主的に『貞操帯』をそうびして(!)、自分でがっちりとロックをかけている。そして、『なぜそんなことを?』という常人の友人からの質問に、

 『それはもちろん 私の清らかな 純潔を 守るためですよ』

と、やや得意げに答えるのだった(「妹は思春期」第6巻, 講談社ヤンマガKC, p.126)。

19世紀後半、精神医学史上に名高きフランスのシャルコー医師が、彼のヒステリー患者の女性らを教壇の見世物(=魅せもの)にして世間の大評判をとったという故事があり、パリ留学中の若きフロイトもそれを見学しているが(1885年)。そうして「妹は思春期」なる作品は、その面白っぽい『見世物=魅せもの』を、もう少しソフトかつ、やや健全そうな発達の一過程として示しているのだ
(かってながらここでは、シャルコーによる見世物の、『催眠術治療の実演』という性格を度外視。「妹は思春期」という作品には、『治療』および『催眠術』という要素はない。そのどちらも、必要がないし)

すなわち、社会的に未成熟な思春期の少女と少年らが、自らを意識的に性交から遠ざけるのは、けっしておかしいことでない。かと言って人間らには、『無償で』そのようながまんができるのでもない。ではどうすれば?…ということが、「妹は思春期」なる作品の描いていることの一端ではありそうなのだった。

倉島圭「メグミックス」 - “女の欲望”とは何か?

倉島圭「メグミックス」SCC版 第1巻 
参考リンク:はてなキーワード「倉島圭とは」

話題の作品「メグミックス」は、のちに「24のひとみ」でプチブレイクした倉島圭先生が、そのキャリアの初期(2000-04)にヤングチャンピオンに描いていた、4コマ基調のショート作品シリーズ。いまは少年チャンピオン・コミックス(SCC)全2巻(2007)として手に入るものだが、それは「24のひとみ」が多少ヒットしたおかげな感じ。筆者にしたってその再刊がなければ、今作を知らずに生きていたやも知れぬ。
(かつ今作「メグミックス」の一部分は、「24のひとみ」SCCの1~2巻にもちょこっと収録されている)

1ついきなり、ここで大きな見方を示しておくと。今作こと倉島圭「メグミックス」と氏家ト全「妹は思春期」(2001)の2作は、ほぼ同時期に始まったシリーズであり、そしてあわせて、4コマギャグというジャンルにおいて、吉田戦車「伝染るんです。」(1989)以来のイノベーションを達成した傑作らに他ならない。
いずこに新味があったかを1つ言えば、それは今作と「妹は思春期」が、『“女の欲望”とは何か、そのなぞ的性格』を最大のモチーフにしているところだ。…という並び立つ両傑作(=ケッ作)だが、商業面においては「妹」の成功にひきかえ、今作はほとんど惨敗ぎみ。
何せ今作は、その単行本が、2002年にヤングチャンピオンコミックス(YCC)版として第1巻のみ出て、以後はぱたりと放置されていたくらいなしろもので。そして、どうしてそうなったのか…というと、いくつか思いあたるところもあるが。

などと、前置きはこのくらいにして。この「メグミックス」がどういう作品かは、YCC版・第1巻の裏表紙に4コマ形式で説明されているので、まずすなおにそこを見ると。

 【少年】 これってどういう マンガなの?
 【めぐみ】 まあ 簡単に言えば 二人の会話形式の 四コマ マンガだよ
 内容は全部 ウンコについての ことだけどね
 【少年】 どんなマンガだよ!!
 【めぐみ】 それから 何冊かに一冊は 当たりが あるんだって
 【少年】 えっ 何それ 当たったら 何かあるの?
 【めぐみ】 (急に真顔で、)三日以内に死ぬ…
 【少年】 最悪じゃねえか!!

…なわけで。死のリスクを負ってまで全編ウンコについてのまんがを読もうという人が、たぶんこの世にほとんどいない、という既知のことから、「メグミックス」の商業的惨敗は、きれいに説明されてしまう(!?)。
いくらギャグでも、これは明らかにやりすぎだった感じ。いちばんさいしょにこれを見ていたら、筆者にしたって『かってにふざけてろ』とつぶやいて、それっきりこんな作品のことは忘れていたところだ!

代わって筆者からもう少し説明しておくと、今作は基本的に、われらのヒロイン≪めぐみ≫と1人の男のダイアログ、という形式になっている。そしてめぐみは『神出鬼没の美少女』とSCC版のあおりにあるように、エピソードごとに中学生からお母さんまで年齢が自在に変わり、かつその身分・職業・立場などもころころと変わる。
そして設定がどのようであろうとも、さきの作例にも見たように、われらが美しきヒロインのおしゃべり(パロール)は、手段を選ばず全力で、ダイアログのレベルを引き下げる。

 ――― 『めぐみのUFO』の巻より(YCC版, 第1巻, p.51) ―――
 【少年】 めぐみさんは UFOとか信じる?
 【めぐみ】 うん 大好きだよ
 ウンコ(U) 糞尿(F) 汚物(O)の UFOね
 【少年】 汚えよ!!
 【めぐみ】 信じるどころか マン汁吹いちゃう♥
 【少年】 どういう性癖 してるんだ!!

 ――― 『めぐみのお見合い』の巻より(YCC版, 第1巻, p.63) ―――
 【青年】 めぐみさんは 将来 どういう家庭を 築きたいですか?
 【めぐみ】 私の理想は… そうですね
 今の家庭では 子供が親に 暴力を振るったり
 親が子供を 虐待するなんてことが あるじゃないですか
 それが理想ですね
 【青年】 何考えてんだよ!!
 【めぐみ】 家庭崩壊が駄目なんて あなたの頭は かてえ方かい?
 【青年】 うるせえ!!

 ――― 『めぐみの結婚前夜』の巻より(YCC版, 第1巻, p.96) ―――
 (小津安二郎「晩春」的なシチュエーションで、)
 【めぐみ】 お父さん 私がいなくなったら どうするの?
 【中年男】 心配するな 父さんだって 独りでやっていく
 【めぐみ】 オナニーを?
 【中年男】 そうじゃねえ!!
 【めぐみ】 専業主夫ならぬ せんずり主夫に なるんだね
 【中年男】 ならねえよ!!
 【めぐみ】 孫が生まれたら お自慰ちゃん
 【中年男】 うるせえよ!!

と、毎回、だいたいこのようなダイアログが約3ページ、ズダダダダ~!といういきおいで展開され。そしてさいご、男が『もうやっとれんわ!!』か何かと放り出してオチになる。しかもめぐみの美貌は変わらないけれど、相手の男(たち)はめぐみの吐く毒を喰らうと、その絵姿が、落描きになったり化け物になったりするのがゆかい。
その展開のスピード感は、ディーディー・ラモーンの『ワンツースリーフォー!』というカウントからズダダダダ~!といういきおいで約3分間の白痴的かつ攻撃的で自虐的なポップソングらが大放出されまくる、かのラモーンズのパフォーマンスにさも似たりッ! ヘイ・呆、劣ゴー!

それとまた別に、何かこれと似たようなものがむかしあったよなあ…と考えたら、ひじょうにおぼろな記憶の中のツービートの漫才(全盛期は1980年あたり)が、わりと近いかも。

 【きよし】 それにしても交通事故が多いですから、気をつけたいですね!
 【たけし】 そこで私は考えましたよ、新しい交通標語!
 【きよし】 おっ、それはどういう?
 【たけし】 『赤信号 みんなで渡れば怖くない』!
 【きよし】 こらっ! 危ないじゃねえかよ!
 【たけし】 危ないといえば、交通事故も怖いですが、火事も怖いですよね!
 【きよし】 ん、まあそうだね!
 【たけし】 そこで防災標語を考えました、『寝る前に ちゃんとしめよう 親の首』!
 【きよし】 死んじゃうよ! いいかげんにしろ!

倉島圭「メグミックス」YCC版 第1巻ところで今作「メグミックス」について、めぐみのおしゃべりのさしているものが、あらゆる方面での『堕ちること』と、そして(間接的に、)そのきわまりとしての死、ということは、見ているものには明らかなのでは。まずそのYCC版のカバーが、どくろが散乱する荒野でたたずむヒロイン、という絵であることが示唆しているように。
(ところが、追って出たSCC版のカバーが明るくこぎれいになっていることは、ともかくもマーチャンダイズ面での進歩向上とは言えよう)

そもそも今作は毎回、タイトルの入っているさいしょのスペースが、めぐみとスカルの2ショットと決まっている。それについての目につく例外は、めぐみが独りで首をつっているイメージ(!)。…と思ったがよく見たら、その回の題字の一部が、こっそりとスカルになっている(YCC版, 第1巻, p.20)。
本編においては『行動』らしきことをほとんどしないヒロインが、そのスペースのイラストにおいては、わりとアクティブにスカル(ら)と戯れているのだ。お互いにお互いを装飾としたり、お互いに追ったり追われたり、お互いに喰ったり喰われたり、出たり入ったり、殴ったり蹴ったり(…さいごのは一方的に、めぐみがスカルを)。

スカル、がい骨、どくろなどと呼ばれるそれは、“われらの作家”こと倉島圭先生、彼自身を表すアバターでもあるようだが。われらのヒロインが、本編でからんでくる名もなき男ども3種類(少年・青年・中年)をぜんぜん相手にしない、または表面的にしか相手にしないのと対照的に、彼女は≪それ=死≫と戯れているときにだけ、多少なりともほんとうの彼女であるように、筆者には思えるのだった。

なおここで、今作「メグミックス」と並び立つ傑作としてご紹介した氏家ト全「妹は思春期」について、少しだけふれると。ご存じのようにそれは、とんでもなく耳年増な妹(ら)が、ヒーローである兄に無法な性的挑撥をかましてくるので、お兄ちゃん困っちゃう、くらいなことを描いたシリーズ作だが。
それについて筆者は考えに考えたすえ、『むしろそれは、ヒロインが性交を実行せざるための“挑撥”なのだ』、といういったんの結論を得た。言い換えるとそれは、あまり病的でない限りの≪ヒステリー≫的なアチチュードなのだ。「妹は思春期」についてややくわしくは、別の記事でふれるとして(*)。
そうして今作「メグミックス」でも、次のような軽いネタについては、「妹は思春期」と同様な解釈ができなくもない。

 ――― 『めぐみの青春時代』の巻より(YCC版, 第1巻, p.41) ―――
 【めぐみ】 どうしたの? こんな所(校舎裏)に呼び出して
 【少年】 俺 めぐみさんのことが 前から好きなんです!
 【めぐみ】 ええっ! 前から……
 (急にほほ染めて、)私は後ろからが好き♥
 【少年】 何言ってやがる!!
 【めぐみ】 突き合ってください♥
 【少年】 どういう勘違い してんだよ!!

そんなに軽くもない感じだが、しかし今作の中だとこれは軽い方。こんなお話ばかりならよかったのだが(?)、しかしめぐみの暴走は、もっと重い方までも平気で行く。筆者の心に、とくにインパクトが大だったエピソードをご紹介すると。

 ――― 『葬式』の巻より(2Pショート形式。SCC版, 第2巻, p.130) ―――
 (墓地にて、喪服姿の2人)
 【めぐみ】 あっ お父さん この度は…
 【中年男】 めぐみ先生… わざわざ すみませんね
 【めぐみ】 私…その… 何と言って いいか…
 【中年男】 いいんですよ(空を見上げて、)
 学校ではバイクを 禁止していました それを承知で…
 親より先に 逝くなんて こんな馬鹿息子…
 【めぐみ】 まさに 愚息も昇天…
 【中年男】 何言ってんだよ!!
 (中略)
 【めぐみ】 でも私…いまだに 信じられないんです 何でこんな… こんな…
 こんな奴の為に 葬式を開いた のか! 私の為に やるべき だったのに!
 【中年男】 お前は生きてる じゃねえか!!
 【めぐみ】 (目をふせて、)じゃあ早く 殺して…
 【中年男】 わけわかん ねえ!!

倉島圭「メグミックス」SCC版 第2巻とは、ずいぶんひどいエピソードだがしかし、『まさに 愚息も昇天…』のところで、わかっているのに何度でも爆笑してしまう。そしてかわいそうなお父さんを置き去りに、われらのめぐみ先生は、死んだ少年へのふしぎな嫉妬を隠しはしないのだった。

そこらからシリーズのふんいきが暗い方向に高まって、そしてSCC版・第2巻の巻末、全編の末尾とも受けとれる部位あたりに、めぐみが自殺して終わり、というお話がいくつか(!)。その中でも、あまりにアイロニーがきわまって印象的なのは、『めぐみの未来』と題されたエピソード。
それは、今作でよく見られるパターンとして、テレビ番組の収録のようなていさいで、なぜかめぐみが『識者』かのようにゲスト出演している。で、その背景が、崖っぷちに十字架の林立する墓地らしき場所。

 ――― 『めぐみの未来』の巻より(SCC版, 第2巻, p.177) ―――
 【青年】 今日は日本の未来に ついて めぐみさんに お話を伺いたいと 思います
 【めぐみ】 どうもよろしく
 (中略、いつもごとくのボケツッコミがあって…)
 【めぐみ】 日本の未来は一体 どうなっているのでしょうか?
 それは皆さん 一人一人の思いに かかっています
 (と言うとめぐみは、どこからか取り出した拳銃を自分に向けて、)
 ただ…私はそれを 見届けることが できないんです
 (さいごのコマ、カメラのレンズをふさぐ手のひら、その向こうで血しぶき)

このお話のさいごのシーケンスのサブタイトルが“E.vil N.ever D.ies”で、『どこかで聞いたな』と思って確認したら、スラッシュメタルのオーバーキル(Overkill)の楽曲に、ずばりそういう題名があるようだ。かつその表記は、3語の頭文字『END』を強調してもいることから、心の中で自分は、このエピソードを「メグミックス」全編の最終話と受けとっているのだった。

で、これを見ては何か、悲しみとともに、ふしぎだが一種の敗北感のようなものを自分は感じるのだった。分析治療なんてのもめったに『成功』はしないものだそうだが、その最大の失敗、分析家の敗北とは、クライアントの自殺によって治療が終わってしまうことだという。
われわれの用語の≪分析主体≫と同様に、めぐみも大量のおしゃべり(パロール)をたれ流してはくれたが、けれどもわれわれは、彼女の欲望の対象を、その欲望の性格を、適切に分析しきることができなかった。…よってこのようになった、という気がしてくるのだった。

 『“女の欲望”、とは何か?』

伝えられた逸話としてフロイト様は、『それは、“欲望されること”である』、と言われたそうだ。しかしめぐみは、名もなき男らの欲望の対象にはなりつつ、そのことを愉しみはしない。それをここまで、われわれが見てきたように。
ところで、狭い意味での≪ヒステリー者≫の特徴は、まったく飽きもせずにドクターらへの愁訴を繰り返し、それを(無意識にて)愉しみ、そして大いに苦しんでみせながら自殺は『しない』ことだそうだ。そうしてヒステリーの方々は、分析家たちからは愛されながら、彼らとの共生関係を生きるのだ。
そしてここらで、「妹は思春期」と今作、それぞれの描いていることはきっぱりと分かれる。筆者は「妹は思春期」という作品の『心理的』なふかしぎの一端を明らかにできたと思い込んでいるが、「メグミックス」についてそれはない。

ちょっと見方を変えてみると、われらが見てきためぐみのどうしようもなきおしゃべりらは、『大文字の他者に向けてのアピール』だとも言いうる。『大文字の他者』とは『常に主体を見ていると想定された存在』であり、彼女は目の前の会話の相手(ら)の向こう側にそれを見て、それに向かってご奉仕し、その享楽を実現しようとしている。
享楽それ自体をではなく、『享楽にかかわるおしゃべり』を彼女は愉しみ、そしてその愉しみを大文字の他者に捧げようとし続けるのだ。いや、『愉しみ』と書いたが、見ているとまるで、なさねばならぬ義務かのように彼女は、へんな汗まで流しながらがんばって(?)、その毒を吐きまくり続けるのだ。
ひじょうに印象的な彼女の自虐、彼女がアバズレでヤク中の変態痴女かのように自分を言い張ることもまた、はっきりしないが『大文字の他者』を悦ばせようとしている感じ。そしてほんとうの彼女の愉しみかと見えるものは、バカな男どもからのお追従を受けることではなく、どくろ(=死)とのたわむればかりなのだ。
で、この場合、その大文字の他者とは、読者のわれわれである…などと言い切ってしまうのもむざんだが。そうまでは言わずとも、しかし、めぐみが大文字の他者を見ようとしている視線の手前にわれわれがいちゃっていること、これは確かくさい。

そういえば、めぐみの吐きまくる毒を喰らった男らの絵姿が、どんどん化け物と化していくようなことをお伝えしたが。これはおそらく、『そのときめぐみには、彼らがそのように見えている』ということが表されている。
3匹もそろってこのバカな男どもが、くそ律儀にツッコミを行うばかりで、まったくジョークやシャレを解さないので、われらのヒロインは不きげんなのだ…ということは、まんざらでたらめな見方でもない感じだが。

で、どうすればこのシリーズに、ハッピーエンドがありえたのだろうか? さいしょから設定も形式も病的っぽい今作について、それを問うことがナンセンスかも知れず、かつまた『オレにはわかりません』、という〆くくりにしたくはないのだが。
しかし自分は心にその問いをおいたまま、今作「メグミックス」に対し、いまはただ、けいれん的で外傷的な笑い(=ギャグの作用)を返し続けるのだった。

2010/08/30

高見+田口「バトル・ロワイアル」 - 喰いそこなったシチューの味

高見+田口「バトル・ロワイアル」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「バトル・ロワイアル」

以下の断章チックな堕文は、筆者がツイッターに投稿したものの再利用(*)。データ要素をここで補うと、コミック版「バトル・ロワイアル」はヤングチャンピオンに2000-05掲載、単行本はヤングチャンピオンコミックス全15巻。



ちょっと大急ぎで高見広春+田口雅之「バトル・ロワイアル」コミック版を、超ななめ読み。もっとこう、平凡な中坊チャンたちが殺しあうお話かと思ってたのに、一部の子たちがハイパーな人材だったのでびっくりした。

そのコミック版バトロワで心に残ったのは、心やさしい平和主義の女の子たちが、その中の弱い分子のせいで殺しあうはめになり、ヒーロー君はシチューを食べそこねるというエピソード。ここらの『心理的』な構成はさえていると感じたし、もっと全般にそういうことを描いてる作品かと期待してた。

ところでなんだがバトロワに限らず、自分は劇画の残虐描写なんて、怖いからあんまりよく見てません。どういう場面か分かったら、さっさとめくる。ペローだったら『狼は赤ずきんちゃんを食べてしまいました』ですますところ、やたらねちねちその過程を描写することが面白いとは感じない。

藤澤勇希「BM ネクタール」 - それをやたらと反復することが

藤澤勇希「BM ネクタール」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「BM ネクタール」

以下の堕文は、筆者がツイッターに投稿したものの再利用(*)。記事としてのていさいを作っただけで、字句はほとんど変えていない。



ななめ読み漫画レビュー、藤澤勇希「BMネクタール」。近未来SFパニックアクション、ものすごい力作で、読んでる時はけっこう引き込まれた。しかし見終わってみると、そんなには心に残ったものがない。人間ドラマの方面に、もうひとつの『押し』が、あちこちで足りないせいなのだろうか?

藤澤勇希「BMネクタール」(少年チャンピオン・コミックス全12 巻)、続き。その主人公が大阪弁のおもろい『イチビリ』少年という設定は、最初のエピソードでは大いに生きている。そこはいい。けれども続いたエピソードで、彼がわりと重くまじめな青年になってしまうので、なにわ要素が浮く。

藤澤勇希「BMネクタール」(2000-02)、続き。一貫して展開されるサイドストーリーで、BMと呼ばれる『資源=化け物』の開発者とその息子との葛藤、という要素があり。けれども、ほとんどクレイジーな父親に対し、つかず離れずの態度をとり続ける息子の心情、そこにあまり共感できなかった。

藤澤勇希「BMネクタール」、もう少し。父親像の弱さ、『父子の葛藤』の描写がシャープでない、ということは、主人公の側にも言えそうな感じ。主人公の母が、ごく短い出番でかなり強い印象を残しているに対し、父の方はどういう人物なのか、自分の読みではよく分からなかった。

藤澤勇希「BMネクタール」、結論。かの≪オイディプス神話≫をやたらに反復し続けることは、別に『いい/悪い』という問題ではなさげ。が、そうとしても今作の場合、その反復がことさら回避されているように読めることが、お話の印象を弱くしている感じあり。

藤澤勇希「BMネクタール」、余談。第1巻のカバーそでに、『愛犬 故・栃の嵐』というキャプションのついたわんこの写真あり。『無論「がきデカ」の名犬栃の嵐から、お名前をいただきました』 by 作者。ここがもっとも感動的だった、と言っては、皮肉っぽくも聞こえそうだが。



あと1つだけ、付け加えておくと。化け物≪BM(バイオ・ミート)≫のどん欲さと、われわれ人類のどん欲さ、ということが、2重写しで表現されていそうな今作。そういうものとして、りっぱに成り立っていそうな気がしないことはないのだが…。
けれどもこれが、手塚治虫先生が『まんがのなすべきタスクとは“風刺”!』と宣言なされたような風刺作品として、機能しそうな感じがない。それは何でかと考えたら、まず1つ、≪悪≫の描き方が弱い。
悪っぽく登場した人物らが、わりとかんたんに善っぽい方にころぶような展開が多い。悪の張本人かのような人物が、むしろ気の毒な病者のようにも見える。そこらに関して、『逃げている』などと断じたくもないのだが…その描いている『希望的観測』を、頭から否定したくはないのだが。しかしそこらが、今作のインパクトを弱くしている、とは言えそうなのだった。

2010/08/28

西田理英「部活動」 - もはや『触れること』はタブーを通り越して

西田理英「部活動」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「部活動(漫画)」, テニス漫画レビュー「新米教師と謎のクラブ活動, 西田理英『部活動』」

まいにちまいにち、とほうもない量のまんが作品が世に出ては消えていく現代ニホン。そのうたかたの流れの中で、ひじょうにたまたま自分の目にふれた今作、すなわち西田理英「部活動」。コミックブレイドとその関連誌に、2002~2006年あたり断続的にほそぼそと掲載。単行本は、ブレイド・コミックス全2巻。
…それを取り上げようと思ったのだが、しかし現在その本の第2巻が、自室の乱雑さのうたかたに呑まれてしまっ…。ようするに、あるはずなのだがめっからない。この惨状を『少しは』恥ずかしいと思いつつ、ともかくも始めてみると。

Wikipediaの説明が珍しくまとまっているので、作の概要はそちらをご参照(*)。何の部なのか分からないなぞの『部活動』、そのおかしな部員3人組の不条理っぽい行為ら、そしてその部の顧問になってしまった≪南部先生≫の苦悩を描くドタバタ劇。版元の宣伝文句だと、『部活動の概念を打ち破る、脱力系ギャグコミック』(*)。
古く「究極超人あ~る」から、おかしい部活動を描くギャグやコメディのまんが作品がいろいろあったけど、これは確かにちょっときわまり気味かも。『そもそも何の部なのか分からない』、という設定がハイパーだ。これに比したら≪あ~る君≫の属した『光画部』なんて、意外と万事にまともすぎっ!?

なお、おかしな部活を介しての少年たち(と青年)のじゃれあいを描く今作「部活動」は、筆者の感じだと、土塚理弘「清杉」シリーズ(*)に、わりとふんいきが近いのではと。読者にもっとも近いキャラクターが≪総受け≫をこなしながら(!?)、ツッコミもがんばる、というところで。
サッカー部なのにほとんどサッカーをしない「清杉」もあっぱれだと思ったが、『何部なのか分からない』は、もうひとつ越えたものがあるかも。かつ、さらにおかしな部活というと、きんこうじたま「H -アッシュ-」(*)に描かれた、その名も『包茎部』というのもすごかったが!

ところでそのような今作「部活動」の描く『部活動』が、ひょっとしたら≪部活動≫のエッセンスに迫っているような感じがなくもないかもと、筆者は感じた。
とは、どういうことかって。たとえば「清杉」だとサッカー部なわけで、試合や大会に勝つことを目的に活動していそうだが(じっさい勝つし!)。しかし、負けたらぜんぜん部活動が無意味になるかというと、そんなものでもない気配。単純な勝ち抜き戦なら1回戦で半分のチームが脱落するわけで、いきなり半分もが無意味では意味がなさすぎる。

では『部活動』の意味とは何かって、『そこでそれぞれが自分をきたえること』、などと、きれいごとを申してもよいが。…かの『包茎部』の部員しょくんさえも、それぞれが自らの包茎をきたえている(!?)らしいので。
だがしかし、きわまったところ部活動とは、それが『ともにあるための場』として『ある』というだけで、りっぱに意味をなし機能している、とも考えられてくる。

今作「部活動」の描いている部活動こそは、まさにそんな感じ。いちおう『活動』はなされているのだが――エイリアンへの対抗策を練ったり、山中でツチノコを探したりと――(!)。けれどもこの部の『真の』存在理由は、個性的すぎで孤立しがちな少年たちが、ともかくも『ともに』あれる場、というふうに筆者は受けとったのだった。
だから、というべきか、しかし、というべきか。部員の少年ら3人は、この部活を続けようという意思においては息がぴったりだ。…第1巻のカバー画で彼たちが、ともかくも1つの方向へ向かって走っているように。がしかし、その他の面において彼らは、とりわけ仲がよくもないし悪くもないのだった。そもそも彼らは、お互いのことをそんなには知らないような感じさえもある(!)。

そうした彼たちの関係性を示唆するものとして、第1巻のカラー口絵をご参照。部員と顧問の4人らがてんでに異なった方を向いて、そしてそれぞれにケータイ、ハガキ、糸電話などを構えている。
すなわち、彼ら全員がコミュニケーション的なことをしようとはしているのだが、しかし彼らは見ている方向ですれ違い、かつ手段(メディア)の違いによってもすれ違う。さらにこの部には、部員の数にあわせて3つの部室がある(!)てのが、また画期的でありつつ。

 ――― 「部活動」 第7話, 『部室掃除』の巻より(第1巻, p.81)―――
 顧問・南部『何で部室が 3つもあるんだよ』
 部長・赤井『現代社会に於いて 個々のプライバシーとは
 (中略)
 やがて来るであろう… 一人一部室の時代が!!』
 南部(モノローグで、)『来ねぇよ』

しかしそうしてプライバシーとやらを言いはりつつも、彼らはそれぞれ、まったくの独りきりではいたくないわけだ。どうにも現代人くさいその気持ちは、かなり自分にもわかる気がするのだった。

筆者も多少は利用しているツイッターというメディアがあり(*)、そのいわゆるTL(タイムライン)というものを見てすごす時間というのがあるけれど。この個人的なTLは、いろんな人がそれぞれにいろんなことを言ってるばかりで、ほとんどまとまりがない。
にもかかわらず、目の前に自分を含む何らかの≪コミュニティ≫があるかのように、錯覚できないこともない。そもそも何でお互いに『フォロー』しあっているのか、よくわからないような人も少なからずTL上にいるのだが、それもそれで逆にいい感じ。

一方の今作の描いている部活動は、そんなツイッターのように『バーチャル』なものではないけれど。けれども今作について何か書こうと考えたとき、真っ先に思い浮かんだことはそれなのだった。
Jamie Principle “The Midnite Hour”1992それとその逆に、やや関係ないような話をもふってみると。孤高のハウス歌手による歴史的超名盤とオレが考えるジェイミー・プリンシプル(with スティーヴ・シルク・ハーレイ)「ザ・ミッドナイト・アワー」(Jamie Principle “The Midnite Hour”1992)は、恋愛のような性交のようなことらを、すればするほど孤独感がつのる…という現代の地獄を描く。『あなたこそは、ぼくの一心に待っていた存在!(You're all I've waited 4)』と唄いつつ、ジェイミーのうめき声は悲痛さに向かって盛り上がるばかりだ(*)。

その描く苦悩と欲望の泥沼的な世界は、ハウスミュージック史の源初にあるジェイミー(with フランキー・ナックルズ)の超名曲『ユア・ラブ Your Love』(1985)の美しさと輝かしさが、くるりと裏返されているものでもある(*)。『いますぐあなたの愛が欲しい、もう待てはしない』という心情がそこで≪祈り≫として清らかに表現されていたものが、追ってその心情の内包するエゴイズム、さらにその自覚のもたらす≪不安≫、欲望あるものとして…欠けたものとしてあることの≪不安≫、等々が露呈してしまっている。
かつアシッドハウスというもの全般がそうかもだが、それはエイズの脅威がひじょうにセンセーショナルだった時代の表現物でもある。『触れるか・触れないか・触れたらどうなるのか』ということが、そこでは大いな問題になっている。

かってそんな時代(Early 1990's)、当時エイズと闘病中だった映画作家デレク・ジャーマンの展覧会というものを見に行ったら、使用ずみらしきコンドームや注射器らを彼のオブジェに塗りこめているので(!)、ナイーブな筆者はゾッとしたが。けれど現在、そのような表現のニュアンスが通じにくくはなっているように思える。いまのわれわれはその次の時代を生きており、もはや『触れること』はタブーを『通り越して』いる。でたらめ申せば、『タブーすぎるので禁じられてさえもいない』、のような。
それこれにより、もはやいまのわれわれは、動機が利己であろうと利他であろうと、そんなにまで『他者』を求めていない、または求めようという発想が抑圧されている、そんな感じ。…という≪ポスト・エイズ≫のこの時代において、2次元のイメージを『俺の嫁』にするのようなアチチュードは、少なくともあるていど適応的なのでは? それはポンプをブスッと肉に刺すようなヘビー・ドラッグがすたれて、もっとお手軽らしいMDMA(合成麻薬, エクスタシー)あたりが“イン”だネ、的なトレンドに対応したことともして。

(そろそろまったくの余談かもだが、そのEarly 1990'sに渡辺浩弐氏らが『コンピューターゲームはドラッグである』、ピュアな快楽の装置である、か何か宣言してらしたことは憶えている。それにならうならわれわれは、『“萌え”はドラッグである』、くらいは平気で言える)

といった状況下で。今作「部活動」の部員3バカの一角、ナルシストなお坊ちゃんの美少年≪青山くん≫の言うせりふ『ボク他人に 興味ないんだよね』(第1巻, p.155)は、ギャグでもありつつどこか(無意識)において、われわれの共感を呼んでいる。
しかしそのような彼でさえ、ほんとうに独りきりにはなりたくなくて、いろいろ都合をつけてまで彼たちの『部活動』にはげんでいるのだ。かくて、欠けたものとしてあることの≪不安≫に対する『薄まった療法』(効果も薄いが副作用も少ない)として、どうやら彼たちの『部活動』はあるのだった。



西田理英「部活動」第2巻とまで申して、いちおうまとまった気もするが。プラス記憶に頼りつつ、今作の第2巻の内容についても、ちょっとだけ『触れて』みようとすると…。

第1巻の第9話で、部室を3つももっているわれらの『部活動』へのジェラシーをもって、さらに立場のない『オカルト研究会』がケンカを売ってくる。そしてこいつらがまた、それぞれにへんな仮面をかぶってフードとマントをつけた、あっぱれな3バカトリオなのだが。
そして第2巻で明らかになることとして、オカルト研で≪フレディ≫を名のっているおバカさんの中身が実は、りっぱな変人でありかつ地味だけど、ちょっとかわいい女の子なのだった。で、あろうことか彼女は、こっちの変人の赤井部長に岡ぼれして(!)、どうにか想いを伝えようとするのだが…。

…するのだが、それがどうにも伝わらない、というドタバタラブコメへ、第2巻から作品のムードが変わっていた気がする。今作はもともと表現が少女まんがっぽいのだが、フレディが活躍し始めたらほんとうに、『少女まんがのストレンジなラブコメ』になっていた感じ。
だがしかし、他人を求めない主義であり『触れない』主義の総本山みたいなわれらの部長に、フレディの遠まわしすぎな告白が、伝わるはずはないのだった。何せ、もろにダイレクトなメッセージでさえ、ぜったいストレートには通じないのだからッ!

そして、もしも世の中にこんな男らしかいないのだとしたら、女の子たちには≪腐女子≫になるか≪ビッチ≫になるか、その2つの選択肢しかない。それらの処し方がまた、『欠けたものとしてあることの≪不安≫に対する、薄まった療法』でありつつ。
はっきり申せばフレディに関して、『あなたは腐女子になった方が、よっぽど心やすらかに生きられる』とは、伝えたいような気もする。かつ、赤井のような男とくっついたところで、続いてまた別のなんぎに遭うだけのような気もする。
けれどもフレディはあきらめはせず、そして彼女なりの歌声で、ジェイミーの“You're All I've Waited 4”を歌い続けるのだ。『触れること』を求め、少しでも欠けたものでなくなろうとして。

2010/08/25

高橋てつや「ペンギン娘」 - 『虹=二次』のグラデーション

高橋てつや「ペンギン娘」第3巻 
関連記事:高橋てつや「ペンギン娘」 - 萌えいずる、無意味なサイバー感!

人が『無意味、無意味!』と言い張っているところには、必ずや抑圧された≪意味≫がある、ありすぎる。そしてその意味を掘り出すことが、誰も聞きたくないような露悪的なへりくつになるんだけど、しかし。
すなわち関連記事において、この「ペンギン娘」について、『無意味である、無内容である』などと自分が言い張ってみたが。しかしパンチラレベルのライトなものであるにしたって、この「ペンギン娘」が性的な何かをアピールしまくっている作品であるのはまちがいない。その表現の仕方のところに、何かある。

その何かとは何かって、この作品は一方で明らかにエロをあおってもおりつつ、その一方、筆者がサイバー(笑)と言ってみたようなドライな表現と、そしてほとんど女の子しか出てこないというところで、読者側の興奮にブレーキをかけてもいる。その押し引きのバランス感覚が、一定の成功を収めているのかな、と、
で、自分としては今作のユニークさとして、『サイバー(笑)』の部分に注目したわけだ。『女子しか出てこない』は、こんにちだとありきたりだし。そして、女子のお尻ばっかりを追いかけている今作のヒロインが、内面的には男子、というかあっぱれなキモオタに他ならない…これもありがち。
(逆に言うと、現世に生きているキモオタの方々が、無意識において『自分は美少女である』、『自分は萌えキャラである』、と考えておられる。そして今作ら、女子らばっかしがじゃれあっているような作品らは、その事実を『反映』し、そこに迎合している)

そういえば今作で、お金持ちのヒロインのおつきで≪執事のセバスチャン≫という、たくましくたのもしい大男が登場するのだが。その彼の趣味が、なんと女装コスプレなのだった(第1巻・vol.08より)。
『執事』ってそんなものかも知れないが、彼は≪男性≫の枠から除外されている。彼の女装癖は、それを補助する演出だ。追って第3巻の巻末(vol.73)、そのセバスチャンは女湯に堂々と着衣で入り込んできて、全裸の少女たちといっしょに、まったくふつうにお芝居を進行させている(!)。それがあまりにさりげない描き方なので、さいしょおかしいとは思わなかったのが不覚。

『美少女だらけの女湯に、男性がチン入』ということがふつうはエロチックな事件なのに、われわれが見ている「ペンギン娘」の独特の表現は、そこからエロ味を脱臭しているのだ。ただし脱臭しきれてもいないわけで、残っているものが何か『ある』。また今作に限らず、『女装 - ふたなり - 百合』というグラデーションが虹(=二次)をなし、受け手の男子らの想像(=オレは女の子である、オレはカワイイ)がエスカレーション、という例のポイントはとうぜんあるけれど、まあ今回はこのくらいで。

2010/08/24

高橋てつや「ペンギン娘」 - 萌えいずる、無意味なサイバー感!

高橋てつや「ペンギン娘」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ペンギン娘」

まずいきなり反省文だけど、いつも自分がおかしいへりくつばっかりこねていて、すみまセーヌ川! 今回はそういうのなくて、かなりあっさりと終わるつもりなので!

さてこの「ペンギン娘」だけど、さいしょから最後まで女の子たちが(パンツ等を見せながら)じゃれあってるだけの、作者さまが言われるところの『ギャルコメ』。いわゆる萌え萌え系、らしきもの。2006年から1年半ばかり週刊少年チャンピオンに掲載、単行本は少年チャンピオン・コミックス全3巻。かつ、後で話題になるはずだが、その続編は「ペンギン娘MAX」として(…略。参考リンク先をご参照)。

別にどうでもいいような作品なんだけど、これは内容じゃなくてスタイルが面白い。実態は知りもしないが、いかにも『パソコンで描いちゃってま~す! ハイテック! IT! サイバー!(?) フューチャリズム!』というふんいきの画面構成が楽しい。
そこに盛り込まれた情報らの、質はぜんぜん高くもない感じだが(?)、しかしその密度がいかす。1回がたったの6ページにずいぶんいろいろなものを詰め込んでいるのだが、けれども『何を?』といったらほとんど何もない(!?)、その空疎さがゆかいだ。

たとえば。わりとスタイルが固まった感じの第1巻・第8話(仮称:花火大会の巻)の扉には、『vol.08』という通し番号がありつつ、しかも『037:浴衣=至高の日本文化』というサブタイトルも見えている。第8のエピソードだから『vol.08』はわかるとして、『037』は何かというと、それはエピソードらの中で分節されたシーケンスらの、全編を通しての番号なのだった。
が、そんな通し番号がなぜ必要なのか…ということもわからないし、そしていちいちゼロをつけて無意味にケタを合わせようとしているムダなデジタル感も、また過剰。さらには画面の床のところに『ペンギンCHECK』として、『浴衣:夏の萌え風物詩のひとつ、ウンヌンカンヌン』などと出ているバカっぽい豆知識もムダさをきわめて過剰!

と、はっきり申せばこの「ペンギン娘」は、1から10までムダ…。いや、0000から00FFあたりまでムダな情報ばかりな作品のような気もするが、しかしその『詰め込まれ感』が、ちょっと自分にはゆかいなのだ。それらがいちいち分節され、圧縮され、しかもナンバリングされていること、それ自体が面白いのだ。そしてともかくも見た目には、21世紀のまんが作品としてのフレッシュネスがそこには『ある』のだ。
という今作なのだったが、けれどもその無印シリーズは、たったの全3巻で終わり。『なあんだ』と思ったところで第3巻のあとがき(BONUS TRACK)を見ると、そこに作者さまから続編「MAX」のお知らせが。

 『(無印→MAXの、)一番の変化は、一話 ごとのページ数が 増えたこと』

それを見て、『マズいかも…』と思った筆者の悪寒は、不幸にも的中。無印ペンギンの、スタイルの面白さ、ごく短いページ数に空疎さが圧縮されている過剰さ、無意味きわまるサイバー感、それらの特徴を失った「ペンギン娘MAX」は、いたってありきたりなパンチラギャルコメになり下がった。
…ようにも思うのだが、そこはそれ、人それぞれの受けとり方がございましょう。と、放り投げて終わーる、ロワール川のさざなみに身をまかせて!

2010/08/21

ゆうきゆう+ソウ「マンガで分かる心療内科」 - 大好きSM、もしくは“DSM”讃歌

ゆうきゆう+ソウ「マンガで分かる心療内科」第1巻 
参考リンク:ゆうメンタルクリニック

この作品「マンガで分かる心療内科」は、もともとは実在の医院のサイトに掲載のPR&啓蒙用のウェブコミック(*)。それが好評によりヤングキング誌に掲載され、この20010年の初夏にYKコミックスとして第1巻が刊行されたもの。

…で、その単行本を見て、ウェブ版と比べ何か違っている気がする…と思ったら、題名がびみょうかつ大いに変わっている。いま確認したら、ウェブ版のシリーズ題名は、「マンガで分かる心療内科・精神科・カウンセリング」だ。
どうりで違和感のあったわけで、その内容のほとんどが明らかに精神科よりなのに、なぜか題名が心療内科オンリーになっている。

では、その『心療内科』とは何かって、さっきまで筆者もよく知らなかったのだ。そこで、とあるドクター様のブログ(*)を参照したところ…。
その『心療内科』とは1963年に、かの夢野久作「ドグラ・マグラ」でおなじみの九州大学の医学部から出てきたものだそうで。それはようするに『心身症』を診る科であって、そしてその心身症とは、神経症やうつ病を含ま『ない』のだとか。

 ――― 『メンタルクリニック.net:精神科と神経科と神経内科と心療内科』より ―――
『心療内科はあくまで内科の一種です。
心身相関という視点を取り入れることで,診断や治療においてより多角的なアプローチを可能としていますが,その対象となるのはあくまで過敏性腸症候群や気管支喘息,高血圧といった身体疾患なのです』(*

そうすると、つまりだ。『学校へ行け!』と言われると下痢をしちゃうとか、『家でゴロゴロしてないで働け!』と言われると心臓あたりが苦しくなるとか、そういう人々が世にはおられるようだが(ギクッ)。そこらを診るのが心療内科である、らしい(!?)。

というわけで、今作の題名の話に戻り。社会的なあれによって『精神科』ということばをさけたいのも分かるし、かつ題名をなるべく簡潔にしたいのも分かるが…。
にしても本書について、その主なモチーフが『精神疾患』・『うつ』・『ロリコン』・『妄想』・『認知症』、であるにもかかわらず、『心療内科』オンリーの看板が出ていることに、何の問題もないとは言えない感じ。『本当は“精神科”なんだけど、そこを婉曲に“心療内科”と言ってますよ』、というわけでありそうだが、しかしこの言い換えは、心療内科に関しての誤解をもたらすのでは?

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」第1巻まあ、題名の話はそのくらいにして。そして今作の概要はといえば、ナースの≪あすな≫と心理士の≪療≫クンというボケツッコミのコンビが、『「心療内科」の病気に関して とても優しくあたたかく 解説している{変態}マンガです』(第1巻, p.4)。…という引用中の『変態』の部分が、まるでサラ金の広告のいやらしいただし書きのように、小さくて読みにくい字になっている。
そう。あえて言うなら今作は、かの超名作・竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」(2001)の、精神科バージョンのようなしろもので。まずはお題に関し、精神的に残念なナースのあすなが、品のないボケを飛ばしまくる。そこへ療クンがツッコむのだ。

 ――― 第1巻・第2話『精神疾患になる原因って何?』より(自由気ままな要約) ―――
 あすな『そもそもどうして人は、メンタルの病気になるんですか?』
 療『あすなさんは、どうしてだと思いますか?』
 あすな『うーん… そうだ、“夫がずっと出張で さびしかったから”!』
 療『それは、浮気の言い訳だ!』
 あすな『さいしょからなりやすい素因のある人が、いそうな気もしますね』
 療『それもあるようですが、また別の重要な原因は、“かん○ょう”なのです』
 あすな『分かった! “浣腸”ですね!?』
 療『カンチョーじゃねえ! “環境”だよ!』
 あすな『鉄火巻きかと思ったら、みょうに甘ったるいのり巻きだったんです』
 療『それは、“かんぴょう”! 栃木の名産品だよ!』

というわけで、なかったネタも付け加えてみたが(サーセン!)、だいたいパターンはこんな感じ。このように今作は、かんじんそうな話をストレートに掘り下げることは『しない』、という点に特徴がある。で、少々無理にでもお話に、ギャグがチン入し挿入されている。
そしてその行き方をまちがって『ない』と考えるわけで、なぜならば『精神科にかかろうか、どうしようか』…というレベルの病者において、笑うことはひじょうに有効とされるからだ。もしも笑えるならば、なるべく“われわれ”は笑った方がよいのだ。
(筆者が職場で教わった『認知症対応マニュアル』にも、おかしなことを言いつのるお客さまに対しては、『コミュニケーションでうまいこと言いくるめ、気分を変えさせてみては?』、のようにあった。これがまた、『言うは易し』のきわまりだったが!)

そしてその逆に言って、今作を読んでみてため息をつくばかりで、ちっとも笑えない、むしろ『笑いごとかよ!』、のように感じられた方々におかれては、何らかの問題がないとも限らない。…いや、今作以外のまんがには大いに笑える、という場合ならばよいけれど!

ただ単に、ギャグが挿入されているばかりではない。今作はそのモチーフの精神疾患らについて、けっきょく深くを追求はしていない、という特徴をも有する。かんじんなところには強い記述がなくて、ぶなんにまとめちゃえ!的な傾きが見られる。
たとえば、この第1巻のちょっとした目玉でありそうな第4話、『ロリコンはどこから病気なの?』(p.29)から、その内容をざっと抜き書きすると。

 ――― 第1巻・第4話『ロリコンはどこから病気なの?』より、要約 ―――
【1】 精神医学の用語としては、ロリコンではなく『ペドフィリア(小児性愛)』が適切。
【2】 米精神医学界の診断基準『DSM-IV』は、ペド対象を『13歳以下』と規定。よって、14歳以上の異性が大好きな方々は、病気ではない。
【3】 同じく『DSM-IV』によれば、ペド行為とは『13歳以下との“性行為”』。よって、性交以外の行為に及んじゃったとしても病気ではない。いわく、『社会倫理的にアウトでも、精神医学的にはセーフ』(!)。
【4】 小児性愛の原因は、ようするに明らかでない。
【5】 ではその小児性愛の治療法はというと、まず薬物による性欲の抑制(!)、または施設への収容など、ひじょうに強圧的なものしか知られていない。
【6】 結論、『犯罪に走る前に メンタル(クリニック)か警察へ!』

それはまあ…。刑務所に行くよりはシャバで薬物療法でも受けた方が、まだしもいいかもしれないが。にしても、『もちょっとマシな療法が、何かないの?』とは、誰もが考えるのでは?
ただし、その症候によって本人と周囲の人々が大いに困っているのでない限り、ロリコンごときを治療の対象にするには当たらない。これはしっかり明記されているところで(p.38)、ようするにエロゲーや成年コミックなどを見て何とかできているくらいなら、精神科的な問題にはならない。

ちなみにいま出た『DSM-IV(精神障害の診断と統計の手引き・第4版, 1994)』というしろものの一般的特徴として、病因論などはシカトこいて記述的な症状(群)に病名を、言わば機械的に当てている。もっとはっきり言うと、そのDSMの第1版が1952年に現れやがって以来、精神分析に興味をもつわれわれは、遺憾の念なくしてその名を口にはできない。
何せそれのおかげで、まずは≪ヒステリー≫、続いては≪神経症≫といったわれわれの用語らが、ドクターたちのカルテから追放されてしまったのだから。それはすなわち、1950's以来のアンチ精神分析運動の象徴、そして向精神剤をバカスカ呑ませてオッケー的な精神医学の象徴でありつつ。

で、そのDSMが、しょーもないネタとして(!)、しかもそれしかないようなリファレンスとして(!!)、今シリーズには頻出するのだった。Web版には、こんなお話もある。

 ――― Web版・第6回『露出症の治療~どこからが病気?』(*)より ―――
路上であすながとつぜんに、露出狂とのぞき魔のペアに遭遇してびっくり! 走って逃げてから療クンにそれを告げたところ、彼はいたって冷静に、こんなことを言う。『医療業者としてもっと厳密に、“露出症”および“窃視症”という用語を用いましょう』。
さらに療クンはDSM-IVをひもといて、どちらにおいても『最少6ヶ月間にわたり』それらの逸脱行動があること、という診断基準を見つける。そして彼の観察によると、その変態たちの活動は最近5ヶ月のことなので(…なぜそれを知っているのか)、よって彼らは精神科的な病気ではない、と診断を下す(!)。
なおかつ露出症および窃視症について、その原因も分からなければろくな治療法も存在しない、というオチ方は、ロリコンの巻と同じ。そしてさわやかにあすなと療クンは、変態2人がパトカーで連行されるのを見守るのだった。

イエース、DSMサイコー! 精神医学バンザイ! 『ともに苦しむこと』などをしないならば、こいつはマネーメイキングとしてちょっとしたもんだぜィ!…なのかもしれない。

ところで本書の訴えるところとして、原作者のドクターが売りにしたいらしい『通院精神療法』の保険の点数が、近年にわたってダダ下がり、という現実があるとか(p.90)。その話は初めて聞いたのだが、しかしそれが、まったくもって意外なことでは『ない』。
いわゆる『精神療法』への評価の格下げは、DSMの普及(=腐朽)とアンチ精神分析運動にシンクロした、1950's以来の一貫した世界的な流れに他ならないからだ。どこかの誰かが、精神分析を激しく憎んでいるばかりか、多少なりともそれっぽい療法らの“すべて”を憎んでいるのだ。このことを知っていない“われわれ”は、いない。

で、彼たちにおそらく状況はきびしくなっているはずで、だからそのエピソードの冒頭で療クンは、『最近 ちょっとお金が 足りなくてね』と、さりげに(?)貧乏をアピールする。けれども療クンは、その点数評価の改訂を、『患者さんにとって やさしい料金設定に なってきているのです』と、むりにでも(?)前向きな話にしている。

それはつまり、『薄利』が強制されちゃっているがゆえの、『多売』に向かってのビジネス展開かッ?…などと、そんないじわるな見方はしないが! ともあれここは、ラカンが「テレヴィジオン」(1974)のどこかで『われわれみんなが力を合わせ』…等々と珍しくきれいげなことを述べていたにならい、日々の臨床をがんばっているすべての方々に、オレからもエールを送りつつ!

2010/08/15

横山了一「極☆漫 ~極道漫画道~」 - “本当のワシら”は、乙女じゃけん!

横山了一「極☆漫 ~極道漫画道~」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「極☆漫」

今作のタイトル「極☆漫 ~極道漫画道~」の読み方は、『ごくまん・ごくどうまんがみち』。2009年から月刊少年チャンピオン連載中のギャグまんが、単行本は少年チャンピオン・コミックスとして第1巻が既刊。

物語のヒーロー≪鬼ヶ島香≫は40歳の男性(独身)、ガシッとした体で眼つきは異様にするどく、ボーズ頭に鼻ヒゲ、ようするにルックスが超こわもて。そしてその見かけのまんま、彼の職業は武闘派暴力団『鬼ヶ島組』の2代目組長!
ところがこの人物には、知られざる第2の面あり。というか本人の言うによれば、『本当のワシ』という秘密のパーソナリティがあり。
いさいをはぶけば、ようするに『本当のワシ』とは≪乙女≫なのだ。花とドレスとスイーツ(笑)と少女まんがを熱愛する『本当のワシ』は、さらに≪ローズマリー香≫というペンネームで少女誌『花とまめ』に作品を投稿中(!)。特に仕上げがうまいらしい香は、彼のオモテの商売道具のドス(短刀)を用いて、トーンの『削り』を巧みにこなすのだった。

そして、そのローズマリー香が投稿者として格を上げ、やがて担当編集がついて、版元の『白湯社』にも出入りするようになる。しかし編集者は、電話ごしに香が男性だとまでは知ったが、まさかヤクザとは思わない。ゆえに彼の出現は、『理由がぜんぜん不明だが、少女まんがの世界にヤクザが押しかけてきたッ!』というショックでしか、受けとめられない。
そこで必ずドタバタ劇が生じてしまいつつ、しかし香は、ふしぎにちゃんと原稿を届けたり、プロのアシスタントをつとめおおせたり、版元のパーティに行って憧れの大作家のサインをゲットしたり…と、まるでサクセスロードを着々と歩んでる感じ(!?)なのがゆかい。題名同士が似ているだけにジャンプの「バクマン。」に対抗している感じもありつつ(!?)、そのゆかい&強引なお話の運び方は、ぜひとも実作でご覧いただければ。

ところでなんだが今作「極☆漫」について、これを読んで愉しんでいる“われわれ”すべては、それぞれが≪乙女≫なのだということは言える。香はキモいが、しかしただ単にキモいだけだったら、今作には読者がぜんぜんいなくなる。その姿が、ひそやか&ささやかにも『共感』を呼んでいるのだ…と見ないわけにはいかない。
さらに、物語の最初から香は、ランクが同じくらいの投稿者≪カモミール京子≫をライバルとして意識しているのだが。そうしてお話が進んだところで、鬼ヶ島組と対立する組織のボス≪龍ヶ崎京≫というこれまた顔の怖い男性が登場してきたとき、一瞬で『こいつがカモミールか』と知れる意外性の“なさ”に、われわれはむしろ驚く。

(香×京子のエピソードの続きをちょっと書いておくと、投稿者同士の2人が意気投合したことにより、組織同士も和解と協力関係に進む。そしてハッピーかと思ったら、しかしその合作は、ヤクザ世界の勢力図および警察関係に、激甚なるインパクトをもたらす! 香にしろ京子にしろ、“オモテの仕事”のヤクザ稼業を、そんなにうっちゃっているわけではないのだった)

と、そんなことを言っている筆者は、世紀の変わり目をはさんで約10年間、わりと熱心なりぼんの読者だったのだが。何でそうだったのかって、当時の自分が≪乙女≫だったんだろうな…と考えないわけにはいかない。それがいまでは、自分の中の乙女が衰弱してしまったらしく(泣)、少女まんがを読んでも『お話』として読めるだけだ。
また一方で、ちょっとアングラっぽい世界に、『百合』とか『ふたなり』とかいう趣向もある。かつまた、男子が読むための『ショタ』とか『男の娘』とかのジャンルも、びみょうに盛り上がっている感じ。そしてこういうねじくれた趣向らのすべては、つまるところで『オレは乙女である、オレはかわいい』という無意識の認識をさしている。ちなみに筆者のメイ言に、『萌えオタは萌えキャラである』、というテーゼもあってはみたり。

そういえば、また。今作の第1巻の結び近く、香たちを飛び越して≪斉藤ネロリ≫という新人が、『花とまめ』からデビューする。その完成度に圧倒された香が気になって、編集部での打ち合わせ直後のネロリをつかまえると、それがわずか11歳の、頭に“りぼん”をつけた活発な…というか、ひじょうに才気ありかつ生意気な女の子。
で、こいつらが、たちまち“なかよし”になるのはめでたいが(?)。にしても香から見てのネロリ(本名・斉藤音緒)は、『そうであってほしい自分の姿』(分析用語で“理想自我”)に他ならぬのだった。

そうして今作「極☆漫」の描く香らの活躍は、『オレは乙女である、オレはかわいい』という“われわれ”の無意識の認識を言わずと肯定もしつつ、あわせてそれを客観化している。心では≪乙女≫であって『かわいい』が、残念にも現し世の姿がキモオタだったりオッサンだったりする“われわれ”の姿を、それが反映として示している。
その『客観化』という作用のところでショックが生じつつ、そしてそのショックを“われわれ”は、笑いによって受け流すのだ。すなわち今作は、≪ギャグまんが≫であるのだ。

2010/08/11

月山+伊賀「エリアの騎士」 - てっとり早く≪症状≫を抑制しても

月山可也+伊賀大晃「エリアの騎士」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「エリアの騎士」

2006年から少年マガジン連載中のサッカーまんが「エリアの騎士」は、亡き天才選手の兄の遺志をついで、弟が奮闘しちゃうようなお話。単行本は、KC少年マガジンとして第21巻まで既刊。
これを筆者は第10巻くらいまでしか見てないし、かつ正直なところ、サッカーまんがとして面白いのかどうか…ということがよく分からない。ただちょっと気になったところを、ここに手短に書きとめておきたい。

今作「エリアの騎士」には、本格サッカーまんがとしては、ひじょうに珍しい点があると考えている。それは作品の底流に、心理(医療)サスペンスの要素があるところだ。それはどういうことかって、これはネタバレじゃないと信じて申せば。
お話の最初に、U15代表選手の天才ミッドフィルダー≪傑(すぐる)≫と、そのさえない弟の≪駆(かける)≫、という兄弟が登場する。兄の信ずるところによれば、駆クンもまた素質じゅうぶんなのだが、しかし惜しくもハートの部分に何かが足りない。
で、この兄弟が、不運にも交通事故に遭い、兄はあっさり死んでしまう(!)。そして弟は、兄からの心臓移植を受けて生き残る。
生き残った駆は、やがてサッカーを再開するのだが、しかし『何か』が変わった気がする。つまり兄の心臓を媒体に、傑のハートの強さを受け継いだような気がする、というわけだが。

そうして筆者が気になっているのは、その要素。『兄から弟へ、強いハート(心臓)がパスされた』ということが、このお話の中で、どれだけの重みをもつのか、ということだ。それを筆者の独断とは思わず、作品自体がそれとなくもあおっているところだ、と考えながら。
さてこのお話の中に、≪峰綾花≫という『臨床心理士, カウンセラー』である若い女性が、ちらほらと登場している。さいしょは兄が負傷した時のメンタルケア要員として現れ、次には兄をなくした弟をケアするために出てくる。
で、この人物がほとんど面白半分に、心臓移植にともなって、兄の人格(か何か)が弟に移転してるような話を無責任にあおるのだ。その要素へと、自分はつられ気味なのだった。

 ――― 月山+伊賀「エリアの騎士」, 『#7 心臓』(第2巻, p.77)より ―――
意識不明の弟を、兄弟の幼なじみのヒロイン≪美島ナナ≫が病室に見舞う。すると、正体不明の美女である綾花が駆につきそっている。彼女は自分の身分も名前も告げないままに、こんなことをナナに言う。
 『彼‥あなたの 声を聞いて 反応したのよ 心臓が大きく どくんって‥‥
 ねえ 美島さん どっちだと思う? あなたの声に 反応したのは』
とだけ言い捨てて、綾花はかってにその病室を去るのだった。『なんなの あのヒト』…と、ナナはあっけにとられる。

このしわざをはじめに、筆者には綾花が、まじめに『治療』的なことをしているという感じが、ほとんどしないのだった。自分は『臨床心理士』って何なのかほとんど知らないのだが、おおむねこういうことをしてるのだろうか?(…まさかねえ)
だいたい綾花のしていることは、≪精神分析≫に興味をもつわれわれ的に、まるっきりふに落ちない。『治療』の手段という名目で彼女は、やたらクライアントの手を握り、かつ『ハグ』ということをする(第2巻, p.87)。ところがわれらの精神分析は、『ハグをしない』ということを出発点として生まれたものだ。

そして綾花がしているような、身体接触による『治療』とは何なのかを正しく申せば、それは催眠術療法の末流に他ならない。いやむしろ、精神分析以外の『心理(的)療法』は、そのすべてが催眠術の末流かと考えられる。そして催眠術療法は『治癒』をなしえないとするのが、われわれの立場。

もう少し補足すると、われらのフロイト様もまた(ご存じのように)、初期の臨床では催眠術療法を行っていた。そしてクライアントが暗示にかかりにくい時には、声かけにプラスして身体接触を行うとグッド(!)…などということを、とくいげに報告していた時期もあった。
ところがそれの弊害があれこれ大きいし、しかも催眠術は症状を一時的かつ強圧的に抑えるだけと知って、違う方法を模索した結果、フロイトは分析療法を編み出した。むしろ彼はその方法を、クライアントらによって教えられた。ところが現代の『臨床心理士』やら『カウンセラー』やらいうスマートそうな肩書きの方々は、てっとり早く症状を抑制しようか何かで、平気で逆行ルートを進んでおられるのだろうか?

ま、まんがに描かれた根も葉もないお話から、あんまり広げても何だけど…。そこでこの「エリアの騎士」を、まんが作品として眺め直すと、やはり綾花の立ち位置が不明瞭なことが、筆者の心証をかなり悪くしているのだった。まるで彼女は、『心臓移植によって人格ののり移りが起こる』ということを確認だか証明だかしたいがために、その後の駆たちにつきまとっているようなのだが。
が、そんな態度が『治療者』としたら不まじめすぎで不ゆかいなのは言うまでもない上に。そして今作が『サッカーまんが』であるとすれば、その心理サスペンス的な興味がしつこく継続的にあおられていることは、あまりに過剰ではなかろうか? …そうでもないのかな…?
堕文のさいごに好きかってな想像をあえてすれば、『兄貴のハートをもらったから、“全国”優勝しちゃったぜ!』とまでお話が進んだところで、『実はその心臓は、違う人のなのよ』という大ドンデン返しがあったら面白い、かも。なぁ~んて!



いかなる作品でもひとつくらいはほめておく、という自分の主義から申し上げると、今作では、チームメイトで下品とセクハラを一手に担当している≪公太くん≫の活躍が面白い。つか、彼が登場していなかったとしたら、今作はまんが的にどうしようもなくなる。作中で彼の演じている『コミック・リリーフ』があまりにも有効すぎる、それで(いちおう)よいわけだが。

2010/08/09

久保保久「よんでますよ、アザゼルさん。」 - いつでもどこでもギャグマンガ!

久保保久「よんでますよ、アザゼルさん。」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「よんでますよ、アザゼルさん。」

話題の作品「よんでますよ、アザゼルさん。」は、2007年よりイブニング連載中のギャグまんが。悪魔を使役する町の探偵≪アクタベ≫と、その助手のバイト女子大生≪さくま≫、そして悪魔≪アザゼル≫らが演じるドタバタを、劇画っぽい画風で描く。題名中の『よんでますよ』とは、仕事にまったく気乗りしないアザゼルを、アクタベたちが召喚してるの意。単行本は、イブニングKC第4巻まで既刊。

これについて、自分の興味あるところだけ紹介して、スパッと終わってしまおうとする。…なぞの人であるアクタベ探偵の呼び出す悪魔に、いつも出てるのが2匹いるのだが…。

そのまず1匹は、題名に出ているアザゼル。彼は現世ではちびっこいイヌのような姿になっており、話し方は関西弁で、その言動は下品とセクハラのかたまり。で、その悪魔としての特殊能力は、『淫奔』。任意の人間の性的魅力を、超きょくたんに高めるようなことができるらしい。
そのもう1匹は、『蝿の王』として有名なベルゼブブ。『魔界の貴族』を名のる彼は、人間界では18世紀風に正装したペンギンの姿になっており、ことばもきれいでものごしは紳士的。がしかし、その本質は便所バエ! …あまり説明したくないが、ようするにたいへんなるスカトロ変態者に他ならない。で、彼の特殊能力は、『(いつでも即時、)強制的に生物の脱糞を促す』。

と、するとだ。われらがアザゼルとベルゼブブの活躍するところ、いつでもどこでもエロとスカトロのカーニバル空間になりうる(!)。あらゆるシチュエーションであらゆる人間どもが、出し抜けにもうれつにさかったり、必死でケツを押さえながらトイレを探して駆けずり廻ったり…というシーンを拝むことが可能となる(!)。
という、そのことを想像してちょっとはゆかいになれるような人でなければ、たぶんギャグまんがなどを読んではいないだろう。永井豪「ハレンチ学園」(1968)以後のギャグまんがのあり方を、『チンコ-と-ウンコ』という2大シンボルに集約させる大胆な見方があるが、これはそのさわやかな行き方を、ちょっぴり大人っぽいアプローチで描いた作品かと見れる。

(どうでもいいようなことも付記しておくと、『チンコ-と-ウンコ』のそれぞれをラカン用語で言い換えれば、『ファルス-と-“対象a”』。だからどう…ということをいまは申さないが、それらがきわめて重要な概念らしいのだった)

でまあこの作品、そうした『チンコ-と-ウンコ』がばくはつしてる的なところは、ひじょうに面白いと思う。がしかし、まいどいちおう『お話』になっているこの作品の、エピソードの終わり方が、まいど後味よろしくない感じも? いちばんさいしょの物語にて、アザゼルのとんちで超むりやりに依頼を解決したさくまが、まさに『後味わるい――』と叫んでいるように。
(第1巻, p.23。『夫の浮気をやめさせて』という妻からの依頼。アザゼルが魔力で夫を性的不能にしたので、浮気は止む。がしかし、その不能が原因で、やがて夫婦は離婚してしまう!)

悪魔どもの活躍はアナーキーとカオスの大ばくはつを志向しているけれど、しかしその飼い主のアクタベは、きわめて現世的なところに、表面的には『依頼を解決した』というかたちに、ドタバタの落しどころを設営しようとするのだ。そしてアクタベは、よくもはっきりとさくまに向かっていわく、

 『悪魔の力を 借りても 幸せになんぞ なれん』(同)

…するとアクタベは常に、“知っていて”クライアントらに見せかけの解決を与えているでしかない。言わば、『催眠術的』に。
まんがの世界で、一方にアナーキーとカオスの発生をドカンと描いてさわやかに終わっちゃうギャグまんがもあれば、またその一方に、とほうもないことを無理やり『いい話』にまとめている作品もある。そして今作「よんでますよ、アザゼルさん。」は、いやな意味での大人のリアリズムをギャグまんがの世界に持ち込んで、そこで毎回のお話をまとめているのだ。

Sex Pistols “The Great Rock'n'Roll Swindle”(1978)すなわち、闇のヒーローであるアクタベは、善人か悪人かという以前にまずビジネスマンであり、そして『可能ならば、“チンコ-と-ウンコ”からでも利潤を引き出す』、という資本主義の理念を貫いているのだ。『チンコ-と-ウンコ』が大暴走することは反社会的なのでショッキングかつゆかい…と考えるわれわれ、その裏をまんまとかいてくれやがるのだ。
これをパンクロック的に申すなら、21世紀の『偉大なるロックンロールのペテン』、カオスからキャッシュをつかみ出す超荒わざの再現かッ(!?)。で、そういうまったく『大人的』な視点の顕示されているところが、今作独自の味わいではあるかと。



なくもがなの追記。今作の第1巻を買ったころ、筆者はふつうに、『作者さまのペンネームは久保保久、くぼ・やすひさ』…とだけ思っていた。それで読み方は合ってたみたいだが、しかし『名前が回文』というシャレの存在には、しばらく気づけなかった。…おニブだからっ!

もひとつ。今作の第3巻の末尾あたり、悪魔と悪魔っぽい人のたむろする探偵事務所のつとめに疲れたさくまが、大学のオタクサークルにからんでコスプレメイドのアルバイトを…というお話あり。しかし筆者はそこらを見て、『おたく様たちのキモさを笑うという方向性は、ギャグまんがとしてはチープ!』、と感じた。はっきり申せば、『またかよ』と。
でもまあ、そこでも作品の姿勢は一貫してて、つまりキモオタ様らはひじょうにキモいけど、しかし大した悪ではない感じ。が、それに対する悪魔連は、キモさを通り越している上にりっぱな悪である、と。

しかもそうでありつつ今作は、どちらかといえば悪魔どもの側に、読者の共感を誘っているふんいきがある(!)。それはショッキングなことだが、しかしおかしくはなくて、なぜなら≪悪魔≫とは、いつでもいわゆる『人間性』の側によりそうものだからだ。
すなわち。≪悪魔≫のお話を追っているつもりで、いつしかわれわれは、自分の中のどん欲・怠惰・ごうまん不そん…等々というものを見せつけられてショックをこうむり、かつ、そこに生じてしまったありえざる共感を≪抑圧≫する。それはそういうものなのだが、しかしその説話パターンをギャグまんがに描いた先行作がちょっと思い出せないので、やはりこの創作はユニークだと言える。

2010/08/07

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」 - やっぱ男の子は…どうなのかといえば

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」第2巻, 竹書房 
関連記事:ラベル「三ツ森あきら」

かって1990'sの大名作だった「LET'Sぬぷぬぷっ」と、今21世紀の関連シリーズ「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」。この記事では後者(略称・「SA」)について、ちょっと小さいところを見ていこうかと。

その「SA」第2巻のカバーを見ると、われわれには超おなじみのキャラクター、かって「大文字のLET'S」のシンボルだった≪スシ猫くん≫の姿が! …と思ったらそれは、『22世紀の未来からやってきた猫型ロボット』、≪エロえ悶≫という別名&別の設定で、この「SA」にご出演なされているのだった。
で、そのエロえ悶くんは、のび太君ならぬ≪ネバ子ちゃん≫という女子大生の家に住み着いてて、何かしらお手伝いをしようとしている感じなのだが。
(≪ネバ子≫といえばギャグまん通のオレとしたら、土田よしこ大先生のりぼん掲載作「ねばねばネバ子」ってお作を想い出すけど。でも、別に何の関係もなさげ!)

ひとつのお話を、ご紹介。ある日、みょうにメガネの似合ってるネバ子ちゃんが自室で、意中の男子への誕生プレゼントを何にしようか…と、悩んでいる。お寿司を食しながらその相談を聞いたエロえ悶は、何のためらいもなく、

 『やっぱ 男の子は 女の体が 一番喜ぶと 思うよ』

と、あっさり言いきりやがる(「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」第2巻, p.96)。

…まずは関係ないところに目をつけておくと、エロえ悶の前世がスシ猫くんなだけに、彼がお寿司を食べている場面がよくあるのだが。
だがしかし、いつもそれでは、ずいぶんコストがかかってる感じだ。≪オバQ≫以来の居そうろうキャラクターとして、もっともぜいたくなのでは? …とま、それはいちおう見ておいて。

と、そのように、無意味に正しいエロえ悶の意見を聞いたネバ子は、『体じゃないよっ 心だよっ!』等々と、反論してけつかる。そして、相手の気持ちになって、ほんとうに喜ぶものをプレゼントしたい、的なことを言う。
そこでエロえ悶は、ご本家ドラえもんのまねをして、あれと似たような手つきで、未来のべんりアイテムらしきものを出してくるのだ。

 『オナリタ イーン!
 男の子の気持ちが わかるようになる 薬だよ』

で、そのタブレットを呑んだところ。たちどころにネバ子の股間から、男子の持つようなそれが、『ニョキ ニョキ』と生えてきてしまう。彼女のはいているスカートを持ち上げて、やたらとたくましいその姿を顕現させる。
すると、さいしょは『キャ―― 何コレ――』と叫んでびっくりしていたネバ子だが、やがて『あ――っ』と叫びながら、その“もの”を『シコ シコ シコ』と、自分でどうにかし始める。そして彼女は、この崇高にして高尚なる場所(笑)には書けないようなことを次々と口走ったあげく、

 『やっぱり プレゼントは 女の体が 良いかも――』

という結論を得るのだった。そしてそのありさまを眺め、『だろ』とだけ言い捨てるエロえ悶くんの、冷たい目つきとその機体のテカり具合いが、オチのところでみょうに印象的でありつつ。

…われらがフロイト様の尊きご理論によると、幼児の発想として『ペニスは付け外し自在のもの』であるという。さもなければ、ペニスをもたない者たちの存在が説明つかないからだ。
そしてご理論の大基本として『幼児の発想』あれこれを、人間たちは心の奥底で死ぬまでキープし続ける。そこらをへいきで否定できる者たちを、偽善的とか愚劣とか自己欺瞞のきわみとか、言ってみるも時間のむだでしかないが。

いや、まあそんな、≪理論≫がどうたらの話はやめて。男子の外性器というものが、一種の寄生虫みたいな“もの”、自分に対して外部的な“もの”なのではなかろうか…それの存在によって、自分が不自由になっているのではなかろうか…ということは、自分も思うことがある。
じっさいに男子の外性器を失ってしまった男性たちは、少なくとも『男子的な性欲』からは、自由になられているご様子だ。物理的“去勢”まではいかずとも、渡部伸「中年童貞」(扶桑社新書, 2007)という本をパラ見したら、『性欲から自由になるため、自分に女性ホルモンを投与してみた』(!)というお話が紹介されていて、それには意表をつかれてびっくりした。で、体験者はその≪自由≫の境地を、わりに快適だったように言われるのだった。

そして、われわれが見たエロえ悶くんの、エピソードの末尾の冷静きわまる態度。それがおそらく『男子的な性欲からの自由、という境地』からのものでありそうとは、彼の股間に性器的なものの描写が『ない』ことから知れる。
お話のたびにエロえ悶はいちいちエロいアイテムを出すけれど、しかし彼本人はまったくエロくない。これはどういうことかって、むしろ彼が自分から取り外してしまった“もの”が、(ひじょうにしばしばペニスを模した)彼のエロアイテムになって、そしてネバ子にくっついたりネバ子の中に挿入されたりしているのでは、と思える。そしてその使用されるありさまを、われらのエロえ悶くんは、きわめて冷静に眺めるのだ。



追記。上までで、いちおう話はまとまっている気がしているが(錯覚)、補足的なことを少し。
そして以下しばし、ひじょうにお品のないことを書いちゃうかもよ、とお断りさせていただいた上で。『かもよ』じゃなくてほんとにお下劣なフレーズを書いちゃうけど、いや別に見なくてもいいようなことだが、しかし以下を述べとかないと自分がお偽善的になっちゃう気がするので…と、そういうことで。

で、それも一種の≪ギャグまんが≫かもしれない、みさくらなんこつ大先生が≪ふたなり美少女≫を描くようなお話と、さっきご紹介したお話の共通性ということが、ないとも思えない。そっちのお作品たちで、おペニスをそなえちゃってる女の子(たち)が、『あひぃいぃ、お、おセンズリっ! マスコキっ! おチンポでっ、おセンズリ、かきたいれしゅうぅぅうう~!』等々と吠えまくってのたうちまわる、あれ的な。
筆者には『ふたなり』というネタを見ての性的興奮ということがぜんぜんないが、だけどそのような、みさくらキャラクター(たち)の痴態・嬌態・狂態に、ショックを受けつつの共感、ということはある。ようするにそれ(ら)は、お男子である“われわれ”のこと以外でない。

2010/08/03

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」 - 『護憲派』ヒロイン、爆誕っ!?

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「マイティハート」

以下で話題の「マイティ・ハート」(正しい表記は「マイティ♥ハート」)は、2007年から2009年まで週刊少年チャンピオンに掲載されていた、『SF特撮のパロディ+ラブコメ』くらいに形容できそうな作品。作者・マツリセイシロウ先生の最初のまとまった創作であり、単行本は少年チャンピオン・コミックス、全7巻。
で、これに対して、まるでプリズムのように…もしくは、しんきろうのように…なんて表現はきれいすぎだが。そうとしてもこれは、見る人によってずいぶん印象が異なる作品なのでは…という気がしている。『こういうものだ』と、かんたんには言えない感じ。

まず。第1巻のカバー画を見ればそっこうで知れるように今作は、むやみと巨乳な異装のヒロインが、やたらパンツをチラ見せしながら活躍する、『ちょっとエッチなドキドキ禁断ラブコメディ(表4のアオリ)』、ではありそう。それは、いちおうまちがいない。
だがしかし、『Hなラブコメ』というジャンルへの一般的な興味に対して、これがまともに応じ(きれ)ているものなのか…ということが、筆者にはよく分からない。もっとふつうに言うと、『Hなラブコメ』として成功しているものである、という気がしない。
それこれいろいろと考え廻し、『今作はこうである』ということがあまりにも言いにくいように思ったので、むしろ先にお話の概要を述べた方が、まだしも分かりやすいかもしれない。

ではその第1話、『怪人ミーツ少女』というお話から見ていけば。今作のヒーローたる≪怪人ヴァルケン≫は、たぶん地球征服をもくろんでいそうな悪の組織の幹部。何かちまちまと大小の悪事を働きつつ、しかしふだんは一介の地味な高校生≪天河くん≫として、現代日本の社会に潜伏している。
で、ある日。その彼のクラスに『すげえ美少女』が転校してきたので、男子らはキーキーと大騒ぎ。ところがその少女≪舞島心≫は、きゃしゃな姿に似合わぬ大音声で『やかましい!!!』と、軟派な男子どもを一喝! りりしいところを、出し抜けに見せてくれる。
内心で硬派をきどっている天河くんは、そこで『逆に』、心へと興味をいだく。…が、心は、彼をバカ男子らとまったく同様にあしらい、そして『お前 うるさいぞ』とたしなめてくるのだった(!)。

というできごとに小さからぬショックと怒りと屈辱感を覚えつつも、同じ日にヴァルケンは部下たちを連れて、『悪事中の悪事 幼稚園バスジャック』という作戦行動へと向かう。だがそこに、彼たちの悪事をじゃますべく、『断罪天使マイティハート』を名のる正義のヒロインが登場!
それがただ単に登場したのではなく、まず巨乳とパンチラという『部分対象』から出現している…とも書いておかなければ、やや偽善的な紹介になってしまいそうでありつつ。そして≪ヴァルケン=天河くん≫は、遠目にマイティハートの姿を見て一瞬で、『あれは… 舞島…心!!』と、その正体を超あっさりと見ぬいてしまう(!)。
しかもそれは、別にヴァルケンが目ざとかったわけではない。むしろ以後ずっと、マイティハートがその正体を、隠すことに成功した例はない(!)。よって舞島心がマイティハートとして、わざわざ恥ずかしいコスチューム姿で人前に出ていることには、『何の意味もない』…とも言えないのが、今作のひとつ面白いところ。それがなぜかは、いずれ述べよう。

で、この初登場時。とうぜんのように『高いところ(=倫理的な高みを含意)』から現れたマイティハートの口上を、ちょっとご紹介しておくと。

 『貴様らの狙いは わかっている!
 徒党を組み 混乱を招き
 憲法9条を 改憲する つもり だな!!(ビシッ)』

それを聞いたヴァルケンは、内心で『護憲派――!?』と言い返しながら、『ゴゴーン』とショックをこうむる(第1巻, p.12)。と、ここに、まんが史上でおそらく初めての…。初めてじゃなくともたいへん珍しそうな『護憲派』のスーパーヒロインが、超カッコよく(?)爆誕したのだった。

という場面を見て筆者が、たいへん強い印象を受けた、ひじょうにうけた、とは明記いたしたい。この作品が筆者に対し、序盤のここで大きなポイントを稼いでくれた、ということを書いておきたい。
てのも。『悪 vs.正義の闘い』的なお話たちが、ほんっっとうにくさるほどある中でも、悪と正義との間に≪憲法≫を置いてくれた作品というものが、たぶん今作以外にない(…ポリティカル・フィクションのようなものは除外し)。
だから、ここでヴァルケンが『ゴゴーン』とショックを受けた理由をも、ちょっとは考えてみるべきで。それは相手が正義の味方にしても、≪憲法≫を持ち出して自分らを責めてこようとは、あまりにも予想外だったから、では?
ヴァルケンらに限らず、自覚的に悪事をなしている者たちは、自分らが『刑法』に触れていて警察にケンカを売っている、とまではおそらく自覚していよう。だがしかし、自分ら(の所業)が≪憲法≫に対してどうなのか、なんてことは考えていないように思われる。…とわれわれが考えるのでなければ、ここでヴァルケンが『ゴゴーン』とショックをこうむる、という今作の記述がすべってしまう。

いくら正義の味方にしたって、≪憲法≫を背負って闘うヒロイン(&ヒーロー)なんて存在は、これまで『むしろ』なかったのだ。しかも、そこらから逆に考えてみると、むやみやたらに自己判断で実力を行使する『正義の味方』のようなしろものが、はたして合法的な存在なのか?…という疑問も生じてくる(!)。
そうと見れば、このマイティハートの口上は、特に誰の信託をも受けてもいないのに『正義の 刃で罪を 断つ』、と宣言している彼女(たち)の存在、それ自体をあやしく、あやうく、そして戯画っぽくしてしまっている。ゆえに、いままで≪憲法≫ということを語った『正義の味方』などはいなかったのでは?
だいたい、話題の『憲法9条』の記述がどうかというと、

『第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』

…とあるわけだが。これの前半の、『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求』とあるところには、かなり多くの人々が共感できそうだとしても。しかしその『正義と秩序(中略)国際平和』を、いかにして実現しようか…というところに、あまりいい考えが誰からも出ていない。めんどうな話になりすぎるので、ここらはそんなに掘り下げないけれど。

そこで、あえて議論の飛躍をよくすれば。…正義とは何であろうかという問いかけ、そしていかに正義を実現しようか、さもなくば最低限、いかにして悪でない側に廻ろうか、という課題の存在。それらは、こんにちまでのいわゆる『戦後日本』の体制、その誕生の時点に生じて存在し続けている≪外傷≫に他ならない。
そしてよくある『正義の味方』たちの活躍を描くお話らは、その外傷の≪抑圧≫に貢献している。われわれがその外傷を(無意識へと)抑圧したいので、『正義とはどういうものか?』という問いを避けた『勧善懲悪』の明快そうなお話たちを、われわれは歓迎してきたのだ。

ところがマイティハートの過剰なる口上は、そのわれわれの≪外傷≫を、むじゃきかつ無慈悲で無意味にえぐり返しているのだ。かつその所業は、直前のエピソードで心が天河くんの『硬派きどり』という心理的な構えを、超あっさりと崩壊させた、その『頭から一刀両断!』のやり口の≪反復≫でもあり。
ゆえにそれは、≪ギャグ≫として機能する。そしてここでも確認しておくと、筆者が≪ギャグ≫と呼ぶものは『外傷的ギャグ』だけでありつつ。

ここでぜんぜん関係ないようなことも述べておくと、マイティハートとは異なるスーパーヒロインを描いた作品として、われわれは種村有菜「神風怪盗ジャンヌ」(1998)を知っている。そしてネタバレにならないよう慎重に申すのだが、その作品の描く≪ジャンヌ=まろん≫は、『闘う正義のスーパーヒロイン』なんて存在を、自ら撥無している。
彼女は『正義を守る』というタスクを(ふつうの安易な仕方では)実践しないばかりか、まず自分自身さえ『をも』守らない。『剣はいらない 平和主義者 だもん』というその決定的なセリフくらいは、ぜひとも引用させていただきたいところだ(「神風怪盗ジャンヌ」, 最終話より)
そしてはっきり申せば、『闘う正義のスーパーヒロイン』などという物語系列で、これに何かをつけ加えたものは、いまだない。以後はパロディ、それも、特に笑えるところもないようなパロディにすぎない、くらいに言ってよさげ。

で、そのようなジャンヌがあった上でマイティハートは、言わば『正義主義者』として、かつ何のためらいもなく悪に対して剣をつきつけるスーパーヒロインとして登場しつつ、しかも『護憲』的なことを言いたてる、というわけのわからなさ。
この状況下で『護憲』を主張することが何か消極的、もしくは微妙にもぬるま湯的で現状維持的な感じ、かといって『改憲』の側にもまったく空疎な勇ましさしかない。どうしたものか…というわれわれ多くの認識(らしきもの)とはまったく関係なく、われらのマイティハートは、『正義』の実力行使と『護憲』とを、ぜんぜん平気で直結してくれる。それがまったくの矛盾であることは、まったく別のやり方で、『“闘う正義のスーパーヒロイン”などという存在を自ら撥無』、というジャンヌのしわざを反復している。
もちろんそれは、『2度目は喜劇として』、というやり方で反復されているのだ。すなわち、そこでやっと笑えるパロディの誕生があったのだ…とまで言っては、ちょっとほめすぎなようだが。

話の先取りになってしまうけど、われわれは単に『正義』を話題にしているのではなく(そんなことに大して興味がないし)、『女性として』正義っぽいことにかかわって活躍している…そのようなヒロインたちを見ているのだ。そして、まず先行したお話のヒロインたるジャンヌ(=まろん)は、『女性である』という自覚をきわめたときにこそ、ひとつの葛藤を乗り越えることができた、と描かれている。
で、その約10年後に出たマイティハートは、それの安易でないパロディ作品になっているように思える。すなわち、非-ジェンダー的に『正義』を執行しようと意図しているヒロインが、なぜか見た目にはあからさまに『女性である』、と言うよりもそれでありすぎる、という性的な記号の現前でしかない(!)。
これはスーパーヒロインたちの通例が踏襲されているのでもあり、ジャンヌもそうだが≪セーラームーン≫とその亜流たちが、なぜかことさらに挑撥的なかっこうで登場していることには、りっぱな理由が『ある』。そしてわれらのマイティハートという存在は、そうした無意味そうな≪挑撥≫を、超ことさらにきわめているのだ。そうして彼女が、どうなってしまうのか…等々のことは、追って述べられよう。とまでを申して、続く。



続く、という文字列を打ってから、超・蛇足的な言いわけ&ごあいさつを。
このようにわれわれは、マツリセイシロウ「マイティ・ハート」なる創作の出だしのところに、たいへんシャープな≪ギャグ≫のさくれつを見た。これに限らず、そのようなものたちがあればこそ、筆者が今作について、この堕文を書いているのだ。
ところがこの作品が、トータルで≪ギャグまんが≫と呼べるものだと筆者には思えないし、かつそれは、悪と正義の闘いを『改憲 vs.護憲』として描いているものでもない。憲法がどうこうなんて話題は、冒頭のここに出ているだけだし。
そして、じゃあこの作品は何なの…ということは、おそらく“誰”も言えていないと思う。ま、ようするに今作は『ちょっとHなラブコメ』…その言い方で十分だと思う人にとって、それはまったくそうなのやも知れず。
が、単なるそれではないような、と感じているわれわれが、その有する『また別の』過剰さに注意しようとしているのだ。が、そうとはしたってこの堕文は、まだその第1話の前半までをしか見れていない(!)。…というていたらくを心そこからおわびしつつ、次回にご期待あれ…っ!