2010/10/31

「手塚治虫のマンガの描き方」 - 手塚治虫のまんがの≪ギャグ≫論

手塚治虫漫画全集「手塚治虫のマンガの描き方」 
参考リンク:Wikipedia「手塚治虫」

これはどういう記事かというと、ほとんど自分用のメモで。「手塚治虫のマンガの描き方」(原著・1977, 手塚治虫漫画全集 MT399)に出ている手塚先生のギャグ論を、ちょっとまとめておこうというもの。

いや、なんでそんなことを思いついたかというと。もともと興味深いものではありながら、そしてさらに、ここにうわさの≪不条理ギャグ≫という用語が出ているからだ。
吾妻ひでお「不条理日記」が1978年なので、こっちの方が早い。しかし史上初かというと、たぶんそんなこともなさそうな感触が、筆者にはあり。

なぜそう思うのか。…超しっけいだが、手塚先生はあまりネーミングセンスがないようなので、そんな気の利いたことばを言い出しそうにないのでは、と。
そう言うと『何を失礼な!』と思われるだろうけど、しかし、ここで先生が使われている『日常ギャグ』とか『思考ギャグ』とかいう用語の不調法さから、それを思うのだった。ご一緒に見ていくと、あるいは同感なされるのでは…?
(ちなみに『ブラックユーモア』ということばが世に出たのは、1939年のアンドレ・ブルトン編「黒いユーモア選集」がお初、が定説らしい)

とまあ、筆者のおしゃべりはそれくらいにして。以下、「手塚治虫のマンガの描き方」の第2章の2から、該当する個所を要約&抜き書きすると…(p.129-137)。

『「おかしさ」をつくる六つの要素』

まず前置き。『マンガは本来、(略)ジョークとユーモアを売りものにするものだ。(略)これのともなわないマンガは、マンガではなく、なにかべつの分野のものだ。たとえ一見深刻そうに見えたり、暗澹たるムードをもっていても、大きな意味でなにかしらおかしければ、やっぱりマンガなのだ』。
そこでその、おかしさの演出の技法を考えてみると…。

【A 奇想天外】 人間そっくりな宇宙人が、あなたにほれてしまったとしよう。その宇宙人はいきなりズボンをおろし、おしりをあなたの口に押しつける。この種族は肛門が性感帯で、彼らにはそれが『あたりまえのキスの仕方』なのだ。このように、日常からかけ離れすぎたことが生ずるおかしさを、『奇想天外ギャグ』と呼ぶ。
『赤塚不二夫さんのギャグマンガには、この手の登場人物が多い』。また、手塚作品の≪ヒョウタンツギ≫の唐突な出没もこれ。
(引用者より。その『あたりまえのキスの仕方』とやらが、お尻同士をくっつける、となっていないのは、ややおかしいのではなかろうか? むしろそれがおかしい)

【B 不条理ギャグ】 『不条理というのは、常識の理屈では思いもよらないなりゆきになることだ。奇想天外にはどこか間の抜けたオトボケがあるが、こっちのほうは理屈もヘチマもない常識はずれのおかしさだから、いささか毒を含んでいる』。その好例はつげ義春「ねじ式」、秋竜山の1コマ作品など。
『総じて、不条理ギャグは、時間と空間を無視したものが多いので、あまりにも常識的な頭をもつ人には、よくわからないというきらいがある』。
(引用者より。『奇想天外』と『不条理』の区別が、あまりできている感じがしない。『理由づけ』や説明の有無、というポイントか?)

【C 日常ギャグ】 言い換えて、『風俗マンガ、生活マンガ』。「フクちゃん」、「サザエさん」、「フジ三太郎」など。『少しジャンルが違うけれど、セックス・ギャグ、ピンク・ギャグなんかもこの手のものである』。
…ところが手塚先生の分類によると、『日常性のおかしさに、ちょっと毒が入ったものが、ブラック・ユーモアマンガ』であり、『たとえば殺人、自殺、天災、恐怖、怪奇現象なんかをとりあつかったもの』、それらもまた『日常ギャグ』のうちに入るものだそう(!)。

【D 思考ギャグ】 いわゆる『考えオチ』、ニューヨーカーやパンチの1コママンガ、新聞の政治マンガらが、これに入る。『これらは、どちらかというと、「わかる人にはわかるが、事情のわからない人にはおもしろくない」、つまり一部の読者層におもしろがられる種類のマンガ』。

【E スラップスティック】 『すべてアクションをともなった、絵だけによるおかしさで、いうなればドタバタ』。『絵によるドタバタのおもしろさを徹底させているのが「がきデカ」で、あのスジ立てのなかのなぐる、ける、あばれるアクションのリズムが、ちゃんと心地よいおかしさをつくりだしているから成功したのであろう』。

【F だじゃれ】 『おかしさとしては、マンガのなかではいちばんつまらないものである。というのは、だじゃれはべつにマンガでなくたってつくれるからである』。
『これら(だじゃれや語呂あわせ)は、ほかのいろいろなギャグのあいだにはさみこんでこそ、おかしさとして生きるのだ』。
『(もろもろの格言や名言をもじっていく手法、こんにち言われる『パロディ』は、)しょせんは借りものだから、あまりしばしば使っては効果のある方法ではない』。



ご紹介、終わり。以上の記述、ちょっとこの分類の仕方がいいのか悪いのか…。まあともかく、1977年に手塚先生の言われた『まんがのギャグ論』は、このようなものなのだった。
ちなみに、これを追って1981年に出た米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、こうした『ギャグの分類』などを熱心に行ってはいない。その行き方に、筆者はけっこう共感しているところがある
で、それこれの先人らの偉業を21世紀に発展させるのがわれわれのつとめだとまで確認し、いまはいったん終わる。

河田雄志+行徒「学園革命伝ミツルギ」 - そしてペロ君は天国に行った(はず)

河田雄志+行徒「学園革命伝ミツルギ」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「学園革命伝ミツルギ」, ヤングガンガン「学園革命伝ミツルギ なかよし」

「学園革命伝ミツルギ」は、2005年からコミックラッシュ掲載の、ちょっとお耽美ですごく不条理な学園ギャグ。単行本は、CRコミックス・全10巻。追って今2010年10月から、「学園革命伝ミツルギ なかよし」と改題され、ヤングガンガンに掲載中。

1. その無意味な華麗さにムカつく の巻

さてこちらの原作者、河田雄志先生について自分は、月刊少年チャンピオンのギャグ作品「島国ロマンス万力高校 吉原炎上!!暁の甲子園」(2004, 少年チャンピオン・コミックス全1巻)の作者として認識していた。それがいつのまにか原作に転じていて、しかもまったく目立たない媒体でひそやかにご活躍されていたので、かなりびっくり。
ちなみにここでご紹介しておくと、その題名の長い「島国ロマンス万力高校」は、離島の分校の野球部、『弱小』という以前に成り立っていないよせ集めのヤキュー部が、超おしかけの割り込みで甲子園大会に出場しやがるお話。で、試合前の円陣で、『万高(まんこう)! オー!』と、びみょうに危険なことを叫ぶという…。その出オチギャグで押しきったような、かなりあっぱれなお作品。

なお、少女まんがとギャグまんがに関しては、原作つきでいい作品が、歴史的にひじょうに少ない。少女まんがでその名作なんて、水木杏子原作のいがらしゆみこ「キャンディ・キャンディ」(1975)くらいしかないわけで。
一方われらのギャグまんがでは、にざかなの『にざ』でありタマちく.の『タマ』である一條マサヒデ先生、ほぼ彼1人だけが、ギャグまんがの原作者と言える人材だった。そしてこのたび…というほど最近のことでもないが、こちらの河田雄志先生が、その映えある第2号になった感じ。いや、そんな映えあるってほどかどうか知らないけど…。

という、のっけからのがっかり感が、何となくお題の「ミツルギ」っぽくていい感じかも? このお作品、ずいぶん前からご紹介したかったんだけど、しかし自分的な切り口が見えてこなくて、ずっと後廻しにしていたもので。
そこでこのたび、これを書くためにさいしょの2巻までを読み返してみたが。…するとひじょうに笑えてハッピーではあったが、けれどもやっぱり、『これはこう』ということばが出てきにくい。
まあともかくも、作の概要を説明しておくと。

――― 「学園革命伝ミツルギ」第2回, 冒頭のナレーション ―――
『この物語は少子化に伴った 相次ぐ学校閉鎖に 立ち向かい 波亜怒雲(パードゥン)高校を 生徒あふれる学校に するために奮闘する 生徒会による 愛と涙と友情の 青春巨篇である』(第1巻, p.15)

そんな重大事を、校長が生徒に依頼するのもどうかと思うが。しかもその生徒会が、まったくとんでもない人材の集まりだった…。と、そこでギャグになっているわけだ。

その生徒会メンバーを、かんたんにだけ説明しておくと。まずは、題名にも出ている超ナルシストのヒーローで会長≪美剣散々(みつるぎ・ちるちる≫。次に、なぜかその御剣に心酔しきっている、書記の超お嬢さま≪姫宮京(ひめみや・みやこ)≫。
続いてはメガネの秀才だが、超痛々しいむっつりスケベの副会長≪中二階堂三一(なかにかいどう・さぶいち)≫。そして唯一の常人で、ツッコミとヤラレ役と会計を兼務する≪緑川青羽(みどりかわ・あおば)≫。さいごに追ってスカウトされた、会計監査のオカルト少女≪妻先(つまさき)ドリル≫。オカルトを研究しているのではなくて、この女の子はその存在自体がオカルト(!)。

という、こいつらの名前が無意味に華麗なので、書いててムカっ腹にきた。そしてこいつらがそれぞれ、ぱっと見た目は見苦しくないのだが。…いや特にさいしょの2人なんて、まぶしいばかりの美貌だが。
しかしその人格が、とても残念な人ばかり! そしてそのとばっちりで、ふつうの少年として出てきた青羽くんまでが、かなり残念な子へと堕ちていくのがゆかい!

ではありながら、これが一種のユートピアの描出でもあるわけだ。どうせまともな人なんてめったにいないなら、せめて見た目がよければ…という、≪美≫を愛してやまぬわれわれの願い。それが実現されちゃっている世界でも、これはあるわけだ。

2. 無意味にそそり立つしろものらがムカつく の巻

で、残念な人のくせして、御剣くんがむやみとわれわれ一般大衆を見下しているのが、もっとムカっ腹にくる。あわせて京がナチュラルに超ブルジョワ思考をごひろうしやがり、三一くんがムッツリを通り越してドスケベすぎるにも腹が立つ。
とはいえ、『ムカつく!』ばかりを言ってても何なので、ちょっとお話でも見てみると。

――― 「学園革命伝ミツルギ」, 第3回『抗う4人』より ―――
【京】 (学園の新たなるウリを、)ペット可にしては いかがでしょう?
【御剣】 それはいい! そうしよう!!
(翌日、青羽は愛犬ペロ君、京はライオン、御剣はユニコーン、三一はサソリと毒グモを学校に連れてくる。そしてさいごのヤツがカゴから逃げ出し、誰か生徒を刺し殺す)
【御剣】 (黒板に『毒性を持つペット禁止』と書き、)では こういう ことで
【青羽】 (ツッコミ!…等を省略、)疲れるなー この人たち…んん
(ふりむくと、ライオンが犬を捕食中、)ペーロォーッ!!!

『抗う4人』(第1巻, p.27)というサブタイトルは、生徒会の4ヒキが、少子化による学園存亡の危機にあらがう、という意味のはずだが。しかしおおむね、毎回がこんなようす。

で、このシリーズ。毎回とびらページのさいしょの1コマに、さきほど見たまじめくさったナレーションが、ちょっとずつフレーズを変えながら、必ず再掲されている。
その背景が、さいしょの2回はそそり立つ学園の校舎であったものが、このイベントの後から、だんだんと変わっている。異彩を放つというか、異臭を放っているというか。まず第4回のそれが、アフリカのサバンナで草をはむインパラの絵であることは、第3回のライオンの大暴れを引きずっている感じで。
で、その次の第5回は、哀れなペロ君のささやかなお墓の図。第6回は、きれいなお花の球根のような部位が、化け物になっている絵。

続いて第7回・新キャラクターのドリルちゃん(これは流れ外と見る)。さらに第8回・カメムシ、第9回・アイヌ的な木彫り彫刻、第10回・産卵中のキウィ、第11回・木のブロックから生えているキノコ、第12回・ふた股大根。
ここから第2巻の作例で、第13回・ふた股大根のヴァリエーション。第14回・お話の舞台の北海道の地図(流れ外)、第15回・クリスマス風に飾りつけられた盆栽、第16回・『ほめ殺し』と書かれたお習字(by 御剣)、第17回・正露丸のビン、そして第18回・天使の輪をかぶって再登場のペロ君。

そろそろイヤになってきたかとみて、ご紹介もこのくらいにするが。どういうスキをついての所業なのか、逆にいまいち不自然さが乏しい2件の『流れ外』を別として、われわれが言うところの≪外傷≫的なシニフィアンらがずらずら~っと、ごあいさつのコーナーに誇示されているのだった(…シニフィアンとは、みょうに意味ありげな記号)。
さらにもう少しご紹介しちゃうと、第19回・人相のキモいお雛さま、第20回・満開の桜の根元から這い出してくるゾンビ、第21回・カラをむかれている最中のエビ、第22回・長~いフンをぶら下げて泳いでいる金魚。『お雛さま』と『桜』は季節にちなんだものだろうが、しかしそのシリーズが継続できていないことが、まったくもって今作らしいへなちょこさ!

んでもう、『そそり立つ学園の校舎』に始まって、それらのほとんどが≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを象徴するもの)だとか。…そんなおしゃれなことば(?)で言ってあげるだけ損した気がするので、もう何も言ってあげない。
そして、当初のコミックラッシュから、多少はメジャーっぽいヤングガンガンに移籍して、ますますくだらなそうな今作「学園革命伝ミツルギ」。その表面的すぎる美しさ、そして内容のきわまった低次元さの暴走へと、いっそうわれわれの期待は高まるのだった…!

「増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和」 - A面で恋をして、そしてB面でアレを。

「増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和」第11巻 
関連記事:ラベル「増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和」

皆さまご存じ、「ギャグマンガ日和」。その最新刊の第11巻から、ほんのささやかなお話を。
その巻頭の『第195幕 恋のラブソングを君に』は、1970'sの少女まんがをなぞったような物語(p.7)。乙女チック系もどき、とでもいうか。シンガーソングライターの≪聖斗君≫が、ヒット曲をとばした勢いで、彼女の≪麻理亜≫にプロポーズをしたけれど…と始まるお話。

1. ところかまわず、わがもの顔で

さてその、聖斗君が大ヒットさせたデビューCD。タイトル曲の『君のために今…』は、『いとしい人(麻理亜)に 気持ちを伝えたいけど 勇気が出ない切なさ』を唄ったものだそうで、その評価はひじょうに高い。
だがしかし、そのCDのカップリング曲の評判が、目もくらむほど、ド肝を抜かれそうなほどに悪い。どれだけまずいものなのか、人々の評言をご紹介すると。

【マネージャー】 (歌詞が)薄気味悪くて一晩中 吐いちゃった
【事務所の社長】 胸クソ悪くて蕁麻疹と 血尿が出た
【麻理亜】 ヒキガエルの下痢のような曲, 生ゴミ みたいな曲で 聴いてたら ひどい吐き気と 頭痛と痙攣に 見舞われて 入院することに なっちゃった

そういうわけなのでお話の初め、聖斗君がプロポーズする場面で、麻理亜は入院中(!)。『音楽は人を殺れる』とは「デトロイト・メタル・シティ」作中のメイ言だが、こちら「日和」もまた、人を入院にまで追い込む音楽という、とほうもないものを描くのだった。
で、その他大勢らの評価はどうでもいいとして…。この物語のコアは、結ばれようとしている麻理亜と聖斗君との間に、その腐れきった曲が割り込んでくる、そのことかと思われる。

やがてお話が進むと、そのヤバい曲の、タイトルは『握りすぎ寿司』。それは聖斗君が、『屋根裏部屋で お寿司のことを考えてて できた曲』、などと明らかになってくる。
そして麻理亜にとって、それがどれだけ悪夢的、≪外傷≫的なものかというと。それから1ヶ月間の入院中、

『ところかまわず我が物顔で 吐いてばっかり』
『夜中はどうしても 2曲目の“握りすぎ寿司”を 思い出しちゃって叫びながら 病院中走り回っちゃう』

…などと、たいへんな猛威をふるっていたそうで(p.10)。

で、お話の大詰め。何か誤解して走り去る麻理亜を捕まえるために、ついに聖斗君は、その問題の曲をCDラジカセで爆音再生。それが『ゾアアアアア』…と鳴り響くと、麻理亜はその場に倒れ、『ウギャアアア その音をやめろオオオオ オエエエエッ いっそ殺してぇええ!』と、絶叫しながら激しくのたうち廻って嘔吐する(p.12)。
ところでその場面で聖斗君が、『作戦成功ってね』とうそぶき、まったくいい気分ですましているのが、ひじょうにふしぎなところだ。すなわち、さいしょからさいごまで彼は、そのカップリング曲の評判が激烈によくないことを、ぜんぜん気にしていない(!)。
そして、しょうもない誤解が解けたところで、ハッピーエンドを示唆してエピソードは完。で、一編のギャグまんがでございました…と言って終わった方がよさそうなのだが。

2. ぼくのおしりに はさまれたものは みんな不幸に

だがしかし、よけいなことのきわみのようだが。そんなにまでも胸くそ悪く、そして破滅的で外傷的な『握りすぎ寿司』という曲、それはいったい≪何≫なのか?…と、考えてみると。

山上たつひこ「がきデカ」第1巻ここで筆者が思い出したのは、また古いことを申し上げるけれど、かの「がきデカ」のヒーローこまわり君の、『生まれてから 一度も洗った ことがない』おしり、というもの(少年チャンピオン・コミックス版, 第1巻, p.43)。それがあまりに壮絶に汚くて臭いので、それを目の前につきつけられると、人々は嘔吐や失神にまで追い込まれる(p.88)。

…ただし、「がきデカ」のどこに出ていた話だったか。お尻に比べて、こまわり君の≪タマキン≫(ペニス)の方は、まだしもきれいであるらしい。意図的にタマキンを優遇し、それとのコントラストで、お尻の方をことさら汚くしているとか、そんなお話だったような?
そしてさらに、こんなことを言っていたはずだ。『ぼくのタマキンに はさまれたものは しあわせに… だが ぼくのおしりに はさまれたものは みんな不幸に!』。

と、このように、前はきれいでハッピーで、しかし後ろは気絶するほど汚辱的で不ケツな不幸のもと。これがすなわち聖斗君の出したCDであり、そしてそれは『彼自身』そのものなのだ。
だからこのお話は、A面とB面のあるアナログレコードの時代のものだったら、もっとすっきりしていたのでは。A面はきれい、B面はゲロカス的に汚い、と。
で、聖斗君は、彼の『B面』にめっちゃくちゃ汚い部分があることを、なぜなのかまったく恥じず、むしろ機会があれば誇示するという、こまわり君ばりの態度に出ているのだ。そしてその汚すぎるもの、きわめて外傷的な“もの”を、あわせてググッと押しつけられ呑まされそうなので、麻理亜はひじょうにたまらないわけだ!

そこまでを言えば、いちおう何かが分かった感じ。あえてさらに申すなら、『握りすぎ寿司』はペニスか糞便(ウンコ)を象徴する記号でありそう。またその『握りすぎ』とは、マスターベーションのことやも知れぬ。…といった気もするけれど、でも別に強くは言い張らない。

3. レッドホットで、ビッグラージな天狗さま~♪

あと、このエピソードの終盤に、『歯が抜ける』というモチーフの浮上がある。別に言い張らないんだけれど、それはふつうに≪去勢≫ということを示す。
そしてラカン的な見方として≪去勢≫は、『社会への順応』みたいなことをも表す。まだしも一般的な言い方に換えると、キバを抜かれて社会の飼い犬になる、ということ。
そしてそのままで、聖斗君の歯が抜けた(去勢された)ことが、彼のわがまま放題の矯正あたりを示唆し。それがさいごの、とってつけ風なハッピーエンドを導き出している、とも読めそうなのだった。

といったところで話は終わりだが、ついでのひとこと。
誰かの説によると、世に言われる≪不条理ギャグ≫とは、こんなものだそうだ。それは「がきデカ」のような、≪不条理≫以前のギャグまんがとの対比の上で、言われたことだが。

『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』

「増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和」第11巻 カバー部分ひじょうにすみません、オレが書いたことだけど(*)。そして筆者はこの「ギャグマンガ日和」について、その『タマキン的な記号』(ファルスのシニフィアン)が出すぎということに、いつもたまらない目まいとショックを感じ続けている。
内容がもちろんそうだが、その歴代の単行本らのカバー画が、それを端的に描いている。すなわちわれわれが見てきた第11巻、その表紙にドカンと出ている、巨大で真っ赤な天狗さまのお面…それが何を意味しているか、ということ。

さらにこの第11巻のカバーに描かれた、もろもろのアイテムたち。黒電話の受話器・ボール&バットの柄のTシャツ・よだれをこいている犬・UFO・枠の中に収まった北条氏直・バラの花・ワイングラス…。
ぜんぶそう、そのぜんぶが≪ファルスのシニフィアン≫だと言ったら、『こいつはアホか!』とも思われそうだが。…でもそうなので、仕方がない。筆者がりっぱなアホウでもありつつ、かつまた、その記号らがファルスのシニフィアンでもあるのだ。

いや別に、そういう風に考えなくてもよいわけだが。しかしそれでは、『なぜそれらがギャグを構成できているのか?』、ということを説明できない。
そこで筆者は、『それらは≪外傷≫的なシニフィアンであり、主体はその外傷的な“意味”を見て見ぬために、それらに対して“笑い”という反応を返す』、という珍説をひねくり出しているのだ(…シニフィアンとは、みょうに意味ありげな記号)。

というか、『なぜそのギャグがうけるのか?』、ということが、別に説明されなくともよい。受け手はそれへと、面白い、とだけ言って終わってよい。
それは、まったくそうだが。しかし筆者くらいのひねたまんが読みになってくると、『面白れェ、うけたぜ!』とだけ言って終わっては、いくら何でもなので。
そこで、『それはなぜか、なぜ笑えるのか?』、ということを、ちょっとは考えてみたくもなるのだった。そしてよろしかったら、このゲーム的おたわむれ遊びへと、ぜひぜひ皆さまのおつきあいをお願いしたいのだ! プリィ~ズ、シクヨロ!

2010/10/30

水兵きき「みかにハラスメント」 - 『子供のせかい』は、どういうセカイ?

水兵きき「みかにハラスメント」 
参考リンク:Wikipedia「みかにハラスメント」

このところ、わりにかたい話が続いていたように思うので、ちょっとやわらか方面へ出張。そこで有名なSF(?)お色気コメディ、水兵きき「みかにハラスメント」を取り上げたい。ガンガンパワード2004年掲載の読みきり3部作、単行本はガンガン・コミックス全1巻。

――― 水兵きき「みかにハラスメント」, 版元からの広告文 ―――
『みないで…ください…。B(バスト)85のごくフツーの女の子・みかは、お姉ちゃんの発明で、脱がされ、お仕置きされのタイヘンな目に…』

さてこの作品を、筆者が一読しての印象は、『わりとむかしのなかよしやちゃおに、こんなお話が載ってなかったかな?』…というもの。発想やお話の運び方に、いちおういい意味の幼児性があるので、『児童向け少女まんが』っぽい。童顔でグラマーというヒロインの造形も、そっちの系統だし。

…といった前提があってこそ『逆に』この作品が、たいそういやらしいものになっているのかと! どのようないやらしさかって、いまさら筆者が説明する必要を感じないが!
んー、何やら語り方のむずかしさを感じる。この作品の、エロいところを『エロい、エロい!』と指摘しても、超いまさらなわけだし。ではもう、いちばん印象に残ったところを述べて、ささっと終わりにしよう。

シリーズファイナルの第3話、『子供のせかい』(p.77)。そこでヒロインは、早熟すぎる天才幼女≪ココア≫の謀略にかかって幼稚園に編入された上、『幼児化リング』というものを首にはめられてしまう。そしてそれによる能力の低下、どんどん進行する幼児化、というはずかしめをこうむる。

まず彼女は、自分の名前が漢字で書けなくなる。次には、ごく浅いプールが怖くて、水に入れない。ランチタイムには食物をこぼし、食事のトレイをひっくり返す。
そこでココアはほくそ笑みながら、みかを乳母車に乗せて、スプーンで『あーんして』と、いわゆる『食事介助』に出る。それを屈辱に感じたみかが『や やだ』と断れば、病気扱いして注射器を出してくる。
そのお注射が怖くて怖くて、『そんな 大きいの だめ~』(“笑”)と言って降参し、みかはおとなしく介助をこうむる。さらにココアは哺乳ビンを出してきて、これを呑まないと注射だと、またおどす。しょうがなくて哺乳ビンを吸っているみかを、周りの園児らが、『かわいい♥』、『赤ちゃんみたい』、と言ってそれを見守る。

と、こんなことらの間にみかは、精神がどんどんまいってきて、赤ん坊扱いをおかしいとか屈辱とか、感じなくなってきているのだ。真の問題は、そこだ。
それからおねむになったみかが、目ざめるとおねしょをしてしまっている。さきのミルクに、ココアが一服盛ったせいらしい。そこでココアはみかのパンツを脱がして、紙おむつをあてる。おむつでなければはだかのまま、とおどしつけた上で。

ここいらが最終状態で、もはやおむつとよだれかけしか身につけていないヒロインは、『おむつ… ちゅ… つけてくれて… ありがとう』と、感謝の言葉をココアから強いられる。さらには幼稚園の教壇に上げられて、園児らに向かって、『おもらしして… ごめん… なさい』と謝罪させられるのだった。
で、場面が変わり。みかの幼なじみのヒーロー≪龍彦くん≫が、半日ぶりにみかに再会すると。幼児化最終状態のヒロインはベッドの上で、何とココアのまったく平らな胸を、『ちゅ~』と吸っている(!)。びっくりしきってヒーローが、『み みか 一体 なにを…』とたずねれば、彼女はこのように答えるのだった。

『み みかね おっぱい ほしかったの…』

ここまで説明しなかったがココアは、龍彦くんに横恋慕して、彼とみかとを引き離すために、これらのことをしてきたのだ。だが、そんなでも龍彦くんが引かないので、さいごのひと押しとしてココアは、彼の見ている目の前で、みかのおむつを取り替えようとする(!)。
これがたいへんな、ストーリー上の大やま場だが。だがしかし、その後の急展開は、実作を読んでのお楽しみとして…!

さて、ここにいたるまでの描写が、誰にとってもショッキングだったとは思うのだが。ところで筆者は職業が介護方面なので、描かれたみかの幼児化が、高齢者における生活能力レベルの低下とまったく同じ、ということに大ショックをこうむったのだ。
そして、自作自演の親切よがしで、みかのケアにはげむココアの姿。これがまた、実在する『けしからぬタイプの介護』というものとそっくりに描かれていて、それもひじょうにショッキングなのだ。
つまり、過剰なケアが日常生活能力のさらなる低下を招く、ということがあるわけだが。だがしかし、美少女が超うす着でいろいろ活躍してうれし恥ずかし…みたいなおまんがを眺めて、何もそんなことを考えたくはないのだった!

水兵きき「葵さまがイかせてアゲル」第1巻にしても。バカらしいにもほどがあるようなお色気まんがでありつつ、こうして何か『ほんとうのこと』を、描きぬいてしまった感じの「みかにハラスメント」という作品。それに対する、大いなるリスペクトは自らに禁じえない。これは断言いたす。
けれども筆者が、その後の水兵きき先生の諸作を拝見するに、この水準に匹敵するものが、ちょっとないような…? 別にこういうことは申し上げたくないが、追って出た「葵さまがイかせてアゲル」(2008, ライバルKC, 全2巻)を拝読して、『こんなンじゃイケねえ!』と、思わず叫んだこともあったりしつつ。

いやさすがに、声に出してそんなことは言ってないが…! ともかくも水兵きき先生によって、再びものすごいご創作のあることを、期待してやまざる筆者なのだった。

【補足】 今作「みかにハラスメント」3部作のサブタイトルは、『えっちじゃないせかい』・『犬のせかい』・『子供のせかい』。並べてみると、これが一種のスウィフト「ガリバー旅行記」の現代版、という感じもあるな…とは思うが、別に言い張らない。

2010/10/29

中山昌亮「不安の種」 - 不条理ホラー と 不条理ギャグ

中山昌亮「不安の種」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「中山昌亮」

中山昌亮「不安の種」は、超ショート形式のオムニバスホラーまんが。推定2004年からチャンピオンREDに掲載、追って「不安の種+」に改題されて週刊少年チャンピオンに移転。単行本は、無印が全3巻(ACWチャンピオン)、「+」が全4巻(少年チャンピオン・コミックス)。この堕文では、ひとまず無印版の方を見ていくことに。

1. 窓の外、ドアの外にひそむ“もの”

何しろこのシリーズは、最短2ページできりがつくという、そのスピード感がすばらしい! 最低限の導入部に続いてドカンとイベントが発生し、それでスパッと終わってしまう。長々しいプロローグもなければ、因果話としてのくどい説明もない。
どういう作品なのか、まずその第1巻から、いくつかお話を紹介してみると。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #12『訪問』 ―――
たぶんビジネスホテルで深夜3時、急ぎの仕事でパソコンを叩いている青年。
…ふと何かを感じ、窓を開けて外を見渡す。するとその建物の3階か4階、同じ階層の窓に張りついて、ガタガタッと何かをしている女性らしい姿あり。
『 な…… なんだ… ありゃ?』
彼が見ていることに気づくと、その女性は垂直の壁をペタペタペタと四肢で這い歩き、すごい勢いでこっちへ! しかも、その顔はのっぺらぼう!
青年はびっくりして『バンッ』と窓を閉めるも、相手は彼の部屋の窓に張りついたまま、じっとこちらをうかがっている。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #15『ピンポンダッシュ』 ―――
みょうに毎度のピンポンダッシュに悩まされている青年。ちょうど玄関にいたところ、ドアの向こうに何か気配を感じ、とっちめてやろうと、ドアスコープを覗く。
ところが見えたものは、いたずら小僧ではなく、やたら髪が長い女性らしき姿。奇妙な薄暗さに包まれて、その髪が前に垂れて顔を隠しているのか、それとも後ろを向いているのか、よく分からない。
そしてその女は、何か人間としてありえないポーズで腕を伸ばし、そして『ピンポーン…』とチャイムを鳴らす。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #9『届けもの』 ―――
安アパートに住む青年、その玄関のドアノブに、毎日のようにふかしぎな届けものが吊るされて…と、友人に打ち明ける。
『クシャクシャのコンビニ袋にさ…… ヨーカン1本とか ドーナツ屋のオマケのタオルとかさ ひどい時には 生の牛肉が新聞紙にくるまれて……』
友人は警察へ行けと言うが、しかし青年は『でも ここしばらく 無いんだよ』と言う。そして『いっそ くたばってて 欲しいぜ』などと吐き捨てるので、そこで逆に友人は引く。
やがて2人が部屋にたどりつくと、久々のそれが! そこで青年が怒って袋をたたき落とすと、その中身が転がり出る。『小鹿サブレ』という菓子の箱、そこに描かれたかわいい小鹿の絵、その目の部分に、アイスピックか目打ちがグッサリと突き刺さっている。

『不安の種』とはよく言ったもので、人間誰しも≪不安≫はある。見た作例らでは、窓の外、ドアの外への不安らが描かれている。もともと不安が存在しているところに、それを形象化した“もの”らが現れている。
晩年のフロイト様は、『何か理由があって不安がある、というものではない。むしろ人間らには、どうしようもなくさいしょから不安がありすぎる』とまで述べられた(…確か、「終わりある分析と終わりなき分析」に出ていたかと)。よって、閉所が不安なら広場も不安、深夜も不安なら白昼も不安、というわけだ。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, 表4のあおり ―――
落下する夢のような
生温かい血液が背中を這うような
最後の一瞬だけを繰り返し体験するような
そんな気分はお好きですか…。
新感覚オムニバスホラー。
この物語は8割がフィクションです。

『8割がフィクション』とはよく言ったもので、今シリーズの特徴として、さいしょかさいごに時間と場所のデータが書き込まれている例が多し。作例#12だと、冒頭に『平成14年 2月 九州 福岡市』、とある。
だが、まんが表現の面白いところで、そのデータが、『この事件がその時そこで起こった』という意味かどうか、別にはっきりはしていない。ただ単に、絵図と文字とが画面上で出遭(いそこな)っているだけ、とも受けとれる。
にしても何らかの仕方でエピソードらが、具体的な日時と場所につながれている。その日時と場所が実在したことまでは確かそうなので、それが2割のノンフィクション部分なのやも知れぬ。そしてその部分の存在が、このお話らのやたらなリアリティに寄与していそう。

(さらに、単行本だけの特徴かも知れないが、エピソードの合い間のページに挿入された白黒写真。何でもないが、しかし何かありそうな都会の一隅を、高感度フィルムの粗い粒子で描写したもの。
何とこれらのほとんどが、エピソードの舞台らをそのまま写したものに見える! これがまた、このお話らのやたらなリアリティに寄与しつつ)

2. 欠如であるべきポイントを、かってに占拠する“もの”

ところでなんだが、さっき見た作例3つ、いずれにも性的なニュアンスを見ることができる。「不安の種」シリーズ全般に、かなりそれはある。#12『訪問』のさいごの1コマ、窓に張りついたのっぺらぼうの女性が、くねっとしたポーズで首をかしげながら、ミニスカートから出た脚を誇示しているのが印象的だ。
そして≪不安≫の高まりということについて、性的なアンバランスをその理由にする見方がある。さきの作例3つについて、まず何らかの性的な強迫を見た上で、さらに筆者が独断的に解釈すれば、これらはいずれも≪近親相姦≫の強迫、その存在を語っている。

中山昌亮「不安の種」第2巻もっとはっきり言えば、その目撃者である主体の、母や叔母や姉あたりが、近親相姦を迫ってくるというイメージ。それが変形されて、それぞれのエピソードになっている。
ただし近親相姦の欲望は主体の側にあるもので、それがくるくると反転されながら外化されて、それぞれの化け物的な女性(?)の出現、となっているのだ。…ま、それはひとつの可能な解釈として。

ところでこのシリーズのスタイルが、われわれの見てきた≪不条理ギャグ≫と似すぎていることは、大方の諸賢にはお分かりのことだろう。以前、当家のこの記事(*)で定義された≪不条理ギャグ≫とは、次のようなものだった。

『欲望の原因となる対象の占める場所、欠如であるべきポイントが、“何でもよい何か”によって、かってに占拠されること』。それによる≪不安≫の発生を戯画として描き、(半ば)客観視させるエンターテインメントが、≪不条理ギャグまんが≫である。

今作に即して言い直せば、もともと≪不安≫のあるような場所、薄暗いところや境界、何か人の情念がこもっていそうな場所。その欠如であるべきポイントを、かってに占拠する“もの”が突発的に現れる。
そこで主体の不安は≪恐怖≫に転じ、そしてお話はスパッと終わってしまう。そしてこの、『不安→恐怖』の転換が一種のカタルシスとなるので、よって今作はエンターテインメントとして成り立つ。

また、次のような作例はあからさまにギャグっぽい。今作について、『通り越して笑える部分もけっこうある』とは、わりに多くの人が感じるところらしい。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #14『訪問 II』 ―――
夜、ガタイのいい青年がテレビを見ていると、ベランダに人影。撃退してやろうと、身構えながら窓を開けたら…。
そこには、兇悪そうな鎌をもった、がい骨っぽい化け物の姿が! しかしその人物は、『ああ… 間違えた』とつぶやき(!)、そしてベランダ間の仕切りを透過して、隣の部屋へと向かうのだった。

――― 中山昌亮「不安の種」第2巻, b12『エックスデイ』 ―――
ちょっとスカしたかっこうの青年がクリスマスの街を、『オレんちにはサンタなんか来ねえし、さみしいなあ』、などと嘆きながら歩いている。
そして彼がアパートの前まで戻ってくると、自室のベランダの柵の上に、ふら~りと立っている、サンタの服を着た人影が…。
やがてそのサンタ風の人物は、窓ガラスに手を当て、そしてありえぬような大きな口と兇悪な歯並びをむき出して(!)、何かブツブツつぶやいたかと思ったら、『ずず…』と窓ガラスを通りぬけ、『ずるん』と青年の部屋に侵入してしまう。
これらを見ていた青年は頭を抱え、『前言撤回!! さみしくないっす! お願い! 出てって!!』と、心で叫ぶ。

b12『エックスデイ』では、『クリスマス→Xマス→Xデイ』ということばの転換が秀逸だが、そのことば遊びの要素も、ほのかにギャグっぽい。
また次の例など、『もろにギャグっぽい』というのではないが、しかし吉田戦車「伝染るんです。」の中に、そのまま出てきそうなお話なのでは?

――― 中山昌亮「不安の種」第2巻, b1『スウィング』 ―――
会社にケータイを忘れたサラリーマン。取りに戻ったら、ひと気のない真っ暗なオフィスから、『ブンブン、ブゥンブゥン!』と、異様な音がしている。
覗き込んだら、なぞの野球少年がバットを素振りしている。リーマンに気づくと少年はスウィングをやめ、『ガランガラン』と金属バットを床に引きずりながら、オフィスを出て行く。すれ違いざまに彼らが視線を合わせると、その少年の顔は、暗闇の中にみょうに真っ白で、そして目と口がきわめて小さい、異様なありさま。

かくて。言いわけや説明などの部分をいさぎよく切り捨てた、“超”ショートホラーである今作「不安の種」。その表現は明らかに、≪不条理ギャグ≫の先端部位に接して、同じかたちを描いているものなのだった。

3. 繰り返し…繰り返し…繰り返し………

中山昌亮「不安の種」第3巻そしてここまでを見てくると、さいしょにご紹介した3つの作例。そこに登場する女性らしき“もの”たちが、ギャグの世界で近年はやり気味な、『不条理のヒロイン』たち、それらと等価なものだということも分かってくるだろう。
どこに出てきた『不条理のヒロイン』かって、いままでいろいろご紹介してきたが、「妹は思春期」、「メグミックス」、「ロボこみ」、「侵略!イカ娘」、「波打際のむろみさん」…あの系列の。

とまでを明らかにできたところで、この堕文をいったん終わりたい。そしてさいごに、無印「不安の種」シリーズで、筆者がいちばん心に残った作例をご紹介。

――― 中山昌亮「不安の種」第2巻, b18『飛ぶ人』 ―――
青年2人が夜の道を、何かお金の勘定の問題で、びみょうに言い争いながら歩いている。そして一方がふと、近くのビルの屋上、そのフェンスの外側に、女性らしき人影を見つける。
『あれ 飛び降り自殺…… じゃねえか?』
『あ――… 大丈夫』
『大丈夫って お前ね…』
『あれ 毎晩飛び降り てるから』
…などと不可解なせりふが出たところで、屋上の人影はダイブを決行し、『ドサッ』といやな音が、そこに響く。しかし何かを知っている方の青年は、まったく表情も変えず、『繰り返し …なんだよ』、とつぶやく。
2人が見上げるビルの屋上、さっきと同じ場所に、再びその女性らしき人影が現れる。

繰り返し、繰り返し、繰り返し! かくて『不安の種』はけっしてつきることなく、そしてここにまた現れた不条理のヒロイン、そのまがまがしい媚態もまた、飽かずいつまでも反復されるのだ。

吉田戦車「伝染るんです。」, 新井理恵「ペケ」 - カミュってサルトる、≪不条理≫メモランダム

新井理恵「×-ペケ-」文庫版, 第1巻 
関連記事:うすた京介「すごいよ!!マサルさん」 - 局部を見せないまんが作り, ラベル“吉田戦車”

ギャグまんがの世界にはっきり≪不条理≫ということばを持ち込んだ作例として、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)は、目ざましいものにはちがいない。ただしそれは社会的にはマイナーに終わり、ムーブメントを起こしてはいない。
そうではなく。それを追って後からどんどん『不条理』な作品が出てくる、というムーブメントを起こしたのは、もちろん吉田戦車「伝染るんです。」(1989)。『よくも悪くも』そうなったわけで、つまり少なくない作品らが、そのムーブメントの『一部分』と見なされてしまったらしい。

1. 新井理恵「×-ペケ-」は、≪不条理≫なのかどうか

1990年に別冊少女コミックで掲載が始まった新井理恵「×-ペケ-」(フラワーコミックス・スペシャル, 全7巻)も、その巻き込まれたひとつでありそう。そしてその見方について、作者さまから、じわっと抗議が出ているところをお見うけいたす。

――― 新井理恵「ペケ」第1巻, 作者のごあいさつから(p.32) ―――
新井です。まぁ最近は不条理な四コママンガが世間にはびこっていて
それは現代の世の中自体が不条理(…中略…)
が つまりそんなことは どうでもいい関係ないコトなわけで

つまりムーブメントの存在は、はっきりと認めておられる。しかし、自作「ペケ」はその一員ではない、と言われたいごようす。
また別のところには、こんなことも描かれてある。

――― 新井理恵「ペケ」第2巻, カバー下のまんがより ―――
【なぞの博士】 「×-ペケ-」を 不条理と 言う者は
「不条理」という 言葉のイミを知らない アンポンタン・ポカンに すぎなーい!!

だがしかし、同じカバー下の表4では、その博士の助手が「ペケ」第2巻を読み終えて、『やっぱりただの 不条理4コマとしか 思えませんでした』と言っている(!)。言うにもことかいて、『ただの不条理4コマ』とは…!

とまで見てから、自分の感じ方を述べると。「ペケ」のポジションが、先行した「伝染るんです。」と、そして追って出た少女系ギャグの傑作、にざかな「B.B.Joker」(1997)にはさまれたものとして…。前後の2つに比べたら、「ペケ」はそんなに≪不条理ギャグ≫じゃない感じ、言われるとおり、確かに。

あまりにもきょくたんに単純化してしまえば、「ペケ」の描いていることは2種類だ。まずひとつは作者さまの、地域や学校における実見談。もうひとつは、いまでいったらBLっぽくて『腐女子』っぽい妄想。
そして、それぞれのネタ自体がどうというよりも、それらに対するさめきったシニカルな視点がユニークなのだ。そもそも前者の実見ネタなんて、ふつうの人らがどうとも思わないようなことらを、するどい感性がピックアップしているものだし。『妄想の世界でも モテませんでした…』とは竹内元紀の作品に出てきた標語(?)だが、なぜかそれ的な痛いリアリズムを、筆者は「ペケ」に感じるのだった。

2. サルトって、カミュった≪不条理≫たち

ところで筆者もアンポンタンとしての自覚は大ありなので、≪不条理≫などというむずかしい語の『イミ』を、ひじょうに知ってなさげ。そこで、すなおに辞書をひいてみれば…。

――― ≪不条理≫の項目, 「現代新国語辞典」より ―――
ふ-じょうり【不条理】《名・形動》
【1】道理に合わないこと。「―な判定」・不合理。
【2】〔哲〕人間と世界とのかかわり合いの中に現れる、人生の無意義・不合理・無目的な絶望的状況を言った語。(参)フランスの文学者カミュのことば。

…だそうだが。記憶によれば、確かカミュ「異邦人」(1942)の結末近くで、もうすぐ死刑になりそうな主人公が、教戒師のお説教のくだらなさをガマンしかね、『absurde!(仏・バカらしい、不条理だ)』と叫ぶ…だったかな? 何ンせ、アンポンタンのうろ憶えで。
などと、思ってたのだが。しかし調べてみたらぜんぜんそうではなかったので、自分のめっきりアンポンタンであることには、ほんっとにがっかりさせられた。

まず「異邦人」のやま場に、そのヒーローが『アブシュルド!』と叫ぶ、という場面がめっからない。いや、断じてないとは申していないが、自分には見っけられなかった。
さらに、その「異邦人」とペアをなすテクストと見られるカミュのエッセー「シーシュポスの神話」(1942)。こっちの方は逆に、≪不条理≫というキーワードが出すぎ! 本文など見ず、もくじだけをチェキっても、『不条理な論証』、『不条理と自殺』、『不条理な壁』、『不条理な自由』…等々という見出しらがズラリ。

サルトル「嘔吐」訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院なお、カミュに先立ったものとして、1938年のサルトル「嘔吐」にもまた、キーワードとしての≪不条理≫が出ている。拾い読みしかしていないのだが、この作品は中盤までは≪実存≫をキーワードとして、ひじょうに小説っぽく展開している感じ。
それが終盤前になって、急にキーワード≪不条理≫が登場。そこからしばらくエッセー風に、それに関する記述が続いている。

――― サルトル「嘔吐」より ―――
<不条理性>という言葉がいま私のペンの下で生れる(中略)。不条理、それは私の頭の中の一個の概念でも、声の中の一呼気でもなかった。それは私の足下にあった死んだ長い蛇、あの木の蛇だった。
(註:“木の蛇”とは、かの有名な、主人公に突発的な吐き気を催させた、マロニエの根っこのこと。訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院, p.211)

おそまつながらも、手短さを目ざして『説明』してしまおう。この小説でさいしょ≪実存≫とは単にあるもので、『世界』の中にいちおうは収まっているものだ。ところが≪不条理≫の噴出という現象は収まらざる“もの”の現前であり、それは実存の存在(感)の確かさを失わせてしまう。
そうすると、『実存はふいにヴェールを剥がれた』、『実存とは、事物の捏造そのもの』、うんぬんに堕ちてしまう(同書, p.209)。そしてこの現象は、≪実存≫と世界との間の距離や摩擦の存在をあばきたて、そして主人公を吐き気にまで追い込むのだ。

また注目すべきは「嘔吐」の語り手が、『狂人の演説は、狂人の置かれた情況との関係によって馬鹿げている』として、他には還元しえぬ絶対的な≪不条理≫ではない、などと言っていることだ(同書, p.212)。
この主人公には≪ギャグ≫とか『笑い』とかを追求している気はなさげなのに(とうぜん!)、なぜか話がそっちへふれぎみなのだ。何しろさいしょから≪不条理 absurde≫なる語は、バカらしさ・こっけいさというニュアンスを呼び出すものだし。

さてその「嘔吐」の主人公が意識しているのは、『こっけいなようなものらを見ているのだが、しかしちっとも笑えない』という感覚だ。彼は真昼の公園の平和っぽい風景を見渡して、『なにやら滑稽な姿を呈していた』と思いかけ、しかし打ち消し、『実存しているものはいかなるものも滑稽ではあり得ない』、と述べる(同書, p.210)。

だがしかし『あり得ない』と言うならば、なぜ『こっけい』という語がことさらに呼び出され、そして宙に浮かねばならんのだろうか? しかも主人公が見ているのは、われわれがふつうに思うような『こっけいな眺め』ではない。
そして『笑う』ということは、むしろ≪不条理≫を見て見ず、『事物の捏造』としての実存に甘んじることらしいのだ。すなわち。

――― サルトル「嘔吐」より(p.209) ―――
『とめどなく笑い続け、濡れた声で、「笑うのはいいことだわ」と言うあの笑い疲れた女たちのように、すべてこれらのもの(註・主人公が見ている公園の風物ら)は、静かに従順に実存へと赴くままになっていた』

それこれと見てくればこの「嘔吐」の主人公は、常人らにはちっとも面白くないものをさして『実にこっけいくさい、しかし笑えない』などと、ひじょうに根性曲がりなことを言ってやがるヤツ、ということになり気味。ふしぎなことだが、笑わないくせに『こっけい』という前置きを、彼のりくつは必要とするのだ。
それがまた、りくつといっても、別にすじの通った論ではないのが困りもの。「嘔吐」のヒーローいわく、『“不条理”は、概念ではない』。またカミュいわく、『不条理の感性は、不条理の哲学ではない』(参照:カミュ「シーシュポスの神話」, 新潮文庫版, 1969, p.8-10, 訳者・清水徹氏による付記)。

3. 『ギャグ・不条理』 -と- ≪不条理ギャグ≫

かくて『不条理な感性』というしろものは、ふつうにわれわれを≪うつ病≫のような症候に陥らせるものかと考えられる。『笑わないこと』はうつ病の始まりだと、広く一般的に考えられている。
そこのところから、カミュが「シーシュポスの神話」の随所にニーチェをもってきて見かけ上の≪解決≫をつけたり、追ってサルトルがマルクス主義(つかむしろスターリニズム?)を一種の『救済の教え』かのようにいただいたり…という方向に両者が走っていることの理由が、筆者にはわかるような気もする。ニーチェやマルクスらの≪論≫をふつうは『超越論的』とは言わないが、しかしカミュやサルトルの≪論≫の内部にそれらを置いてみると、ふしぎだが超越論的に機能するのだ。

だが、別にわれわれは、いまどきサルトルやカミュの『思想』(?)をどうこうしようとしているのではないし。そこでもうここらから、独断的にもまとめに入ってしまうと。

【1.】 サルトルとカミュがいちいち言っている『こっけいさ』とは一種の強がりであり、≪自我防衛≫の機制の発動。その強がりが保持できなければ、“もの”や≪実存≫らの現前に面して、自我が崩壊してしまうは必定。そしてその機制は機能的に、ユーモアやウィットに重なるところがある。
【2.】 ただしカミュやサルトルの言う≪不条理≫は、『“笑い”を(見かけ上の)解決にはしない』という点が、ユーモアやウィットとは異なる。『笑うこと』には『考えることの放棄』という性格もあるが、それをしないということ。

かくて≪不条理≫の根源をたずねていくと、われわれが見たのは≪不条理ギャグ≫ではなくて、言うなれば『ギャグ・不条理』なのだった。それは何でもないもの…しかし“もの”として圧倒的にあるものの現前、その脅威に直面しつつ、『こっけいくせえ!』とまず強がり、しかも可能な場合には『笑わねえ!』と、2回強がるアチチュードなのだ。
そして、この不条理の感性においてありうる笑いとして、カミュの談義がコソッと示唆しているような、“ニーチェ的な笑い, 哄笑”、というものは考えられながら。

吉田戦車「伝染るんです。」第2巻と、ここまでを見てから、やっと話をギャグまんがに戻して。

だが、しかし。吉田戦車「伝染るんです。」を嚆矢とする(っぽい)≪不条理ギャグ≫と言われるようなまんが作品らは一般的に、『平凡(もしくは“日常的”)ならざるもの』の出現を描く。
それでは逆なようだが、言ってみればそれは、「嘔吐」のヒーローが何げなものを見て受けた『とほうもなき異様さ』という印象が、先廻りして絵的に表現されてあるものかと。
そしてその異様なる“もの”らは≪日常≫に対するインパクトとして機能し、作中人物や受け手らの心に≪不安≫をを引きおこす。たとえば、ただいま「伝染るんです。」という本(スピリッツゴーゴーコミックス, 全5巻)をパッと開いて、わりとランダムに見つけた作例…。

――― 吉田戦車「伝染るんです。」第2巻より(p.45) ―――
【角刈りの青年】 (ボロアパートの一室で電話をうけて、)もしもし
【電話の相手】(…ずっと無言…)
【青年】 (『はっ』と何かに気づき、アブラ汗をかきながら、)
く、くまか!? くまだな! オイ、なんとか言えよ! くまなんだろう!!
【やたら小さく、目鼻もない真っ黒なクマ】 (…どこかの街角の電話ボックスで、電話機の上に腰かけながら受話器を構えている)

理由はまったく分からないが、この青年は彼が“くま”と呼ぶふしぎな生き物から、いまで言う『ストーカー被害』をこうむっているらしい。
このお話の構造を見てみると、当事者である青年には単に≪不安≫があるばかりで、彼はとうぜんだが笑っていない。いわば「嘔吐」の主人公ばりに、ありえざる“もの”の出現に対し、おののきを感じている(…“木の根っこ”に対しての“くま”では、出たものの様相がだいぶ異なるが)。
ここにて誰かが笑っているとすれば、それは状況を見ているわれわれだ。というかわれわれが笑っていないとすれば、これはまんがとしてうまくない。

まんが作品には、基本的には常に三人称で叙述しているという性格があるが、そうだからこそわれわれは、このように描かれたことを客観視できる。状況から、心理的な距離をとることができる。
またその一方、もしも「嘔吐」という小説が三人称で書かれていたとしたら、『一人称の日記体』(小説として、もっともインティメートなふんいきになる形式)という現況にてあるような、身に迫る感じは出ないだろう。『この主人公はおかしいヤツ』くらいの印象を残し、ひょっとしたら戯画的なふんいきになっちゃったやも知れぬ。

まず第1段階としてわれわれは、ここで≪不条理ギャグまんが≫というものを定義できるだろう。それはサルトルも描いたような≪不条理≫の噴出という事件を、ことさらに誇張して分かりやすく描きつつ、しかもその状況を客観視させる。
そこにおいて、われわれは『半分』だ。半分は作中人物とともにおののき≪不安≫に見舞われ、そしてもう半分で、サルトルやカミュらも言った『こっけいさ』を笑っている。
そしてその笑いは、≪不安≫の発生に対し、いったんの(心理的な)けりをつけるのだ。かつ、たびたび申し上げていることだが、いかなるところから出たものであっても『笑い』(緊張の弛緩)という反応は、主体に≪快≫を与える。かくて『ギャグ・不条理』が裏返されるところに、≪不条理ギャグ≫が発生する。

4. ≪不安≫に関するメモランダム

ところが、だ。第1段階と言ったからには、少なくとも第2段階の≪不条理ギャグまんが≫の定義を考えているわけで。
それは、どういうことかというと。サルトルやカミュらの主張している“もの”が、『還元しえぬ不条理』だと称されているに対し…。
一方のわれらが≪不条理ギャグ(まんが)≫の描いている“もの”について、『心理的な還元』がまったく不可能でもなさそうと、筆者は見ているのだ。『心理』という語がイヤだが、その『還元』とはとうぜん(?)、分析的な解釈ができるという意味。

たとえば、さきに『くま』の作例を見ちゃったので、そのシリーズの別のエピソードらを、同じ第2巻からチェキれば…。
…くまは青年のアパートに上がり込んで、冷蔵庫を開けて食事の支度をする(p.19)。ドアのスキ間から封筒を押し込んでくるので中を見れば、山野を背景にくまが映った写真と、千円札2枚が入っている(p.31)。
また、玄関前にウインクのCDを置いていったので青年が再生すると、なぜか中身はテレサ・テンの唄だ(p.56)。さらには、大学の友人らが『あなたのお友達が山ぶどうを持ってきてくれて』、と礼を言うので、彼は『くまに違いない!』と考える(p.96)。…等々々。

これがおそらくEarly 1990'sに描かれたお話で、いまではウインクとテレサ・テン、どっちも同じくらいに(?)、懐メロになってしまっている。まあそれは別にいいけど、にしてもこれらはどういうことか、と考えたら。

これは都会で独り暮らしをしている青年の、いなかの親たち(主に母親)を代理するものとして、“くま”が活躍しているのだ…いまいちありがたくもないような、しみったれ気味でピント外れな『親心』っぽいものを彼に示しているのだ…と考えるのが、適切なのでは? で、そうとだけ申し上げちゃえば、興ざめな≪解釈≫かのようだが。
しかし青年はこの“くま”に対して、『自分を喰い殺さないとも限らない!』という≪不安≫や恐怖を感じているのだ。真に≪意味≫があるとすれば、そこだ。

とまでを見たところでわれわれは、≪不安≫という概念を正しく再検討しておこう。筆者が超愛用する参考書(シェママ他編「新版 精神分析事典」, 訳・小出他, 弘文堂, 2002)から、ちょいと引用すれば…。

――― シェママ他編「新版 精神分析事典」, ≪不安≫の項目より ―――
【不安】-『名付けられない何かを予期する主体において無意識的な感情の代わりに表れる、多少なりとも強い不快な情動』。
(…この後がひじょ~うに長いので、筆者が超要約をこころみると…!)

1. 「制止、症状、不安」(1926)でのフロイトは、≪不安≫に2つのレベルを区別する。まず第1のレベルは≪母≫の喪失に由来するもの、第2のレベルは≪去勢≫の脅迫(を感じたこと)に由来するもの。『このようにフロイトにとって主体における不安の襲来は、母であれファルスであれ強く備給された対象の喪失につねに結びつけられる』。

2. ところが続いたラカンちゃまにとって、『不安は、対象の欠如には結びついていない』。『ラカンにとって、不安を構成するのは「何であってもよい何かが、欲望の原因となる対象の占める場所に、現れてくるときです」(1962, セミネールX「不安」)』。

3. ≪ラカンの理論≫の構成として、欲望の対象は欠如の状態になければならない。そしてその『欠如が失われる』という可能性が逆に、主体に不安をもたらすのだ。『乳児にとって乳房の喪失の不安を生むのは、この乳房が乳児に欠如しうることにあるのではなく、乳房がその遍在によって乳児を埋め尽くしてしまうことにある』。

4. それこれにより、『満足させてしまおうとする応答はすべて、ラカンによれば、不安の出現をもたらさずにはおかない。不安はそれゆえ「対象喪失の誘惑ではなく、対象が欠如しないということの現前」(同セミネール)である』。

というわけでたいへんむずかしい話になっているが、にしても。『対象が欠如しないことの現前』が、『満足させてしまおうとする応答』が、≪不安≫を生む…ということまでは知っておこう、かと愚考しつつ。

で、「伝染るんです。」の話に戻って。“くま”によって表象されているあらぬところ(何であってもよい何か)から青年はまなざしを感じ、かつ彼を一方的に養う≪乳房≫の遍在を彼はそこに見出し、そして≪不安≫を覚えるのだ。
かつ、このエピソードに限らず吉田戦車「伝染るんです。」という作品を特徴づけるのは、『他者のあるべくもない感情』が、あるべき『欠如』をかってに失わせてくれる、それが『欲望の原因となる対象の占める場所』をかってに占拠する。そこを描く、ということだ。
では、サルトルやカミュの言った≪不条理≫が、『“感情”の彼岸にある“もの”』であって『(心理的に)還元不能である』、という話はどうなるのか? …筆者はとうぜんだが、ここでラカンちゃまにつく。

吉田戦車「伝染るんです。」第1巻また、『あるべくもない感情』といえば。この「伝染るんです。」には、会ったばかりの他人に向かって、『もっと お母さん みたいに』…という態度を要求する、おかしな子どもが登場する(第1巻, p.112等)。
『母性的な態度』というものを『保護』という語に集約させればば、“くま”に構われてる青年は根拠もないような『保護』を受け、こっちの子どもは根拠もなく『保護』を求める…と、逆の構図らが描かれつつ。

そして、『他者(ら)のわけ分からなさ』ということに普遍性が、ある。他者によって愛されようと憎まれようと(…または前者からの分岐で、保護を受けようと依存を受けようと)、それらの感情、それらを表す“もの”らの過剰な現前が主体の≪不安≫を生む、という帰結は同じだ。なんて言い方は粗雑すぎなので、よくないが。

ここいらまでを見て、われわれは≪不条理ギャグまんが≫につき、第2段階の定義ができよう。その描く≪不条理≫の噴出とは、『欲望の原因となる対象の占める場所、欠如であるべきポイントが、“何でもよい何か”によって、かってに占拠されること』。それによる≪不安≫の発生を戯画として描き、(半ば)客観視させるエンターテインメントが、≪不条理ギャグまんが≫である、と。
といったところが結論なのだが、さいごにちょっと補足を。これの1日前、うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」を扱った記事で、筆者はこんなことを述べた。

――― 自己引用、「すごいよ!!マサルさん」の記事から(*) ―――
『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』。単純化しきったところで、≪不条理ギャグ≫とはそういうものだ。

『乳房の遍在』をやたらに描いた感じの「伝染るんです。」に対し、「すごいよ!!マサルさん」は『ファルスの遍在』、その過剰すぎる現前をやたら描いた感じ(ファルスとは、勃起したペニスをさし示す記号)。『“母”であれ、“ファルス”であれ、強く備給された対象』と、さきの引用に言われていた双へき!
で、後者≪ファルス≫を描いていく方向が、まんがとしてポピュラーだということはありそうな気がするが。にしてもちょっと、『単純化しきった』にもほどがあったかな…と、多少は反省しつつ、この堕文は終わるのだった。

2010/10/28

うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」 - 局部を見せないまんが作り

うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」第1巻 
関連記事:ラベル“うすた京介”

いわずと知れたMid 1990'sの大傑作、うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」。これをジャンル史的に見ると、自分としては、『第3世代的なギャグまんが』として、初期のきわ立ったもの、などと呼びたいのだった。

…筆者の考えた史観として、ギャグまんが史に3つのエポックとなる作品あり。それは赤塚不二夫「おそ松くん」、山上たつひこ「がきデカ」、そして吉田戦車「伝染るんです。」。これらそれぞれを、第1・第2・第3世代のギャグまんがの始まりとする。
そして第3世代的なギャグまんが、言い換えて≪不条理ギャグ≫みたいなものが、まずは青年誌の4コマやショートで展開されていたとして。それを少年誌で、レギュラーサイズの作品として展開し、しかも大成功したものとして、この「すごいよ!!マサルさん」は第1号、ということになるかと。

1. ≪不条理ギャグ≫とは何か?

さて、筆者が申し上げている『ギャグまんが第3世代』というもの。その主な方法とはどんなものかというと、端的に言ったら『タマキン(ペニス)を出さない』。
前のジェネレーションを代表する「がきデカ」らの偉業が示すように、タマキン等の≪外傷≫的なアイテムらをストレートに誇示しまくるのが、第2世代ギャグまんがの特徴だったとして。しかし第3世代的な作品らは、基本的にそれをしない。

ただし、ただ単にそうしない、ということではない。『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』。単純化しきったところで、≪不条理ギャグ≫とはそういうものだ。
タマキンに並びそうなモチーフとしてはウンコや死体らがあるが、しかしタマキンが超圧倒的。かつ、こっちの用語の『不条理』ギャグと、いわゆる思想の用語の『不条理』、大きな違いがある感じだが、それはいつかまた別のところで見よう。

と、それらを言ったら。ずいぶん後の作品になるが、「妹は思春期」に始まる氏家ト全の作品系列が、典型的な≪不条理ギャグ≫でもないけれど、しかし第3世代としての優等生である、なぜか?…ということも説明されよう。
すなわち。4コマ部門で「伝染るんです。」以降のイノヴェーションとして注目される、「妹は思春期」と倉島圭「メグミックス」。両作のどこに新しさがあったかというと、それぞれ女性を主人公としており、ゆえに出すタマキンがないところで、その代わりに≪パロール(おしゃべり)≫が提示されている。どちらもそのヒロインらが、ただ下劣なことらを『言うだけ』、みたいな作品になっていることは、偶然でも何でもない。

2. マサルさん vs.こまわり君!

やっとここまできて、この記事のメインの題材である「すごいよ!!マサルさん」を見ると。その歴史的なる第1話『マサルとヒゲ』は、何と不敵にも(?)、かの「がきデカ」の第1話『少年警察官登場の巻』を、なぞって展開している感じがある。
冒頭まず、後に言われる≪フーミン≫こと藤田くんが、『逆向小学校』ならぬ『わかめ高校』に転入してくる。で、クラスに溶け込めそうかと思って安心したのに。そこへとんでもないヤツ、すなわちマサル君が出てきて、いろいろなことが台無しになってしまう…。

ここで「がきデカ」第1話の方を見返すと、転校じゃないけど新学期のスタートという場面で、わざとこまわり君は遅れて教室に入ってきて、そしてでんぐり返しで注目を奪う。一方のマサル君は、『いなきゃいいのに』と思われているところで(!)、遅れて窓から入ってきて、人々をげんなりさせる(第1巻, p.12)。
続いた展開、こまわり君は、『少年警察官として、新学期とやらを取り締まりに来たのだ!』などとわけの分からぬことを言い、そして『仕事ですから』とセクハラを敢行したりしつつ、一同のド肝をぬく。しかしマサル君はとりあえず、へんにホットに藤田くんを見つめながらも、おとなしく授業に入る。

それからマサル君は、藤田くんひとりを相手にこそこそと、彼のセクハラ実践を始めるのだ。まずは机イスが足りないのをいいことに(?)、1人分の席へ彼ら2人が座って、超密着プレイの開始…ッ!
さらにマサル君は、藤田くんの教科書に≪ヒゲ≫の落描きを見つけ、そこから何かを独り合点して、きっぱりと彼に惚れ込んでしまう。そして、あったか~い目をしながら『ポン』と藤田くんの肩をたたき、さらには『ウォンチュッ!!』と叫んで、超決定的なセクハラを断行…!

で、それからのお話の流れを、さっさと追ってしまえば。続く場面、授業の後で、こまわり君にしろマサル君にしろ、クラスメイトに武勇伝やフィロソフィーらのご披露に及ぶ。
それから続いてバトルのシーンになり、そこでそれぞれのヒーローが『奥の手』を出す。そして、こまわり君はイヌに敗れて逆にタイホされてしまうが、しかしマサル君の方はまんまと大勝利し、何よりも重要な藤田くん(=フーミン)のリスペクトを勝ちとる。すなわち、『すごいよ マサルさん!!』というせりふの出る場面になるのだ(p.40)。

3. ティッシュとうまい棒へ、ラヴ・ミー・ドゥー!!

高橋ゆたか「ボンボン坂高校演劇部」第1巻でまあ、「マサルさん」と「がきデカ」それぞれの第1話、結末以外はわりと流れが似ていることは、確認できたとして。
しかし異なるのは、まず語り方の違い。「がきデカ」に対して「マサルさん」は語り手の第2ヒーローを設定し、その読者に近い視点から、超越的なヒーローを眺める、という形式。
そこを注目すると、「マサルさん」にすぐ先だった少年ジャンプ掲載作、高橋ゆたか「ボンボン坂高校演劇部」(1992)の形式もそれ的。なので、その「ボンボン坂」をもあわせて比較対象にして(…ややこしい!)。

で、こまわり君は、クラスの女子や先生らにセクハラをはたらく。「ボンボン坂」の語り手の正太郎くんは、演劇部のヒロミ部長(女装ホモの人)からセクハラをこうむる。そしてわれらのフーミンは、マサル君からひじょうにわけのわからないことをされ続ける。
そしてその『わけのわからないこと』を、われわれは隠微(=淫び)さもきわまったセクハラだと解釈する。

次にうわさの、タマキンの出方についてチェキると。
まずこまわり君はケンカの場面、警察手帳を示してもイヌがかしこまらないので『奥の手を出すぞっ!』と叫んで、それを出す。ところが向こうも同じものを出すので、そこでは勝負がつかない。
「ボンボン坂」のヒーローたちはどうするか。その第1話、まずは正太郎くんが、女装している部長の性別を確かめようと、そのパンツの中を『じぃ~』と熱烈に覗き込む。次には部長が、正太郎くんの弱みを握ろうとして、彼をひんむいてそれを写真に撮る。…ただし、そんなにはっきりとタマキンが描かれてはいない。
そして「マサルさん」では、ついにタマキンがまったく出ない。ブツが出ないどころか、それをストレートに示すような語さえも出ない。

ところがマサル君は、『逆に』! タマキン的なもの、それを指し示す記号、われわれの用語で≪ファルスのシニフィアン≫と呼ばれるものを、さいしょからさいごまでぞんぶんに誇示しまくるのだ。
それはまず、マサル君本人が登場する前に目撃された、彼の机の落描きに始まって。そして≪ヒゲ≫という記号を明らかなコアとしつつ、彼の出っぱりすぎな前髪、彼が両肩にはめている奇妙な輪っか、弁当箱の中に1つだけのゆで玉子、回想中に登場する捨てエロ本、『セクシーコマンドー』や『げろしゃぶ』といった奇怪な語ら、そして彼が人につけたアダ名の『ティッシュ』と『うまい棒』…等々々と展開され。

そしてケンカのシーンにて、ついにマサル君は、ズボンをおろしてパンツを丸出しに…! ここでもっとも描写がタマキンへと肉薄し、そしてお話もまた、そこで一大ピークを迎えているのだ。
そしてマサル君は必殺技の名前として、『ラヴ・ミー・ドゥー!!』と叫ぶ(p.34)。ここにそういう言い方が出ているのも、決して単なるナンセンスではない。それはタマキンの使い方の、ひとつの言い方なのだ。

そしてこの第1話、さいごにショッキングなのはマサル君が、やっつけた不良の顔にヒゲを描き込み、そして満足げに、『フウー いいヒゲ かいた!』と言う。すると彼にとって≪ヒゲ≫は、カッコよさでもありつつ同時に、敗者のらく印でもある(!)。
そしてわれわれの申している≪ファルス≫なる記号もまた、一方で性欲とパワーと男性らしさを示すものでありつつ、そのまた一方で同時に≪去勢≫を示唆する。このこととマサル君の認識とが、みょうにこの場面で、ぴたり一致してしまうのだった。

4. 誇示したくないが機能しまくっている、それ

こうして見てくると、何かが分かったのでは? まず「がきデカ」のヒーローこまわり君は、彼による『第2世代ギャグまんが』の誕生をことほぐように、そのタマキンを誇示しまくる。追ってずいぶん後だが、第2.5世代くらいの「ボンボン坂」は、それを出すにしても出し方が控えめになっている。
そして第3世代の初期のきわだった創作「すごいよ!!マサルさん」のヒーローは、もはやタマキンをまったく出さない。しかしその代わりに、その代わりの記号≪ファルスのシニフィアン≫らを出す。メリハリをつけつつ、思わぬところのあちこちからそれを、出して出して出しまくるのだ。

かつ、第2.5世代のギャグ作品「ボンボン坂」の描き方の、ちょっとユニークなところを見ると。タマキンを誇示する「がきデカ」と、タマキン的な記号らを誇示する「マサルさん」との間で、それはタマキンの扱い方に困っている感じがある。
部長にはタマキンが要らないものだし、また正太郎くんはそれを『誇示』したくはない。そして、彼の想い人のヒロインが重度の男性恐怖症なので、あわや正太郎くんにとってさえも、タマキンが要らないものになってしまいそう。…とはまた!

で、『要らなそうなタマキンが機能しているお話』として「ボンボン坂」は、こちらもジャンプの掲載作、江口寿史「ストップ!!ひばりくん!」(1981)を、反復している感じあり。かの≪ひばりくん≫が超ハイパーな『ヒロイン』であれるのは、『逆に』それがついているからだ。
ついてなかったら、何もかもが成り立たない(「ボンボン坂」も同じ)。このように、『誇示したくないが機能しまくっているタマキン』というものが現れた時点で、ギャグまんがの第2.5くらいの世代が生まれたものかと見られるが。

江口寿史「ストップ!!ひばりくん!」第3巻そしてさらに言えば、「ひばりくん」における≪ひばり&耕作くん≫の関係と、こっちの作品のマサル君&フーミンの関係。どこが異なるというのだろうか? …とはおかしなことを申し上げているようだが、フラットに考えたらご理解可能なはず。
つまりここでも「マサルさん」の描き方は、『隠微=淫び』がきわまっている、ということだ。そしてそれが、第3世代ギャグまんが特有のやり口なのだ。

でまあ、拡げすぎちゃった感が大いにありながら! ともかく急いで、話をまとめると。

やたらタマキンが誇示されるギャグまんがに続いて現れたのが、第3世代のもの。『誇示したくないが機能しまくっているタマキン』を、もはや誇示はしないという方法。だからそれではなくて、『タマキン的な記号』(ファルスのシニフィアン)を誇示しまくるギャグまんが。
けれども人はそれをそうとは思わず、ただ意味ありげなもの(シニフィアン)として受けとめ、そしてその出没を『不条理』と呼ぶ。そして、≪ファルス≫の意味するところがあまりにも両義的であるゆえのとまどいを、読者は笑いによって『受け-流す』。

そうして第3世代のギャグまんがとして、「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」は、わりとその特徴が見やすいというわけで、この堕文になっているのだ。何しろ作中の少年たちがはげんでいる武術は、『“セクシー”コマンドー』!
…そこにきっぱりと込められた性的ニュアンスを、読者は見ながら見ずして、無意識へと『受け-流す』。かくて、タマキンをやたら誇示するようなギャグまんがとは、また異なったテイストがそこに生まれたのだった。

ところでさいごに、課題を提出しておこう。「がきデカ」と「マサルさん」、それぞれの第1話の結末で、こまわり君はケンカに敗れ、マサル君は勝つ。
マサル君に続いて「ピューと吹く!ジャガー」でも、『常に勝ち、勝ち誇る変質者』というものを描いているのは、うすた作品の珍しいところなのでは? うすた先生に続いた「増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和」(2000)でも、変態ヒーローがさいごに勝ち誇るようなお話は、そうそうはない。
そのポイントを、広く検討してみてはどうだろう? そこらに新たな問題意識をいだきながら、この堕文はいったん終わる。

それと、ここまでを書いてきて思ったが。すでに早くも1980年のとり・みき「るんるんカンパニー」は、第3世代的な≪不条理ギャグまんが≫の先駆と見てまちがいない。作者さまらの言い分を直で真には受けないが、確か「The Very Best of るんるんカンパニー」の解説文で、吉田戦車先生がそれの愛読者だったと打ち明けていたし。
しかし惜しくもポピュラリティの不足により、明らかな傑作「るんカン」を、『ギャグまんが史上のエポック』とは言いえない(!)。何とも歴史とは残酷なもので、1959年の石森章太郎「テレビ小僧」が、1962年の「おそ松くん」によって『ギャグまんが第1号』の栄誉を奪われた悲劇、それがそこで反復されているのだった。

2010/10/26

おおひなたごう「おやつ」 - 楽しいの? 楽しくないの?

おおひなたごう「おやつ」第1巻 
関連記事:ラベル“おおひなたごう”

関連記事の「新・河原崎超一郎」について調べていたら、著者のおおひなたごう先生のブログにたどりついた。そしてしばらく見ていたら、そこに出ていた「おやつ」第1回のとびら絵の画像に、筆者はすごいインパクトを受けたのだった。
(画像への直リンクはいかんかと思うので、そちらのブログのこのページを開き、次に1996年12月の「おやつ」のところをクリック)

ご覧の通りなものを説明してしまって申しわけないけれど、ご覧の通りに全50ヶ所のまちがいを探せというお題で。楽しいパーティらしき絵図の50ヶ所が、下の画面では、ドロドロした無意識の世界のあれこれを示していそうな≪シニフィアン≫に化けてしまっている(シニフィアンとは、みょうに意味ありげな記号)。
50個もあってはいちいち指摘もしきれないが、『花びんの花→お線香』とか、『リボンのかかったプレゼントの箱→丸めたティッシュの山』とかの例を代表に、それらの『まちがい』のほとんどが、性や死につながっている≪外傷≫的なシニフィアンの現出とは言えそう。ようするにその場面が、夜に見てうなされそうな夢の世界に変貌してしまっている。

まあ筆者としては、その中でいちばんショッキングだったのは、床の上に落ちている少年チャンピオン・コミックスの「ドカベン」が、同「べにまろ」(1980)に変わっている、というたいへんな『まちがい』だった。木村和昭「べにまろ」もいい作品ではあったと思うのだが、しかし「ドカベン」のあった場所にそれをすげ替えたら、これはチャンピオンにとっての悪夢なのではないかと? 
見るとそのすぐ近く、壁から耳が生えているのが描かれているが、これは耳がおかしいのではなくて、存在する場所がおかしい。それと同様に、「ドカベン」を「べにまろ」に置き換えてはおかしい、ショッキングだと考えられるのだ。

さて、これを見てぶったまげ、『こんなの単行本に出てたっけ?』と思って調べてみたら、ちゃんと同じものが載っていた。
けれどもサイズの違いのせいで、インパクトにたいへんな差がついているのだった。いやあ、これを掲載誌でご覧になった方々がうらやまし~い!

さてこういうわけで、「おやつ」単行本の第1巻を引っぱり出してしまったので、久々に読み返してみて、そこから1つのネタを見ておくと。

もくじもなければノンブルないこの本の、さいしょから1/4くらいの右側のページに、『耳たぶ』という1ページのお話あり。いや、こんどの耳たぶはちゃんとふつうの位置についているものなので、そこはご安心なされたし。
どんなお話かというと、天涯孤独そうな兄妹ふたり、そのハートフルなふれあいの情景を描く。さいしょは特に設定がないのだが、追ってだいぶ後で、この兄キは職業が刑事と分かる。で、小さな妹をおんぶして、兄が公園らしきところを歩いている。

――― 「おやつ」第1巻, 『耳たぶ』の巻より ―――
【兄】 ノッコ ごめんな お兄ちゃん あんまり 遊んでやれなくて…
【ノッコ】 ううん いいの
【兄】 よし! 今日は 特別に なんでもいうこと 聞いてやらん こともないぞ!
【ノッコ】 (やらん ことも ない…?)
でも お兄ちゃん お金あんまり ないんでしょう?
【兄】 バカ言え! お金なら 無きにしも あらずだ!
【ノッコ】 (え…? 無いの? あるの?)
【兄】 そうだ! ディズニーランド 連れてって やろうか?
【ノッコ】 楽しいの?
【兄】 そりゃあもう 楽しいの 楽しくないのって !
【ノッコ】 (不安の表情で、)楽しいの? 楽しく ないの?

ここで兄キが乱用しているような『二重否定』の言い方は、用いている側はいい気分なんだけど、聞かされる側は、何となく気分がよくない。部分的・修辞的にも否定がなされていることを、聞き手の耳はちゃんと聞きとっている。単に『ある』と言うことと『なくはない』と言うことは、イコールではない。
とはいえ、距離があるべき人間関係もあるわけで、また、やたらな断言が軽く聞こえる場合もあるわけで。そこらでは、『嫌いじゃない』とか『そうも言えなくはない』だとか、そんな言い方も生きる場合があるが。
けれどもノッコの場合は、たったひとりの兄しかこの世に頼るものがない立場で、その兄から、おかしな修辞をとくいげに聞かされているのだ。そして、≪不安≫が高まるのだ。

そういえば『二重否定』について、ニホン語の場合は『否定の否定=肯定』だけど、英語については『否定の強調』になる場合がある。“I don't hear nothing”とはつまり、『まったく何も聞いていない』。
そんな言い方を授業で教わったとき、わりに多くの人が『え?』と感じたのでは? いろいろ調べていると、二重否定の言い方は、どうにも人を戸惑わせるようにためにあるような感じがしてくるのだった。そしてそのまどいを、愉しめる人もそうでない人もいる、というわけだ。

それから続いてパラパラと、このまんがの本を見ていると。ややさかのぼったページに、同じ兄妹の初登場らしきエピソードがある。こちらもほとんど同じようなイントロで、兄キがノッコをおんぶしながらの会話。

――― 「おやつ」第1巻, 『黒シャツ』の巻より ―――
【兄】 何でも いうこと聞いてやるぞ
【ノッコ】 ホント?
【兄】 ああ ホント だとも
【ノッコ】 じゃあ ねえ…(中略)
ノッコが 今までに 犯してきた 罪をすべて つぐなって…
【兄】 なんだ そんな こと…… ……………………………

これはこういうこと…なんておしゃべりを、したくはなくなってきた。

前に「おやつ」を見た記事の結論に同じで、われらのごう先生はよき時代の児童まんがのスタイルを借りながら、人々があると思い込んでいる『童心』などというものをへいきで撥無なさる。その蛮行のめざましさ、それの指し示す≪外傷≫のするどい痛みが、またここにもあるのだった。

【補足】 両作例の、サブタイトルについて。どちらも劇中にさりげなく描かれているものが出ているのだが、『耳たぶ』は『言う-聞く』という内容に対応し、『黒シャツ』は(びみょうにも)不穏な感じという内容に対応している、と読めなくもない。
何かを感じようと感じまいと自由なのだが、それはまちがい探しの中の≪シニフィアン≫らにしても同じだ。『特に意味はなかろう』と流すのも自由でありつつ、しかしその態度は、『二重否定=肯定』でまったく何の違いもない、という鈍感さに等しい。

おおひなたごう「新・河原崎超一郎」 - ≪花嫁≫は、彼女の独身者によって!

おおひなたごう「新・河原崎超一郎」第1巻 
関連記事:ラベル“おおひなたごう”

前シリーズの大好評にこたえて、あの太眉ヒーローが帰ってきた! スケールアップで再登場、無印「河原崎超一郎」の続編、「新・河原崎超一郎」!
…な~んて面白くもないウソをタレ流してはよくなくて、いままで「河原崎超一郎」には、『新』しかないはずだ。『ケンちゃんラーメン“新”発売!』かのごとく、『新』しかない。

では無印版で初代の「超一郎」は、いったいどうしたのか? どこでお目にかかれるのか?
おおひなたごう先生のいままでのやり方から推測すると、たぶんそれは遡及的に、いつか未来に描かれるんじゃないかと思う。いつになるのか、その日を待って、われわれはこの堕文を終わろう。

と、終わった方が明らかによさそうなのに、うっかりと続けてしまう。今作こと「新・河原崎超一郎」は、月刊少年チャンピオン掲載のショートギャグまんが。1994~2000年あたりに出ていたもので、単行本は少年チャンピオン・コミックス全2巻。

そのヒーローの≪超一郎≫が、太眉もりりしい1970's劇画タッチのヒーロー。まず彼が、多種多様なスポーツで活躍するようなお話で始まり、それからいきなり小学生に若返って、夏休みの工作やママのおつかいをがんばるお話になったり。
かと思うと木こりになったり協会理事長になったり、はてはアウトローに転じて銀行強盗をしでかしたり。『横恋慕が苦手』(第1巻, カバーそで)という以外は万能(?)のヒーローが、ありとあらゆる局面で不条理を巻き起こすのだ。

で、具体的に機能はしないのだが、今シリーズ中でへんに目立っているのが、≪花嫁≫という単語。
まず第2話で、超一郎をエースとする野球チームの名が『花嫁』と、スコアボードに書かれてあり。追って第3話ではプロサッカーの『花嫁ウェディングス』に所属、第4話では強盗として『はなよめ銀行』に押し入り、第5話では『県立花嫁中学校』の生徒としてクラスでイジメられ(?)…等々々。

では、どうして強迫的に≪花嫁≫の頻出なのかって、別にはっきりした答も存ぜぬけれど。しかし何となくばくぜんとそれが、まったくお色気要素などありはしない今シリーズの背後に、動因としての性的なモヤモヤが存在することを匂わせている。

――― 「新・河原崎超一郎」, 第18話『駅伝 その2』 ―――
【実況アナ】 トップは 花嫁中の 河原崎
【監督】 さすが 河原崎 よのう(…超一郎の姿をよ~く見て、)
ムッ 河原崎の タスキが ねじれている! “メビウスの タスキ”だ!
【関係者】 (中略)それは駅伝と 関係あるのですか?
【監督】 ない! ない…が!
(メビウスだけに、)河原崎は表裏のない ナイスガイだってことよ

これがどういう『意味』かって、筆者も知りはしないが! 『んだそりゃ!』と言って、笑ってしまえばすむだけのギャグだが!(第1巻, p.95)
だがしかし、ことさらに誇示されたメビウスの輪には、まったくふつうに≪ファルス≫(勃起したペニスを表す記号)っぽいニュアンスがある。そしてそれが、超一郎の着けたユニフォームの『花嫁』というロゴに、からみあいたわむれかけているのだ。
そしてラカンの理論だと『メビウスの輪』は、≪主体≫の構造を表すメタファーでもある。むずかしいけど人間の心とは、その内面を探っていると外面に出てしまう、といったこと。

さらに、よく見ると今作中での『花嫁』の語はいずれも、社会の側のもの、いわゆる『体制』、形のある組織の名前、として用いられている。それこれを考えあわせれば≪花嫁≫という語は、社会の許容する≪享楽≫をさし示している。『横恋慕』が苦手なので、彼はそれを追い求める。
しかし超一郎は、決してその≪花嫁(ら)≫とひとつにはなれずに、≪享楽≫へとかすりながら出遭い(そこね)続け、そしてさまざまなシーンとさまざまな役割を遍歴し続けるのだ。そして何ら不可能はなさげな超一郎は、逆に言えば≪何≫でもない器用貧乏な人物でもあるわけだ。

と、この物語のあらましを、いちおう説明できたような気分になったところで。次の機会には、またちょっと別なところを見ていきたい! ではまた。

南ひろたつ「もうスンゴイ!!!」 - ≪漢道≫の絶えざる限りにおいて

南ひろたつ「もうスンゴイ!!!」 
関連記事:南ひろたつ「漢魂(メンソウル)!!!」 - 走りぬけ、≪漢≫の道をッ!

「もうスンゴイ!!!」と呼ばれるスンゴいショート作品は、かの悠久の名作「漢魂(メンソウル)!!!」に先だった、南ひろたつ先生の初連載。週刊少年サンデー1997年4号~48号に掲載、単行本は少年サンデーコミックス全1巻。
そして筆者にも文意がよく分からないが、出たころの宣伝文らしきものをご紹介いたしとく。

『恋するモアイ。アンラッキー上田。そして海パンヤクゥザ。キラ星のように輝く、もうスンゴイ漢たちの伝説を新鋭・南ひろたつが贈る!!!』

さて自分の存じ上げる南センセのお作は、これおよび「漢魂!!!」全3巻だけだが。この両作にて超あからさまに貫徹されたそのテーマ性は、≪漢(おとこ)≫、郎(おとこ)、男、オトコ!…まったくもって、それ以外ではろこつになさすぎる。
こんなんだと、『南ひろたつは、≪漢≫を描いたまんが家である』…という1センテンスを見さえすれば、もはやご本人は、この世に何ら想い残すことがないのでは?…と、要らぬことを考えたりもする。

どういう調子、かというと。全11章で構成されている今作の、第1章がまさしく≪漢の章≫。そのチャプターのトビラのあおり文を引用いたせば…(p.5)。

『漢(おとこ)とは強き生き物。
漢(おとこ)とは愛を知る者。
今、真の漢(おとこ)たちのストーリーが始まる!!! 』

と、いうわけだ。

しかし思うのだが、本宮ひろしや宮下あきら等のセンセらも(おそらく)オトコを描いたまんが家だとして。
一方のわれらが南センセは、≪ギャグまんが≫としてオトコを描いておられるわけだ。筆者においては超とうぜんながら、その≪差異≫が死ぬほど重要だ。というところで、その≪漢の章≫から、実作の様相をちょいと見とくと。

…イガグリ頭で学生服のサエなそうな少年が、便意をこらえながら、『くぅう』…と廊下を歩いている。ソコへ背後から『待ちたまえ!! そこのキミ!!』と声をカケたのは、サブタイトルに名前が出ている『超人 Mr.トト』だ。
そのMr.トト様の顔は和式の便器になっており(ベンキマンか)、オデコには誇らしげに『TOTO』のブランドネームが。そして彼は少年に、その顔面の使用をうながす(p.13)。

――― 南ひろたつ「もうスンゴイ!!!」, ≪漢の章≫より ―――
【Mr.トト】 ワタシのを 使いたまえ!!
【少年】 (…びっくりしてるばかり)
【Mr.トト】 キミの魂の叫びが ワタシを呼んだ!! さぁ!
何を ためらってるんだ!! もれそうなんだろ!! 使え!! 
(廊下に這いつくばって、『使用』をしやすいようにして、)早く!! 合体だ!!
(ビシィ!とガッツの握りこぶしを示し、)『勇気を出すんだ!!』
【少年】 いや…でっ …でも…(身悶えしているばかり)

これはちょっとよすぎる気がしたので、愛とリスペクトをこめて、もういちど引用。

『さあ! 何を ためらってるんだ!! もれそうなんだろ!! 使え!! 早く!!
合体だ!!』

というこのエピソードに、南センセの描かれた荘重にして雄渾なる≪漢節(おとこぶし)≫の一典型が、いきなりある。われらのヒーローたる≪Mr.トト≫がいま魅せてくれたように、オトコは≪真の漢≫としてマスラオ的に振るまうのだが。
しかしその≪漢ブリ≫が周りには、ただ単にウザいとか濃すぎとかありがたメーワクだとか…そのくらいに受けとられがち。つまり≪漢ブリ≫は、基本的に理解されぬ…という嘆かわしき状況がある。

とまでを見てきたらわかることだが、たとえば≪応援団≫チックなオトコの示し方なんてのも、こんにちではひじょうに理解しがたくなっている。ゆえに、どおくまん「嗚呼!! 花の応援団」(1976)というむかしのまんが作品は、少なくとも半分くらいはギャグかと受けとめられている。そこまで歴史をさかのぼらないでも、「魁!!男塾」(1986)にしたって、ギャグっぽいところは大いにありげ。
かくてオトコたちが≪漢≫を貫くさまが、何かのまちがいで(?)むざんにも≪ギャグ≫に見える…という一般状況があり。それを逆にして南センセは、≪ギャグまんが≫によってオトコを描く、という方法に進まれたのでは?…と、これらを見て考えたのだった。

そうして筆者も男のはしくれみたいなので、よって≪漢道≫の追求は、生命(いのち)ある限りのタスク。自分が≪漢≫というものを考えるとき、南ひろたつ先生の崇高なる創作群を思い出さないことはないだろう。よってわれわれの論考も永遠(とわ)に続く、≪漢道≫の絶えざる限りにおいて!

2010/10/25

藤波俊彦「Only You -ビバ! キャバクラ-」 - 虚栄の闇市・偽れる盛装!

藤波俊彦「Only You -ビバ! キャバクラ-」第1巻 
参考リンク:扶桑社

藤波俊彦先生のご創作として、たぶんここまでもっともポピュラーかと思われる作品が、この「Only You -ビバ! キャバクラ-」。奥付けの表記では「Only♥You」と、題名中にハートマークあり。1997~99年あたりSPA!に掲載、単行本はSPA! comicsとして全6巻。

これがどういうお話かって、参考リンク先の版元・扶桑社のサイトによれば…。

『ビバ! キャバクラ、そこには夢・希望・快楽のすべてがある
日本に一大キャバクラブームを巻き起こし、TVアニメ化もされた藤波俊彦氏の人気マンガ』

…だそうですよ? この妙ちきりんなおまんが作品が、『日本に一大キャバクラブームを巻き起こし』た? …すごい! 偉業!
筆者から補足すると、藤波センセ特有のくどいアメコミ調、そして不条理とか下ネタとかの要素もなくはないが、しかし今作は、わりと『あるようなお話』になっている。だんだんとふつうのリーマンコメディになっているのが、ギャグまんがとしたらもの足りなくもありつつ。

1. これがおとなの学習まんが?

ところでなんだが、いいトシして申しわけない気もするけれど、今作に描かれたような夜の世界を筆者は、ほとんど実地には知らない。
思い起こせば、ほぼ唯一…。大学を出た直後、悪友に連れられて銀座のバニーちゃんたちが水割りを作ってくれる店に行ったことがあるが。しかし奇妙な後ろめたさに襲われて、まったく愉しめなかった。そもそも筆者は飲酒をしないので、そのての世界にうといのも道理ではありつつ。
そこで今作は、オレとかの知らざるキャバクラの、システムやサービス内容やその裏面等々をみっちりと教えてくれる、オトナが言う≪社会勉強≫の一環的な側面あり。ひょっとしたら、実地で役立つ『学習まんが』なのやも知れず。

で、今作のストーリーは、『安サラリーマン』を自称する若きヒーローが、キャバクラ遊びにズプププ…とハマっていくという。いや、安サラリーマンて言うけどさ。そんな玄関にわざわざ受付嬢がいるような企業の社員なんて、あからさまな≪勝ち組≫じゃねえかYO! S・H・I・T、シィーット!…なんて嫉妬(?)はともかく。
そしてその、何らリターンもなさそうなハマり具合いを見ていたら、戦後復興期のニホン映画「偽れる盛装」(1951, 吉村公三郎。京マチ子の演じる芸者がその美貌を駆使して、バカなオトコらを搾取しまくり没落させる)かのような?…という気もした。

しかしそんなまで言うほどには、作中のキャバ嬢らは、強力な搾取をしない。よって、搾られきったあげく女に無理心中を迫る男、なども登場しないし。
そこらがわれらの≪現代≫の、ヌルいところかなぁ…。筆者は自分が被害者にならない予定だし、夜の女性らの大暴れには寛容なのだった。むしろ、大いにやれ!と。

2. 要求は、必ず“愛の要求”である

で、今作「Only You」の冒頭近くに、全編のキーになっていそうなエピソードがある。

キャバ嬢の≪沙理奈≫に入れ込んでいるヒーローの≪小金井クン≫だが、物語のごく初期には、≪奈美子≫という素人の彼女もいた。で、おデートなどをしたりしていたのだが…(第1巻, p.15)。
ところが。奈美子が『フグチリ食べたい』と言うので、痛いが1万円のコースをおごったのに、しかし彼女はろくすっぽ喰わないで、『もうオナカいっぱーい』などと言いやがる。
しかも彼女は、いまだキスもさせてくれないのだとか。それこれで、素人のめんどうさに音を上げて彼は、ともかくも即行で自分をチヤホヤしてくれるキャバクラ嬢、そちらの方のかいなき攻略に、その全精力を傾注するのだった。

ところで奈美子の挙動に注目すると、それはわれわれの用語で申す≪要求≫そのものだ。フグチリごときは真の目標ではなく、その≪要求≫らに応じてくれるか否かで、相手の愛の深さをテストしているのだ。『要求は、必ず“愛の要求”である』。

で、そのような≪要求≫には、どこで終わる、どこできりがつく、ということが原理的にはない。少しは相手をほれさすだけの器量がないと、ただただ≪要求≫がエスカレートしていくばかりだろう。
そして、1人の女性を単にもので釣ろうというのなら、フグチリどころかミンクのコートでもダイヤモンドやシャンペンやマンションでも、ぜったいに足りない。≪1人の女性≫というものの値打ちは、決してそんなもんじゃない。
むしろ、ただ≪自分≫という男子1ピキを捧げる…という方が、まだしも勘定が合っている。さもなければ、作中の別な青年(サワヤカ王子サマ風)を見習って、速攻で≪欲求≫を満たしてくれるお店にでも行った方がよいのでは?

3. 虚栄の闇市、偽れる盛装!

かくてわれらのヒーローたる小金井クンは、27歳の青年として特に欠けたところもなさそうなのに、ふつうの≪恋愛≫ができない。無学でブサイクなフリーターでもしばしば彼女がいるのに、顔面も職業もまっとうな小金井クンは、お金と引きかえにチヤホヤしてくれる女性との逢瀬もどきしかできない。
彼には自分の“すべて”を捧げる恋愛もできなければ、速攻で≪欲求≫をウンヌン…という選択もできない。そのはざまにて、経理部員として身についたケチくさい計算にはげみながら、そして『偽れる盛装』の華やかさに見ほれているばかりで、彼の≪欲望≫は決して満たされるべくもない。

しかもそのキャバクラの方で、彼は女性にやさしい『いいヒト』すなわち『いいお客』…というレッテルをペッタリ貼られちまったので、もうまったく何もできぬまま、ひたすら『いいお客』の役を、ただ演じ続ける。
そしてそのキャバ嬢たちの≪要求≫が、生かさず殺さず、現在のありうるビジネスとしてタガのはまったものなので、われらのヒーローはすっきりと没落することさえもできないのだ。そもそも、題名に出ている『Only♥You』ということばのアイロニーが効きすぎで、まったくどこにも『Only♥You』がないにもかかわらず、男らはもとよりキャバ嬢らでさえ、夜の世界のどこかにはいくぶんの『Only♥You』があるのでは、というファンタジーを追い続けるのだ。

『ビバ! キャバクラ、そこには夢・希望・快楽のすべてがある』

…と、展開してきたこのお話には、とくに結論がない。何せ筆者は、この作品を第4巻までしか見ておらず、結末を知らないので(…本が売ってなくて!)。
で、実は、ああしてそうした状態こそ、われらの小金井クン(ら)が真に望んでいるものなのだ…それで彼(ら)は幸せなのだ…とは、ほんとうだけれどヤボだから言わない。金で女性を売り買いすることの是非はともかくも、そんな局面においてさえ、見えやていさいを捨てきれぬやからの集う虚栄の闇市! やってればいいんじゃないの?…と筆者はクールに、この堕文をしめくくるのだった。

あずまきよひこ「あずまんが大王」- 心の中にひそむ≪触手≫

あずまきよひこ「あずまんが大王」第3巻 
参考リンク:Wikipedia「あずまんが大王」

説明の必要性を感じないがこれは、高校生の女の子らが演じる、いしいひさいち「ののちゃん」的なファミリー4コマ系の作品。月刊コミック電撃大王に、1999~2002年に掲載。

少年誌(青年誌)のまんがなのに、ヒーローらしき男子がいなくて女子ばかり活躍するという方向性が、近ごろ目につくが。多少なりともギャグっぽい作品については、これがその先駆けというか、大きな影響源かと見れる。アフタヌーンの稲留正義「プリティー・ヨーガ」(1997)の方が先行しているが、あまり影響のあった感じがしないので。

さいしょ筆者は人々の評判を聞いて、この「あずまんが大王」を女子高のお話かと思って、読んだら共学高だったのでびっくりした。いるくせに、不自然にも、男子らの活躍する局面がまったくない。そしてそうした方向性の意味するところについては、いままでのいろいろな記事で見たとおり。
で、今作については、まれに出てくる不条理っぽいギャグがよいと思う(やたら噛む猫, ちよの父, etc)。ひとつ、筆者の心に残ったネタをご紹介しとく(第3巻, p.105)。

いつもムダにテンションだけ高くてズボラな≪とも≫が、≪大阪(アダ名)≫から借りていたMDを、『持ってくるの忘れた』と言う。すると異様なまでにおっとりした女の子の大阪は、『ええよー 私は心が広いから 許したるでー』とさわやかに言う。
で、続けて…。

【大阪】 海のように 広い心ー 具体的に言えば 瀬戸内海くらい
【とも】 ビミョーに狭いな
【大阪】 でもタコとかも 住んでるねん
【とも】 やな心だな…

大阪の見るところだと瀬戸内海はりっぱに広く、そしてタコは美味かつカワイイ(!?)のかも知れない。…しかし、ともの方はそのようには見ていない。
そして、これに対して筆者が感じたのは。大阪のような汚れないっぽい少女の心の中にさえも、どん欲な触手の化け物が住んでるのだとしたら、当方らにおいては何らむりもないな…ということだった。

川島よしお「O-HA-YO」 - ありし日の人類どもへ

川島よしお「O-HA-YO」第2巻 
関連記事:ラベル“川島よしお”

この「O-HA-YO」は川島よしお先生の、「グルームパーティー」に続いた週刊少年チャンピオン連載作(1999-2001)。単行本は、少年チャンピオン・コミックス全2巻。
そしてこのタイトルは、たぶん小津安二郎「お早よう」(1959)からいただいちゃってるもの。そこらから邪推すれば、前シリーズから少々トーンを変えて、いわゆる『大船調』っぽいヌルコメ路線に挑んだもの…かという気もしつつ。

まあじっさい、何かヌルくはなっている気がするのだった。特に今シリーズのさいごの方は、なぜなのか『デブ』というモチーフが目立ちすぎ。よっぽどの≪デブ専≫でない限り、おつきあいしかねるものが? …などと言っている間にひとつ、心に残るネタをめっけたので、それをご紹介しとくと。

――― 川島よしお「O-HA-YO」第2巻より, 『ドツキ漫才』(p.121) ―――
寄席の舞台のセンターマイクの両サイドに、蝶ネクタイをつけたロボットらが現れ、それぞれに『純でーす』、『正作でーす』、と名のる。
次に、その2体の間に割って入ってきた太めのロボ。これはSF映画の名作「禁断の惑星」の、≪ロビィ≫に似たような姿のやつ。
それが『三波春夫デ ゴザイマス』…と言った拍子に、両サイドのロボットの腹部の機構が発動。そして『バチーン』とすごい音を立てて、真ん中のロボをペチャンコにプレスしてしまう!
そうすると視点が逆転し、ここまでを舞台下から見ていた演出家ロボが、『ちがう ちが~う もっとキツく どつかなきゃ~』とダメ出し。それでロボットの1体は『すいません!!』と恐縮してみせ、プレスされたロボは内心で『ツライ…』とグチる。

これ自体がすでにむかしの作品にしたって、≪レッツゴー3匹≫のネタとは、ほんとうに『キツく』て『ツライ』。…という問題点はともかくも、これがみょうに筆者はおかしい気がしたのだ。なぜだろうか?
まず舞台がテーマなので、小津映画だと松竹の「お早よう」より、自分の好きな大映の「浮草」(1959)にふんいきが近い。かつ、レトロな漫才にレトロ・フューチャーな造型のロボット、という組み合わせのよさ。そして、『なぜロボットらが漫才をしているのか?』というところに何の説明もないわけだが、それもそれでよい感じ。

そうして筆者はこれについて、人類が滅亡したその後に残されたロボットらが、まったく意味も分からずに、ありし日の人類どもの営為らを、無意味に≪反復≫してるのかなあ…などと考えるのだった。
たぶんこのロボたちは≪三波春夫≫って何ものなのか、知らないで言っているだけなのでは?(オレだって、よくは知らねェ!) そーやって彼らは、おかしいとも思わないのに漫才をやり、生産もしないのに働き、喰いもしないのに何かを料理し、そして性欲もないのに性交のまねごとを遂行し…等々々々。

とまで申せば、それはすでにわれわれのことではなかろうか?…という気もしてくるのだった。われわれ自体が、かっての人類のまねをしてるだけ、かって生きていたと伝えられる人類の営為らを表面的に、薄ボンヤリと、『意味』も分からずに≪反復≫してるだけなのでは?
かつまた、映画マニアの“ナベちゃん”先生のお作が話題なだけに、ここまで映画の話題が多くなっているわけだが。そこで人類が滅んだ後も、小津やら溝口やらのフィルムが映写機にかかって、見るものもないままに人類の営為をスクリーン上で≪反復≫し続けたとして。それと現況と、いったい何の違いがあるのだろうか…などと、ペシミストの筆者は考えてしまうのだった。

そういえば自分のことだが、小津映画の「浮草」という題名がとっさに出てこず、思い出せたのは約7時間後、いちど寝て起きてからだった。ともかく自力で思い出せたので、かろうじてシャレになるって感じだが。
人類の行く末などは知らず、それ以前にオレ自身の存在が、レトロ・フューチャー(?)なポンコツになりつつありげ! やばし。

川島よしお「さくらんぼ論理」 - Break on Through のススメ

川島よしお「さくらんぼ論理」 
関連記事:ラベル“川島よしお”

「さくらんぼ論理」というタイトルは、たぶん花田清輝「錯乱の論理」(1940)のもじり。これは川島よしお先生の、ヤングチャンピオン掲載の表題作を中心に、女性誌やら何やらいろいろなところに出た作品らのオムニバス。ヤングチャンピオン・コミックス全1巻。

その単行本が近ごろはけっこうなレア品で、ずいぶん探し廻って見つけたものなんだが。そして読んでみて、『探したかいあった! ひじょうにいい!』と思ったのだが。
しかしどこへまぎれ込んだものか、現在それが当家でのレア品になってしまっている。

などと気にしていたら、これについて去年の夏に書いていた堕文が見つかった。そこでひとつ、ほんのごあいさつとして、それを手直しして掲出させていただきたい。

――― 川島よしお「さくらんぼ論理」より, 『なげやりさん』(p.108) ―――
はでめな背広を着た初老の男が、夜中のビルの屋上で、
『“造反有理” って… なんのこと だったっけなぁ…』
などとうっすら考えている。他にも少々考えをめぐらすが、しかし『そんなことは どーでも いいか…』という結論に落ちつく。
そして『どうせ 自殺 するンだし…』と言って彼はクツを脱いで、身投げの構えをとる。

念のため、“造反有理”とは『反逆オッケー』くらいの意。だがしかしオレから見ると、『どうせ自殺するので、“造反有理”ということばの意味が分からんでもよい』…てのは、ぜんぜん話が逆!
そうじゃなく、“造反有理”ということばの意味さえも忘れてしまったので、このクソくだらねえ社会ごときに屈服して彼は、ただ自殺していくハメになっているのではッ!? ま、そのことを逆から明らかに、しているがゆえの≪ギャグ≫だけど!

と、ここでもう話がつきているのだが(!)、ちょっとだけ補足いたすと。これは川島よしお先生のご著書で、そのさえわたったペンワークの色ツヤがもっとも楽しめる本。
特に高畠華宵の画風を模してるところとか、ひじょうにゾクッとさせられる。その後、21世紀の作品ではタッチがまた変わっているので、これがずいぶん貴重な一品になっている感じなのではっ!? でま、その他の内容の話は、またいつか!

水口尚樹「地底少年チャッピー」 - 地底人だけに、暗黒の微笑をたたえ

水口尚樹「地底少年チャッピー」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「地底少年チャッピー」

「地底少年チャッピー」は、2006年に週刊少年サンデー掲載のギャグまんが。単行本は少年サンデーコミックスより、全3巻。

たぶん版元の方から出たあらすじによると、それはこんなお話。

高校二年の女の子、土屋ミヤコの前に突然現われたちっちゃな少年と、その子よりもっとちっちゃな美形の男はなんと地底人だった!! 漫画家『水口尚樹』が描く地表観察日記ギャグ、ここに開幕!!

それはまあそうなんだが、しかしそのどこらに見どころがあるかというと?

1. 穴があったら入りたくて!!

お話の始まり方は、こう。ある晩、ミヤコの家の庭の土中から、ボコッと浮上した地底少年チャッピーくん。大きなひとみと、くるるんうずまき型の前髪がチャーミー。
それが胴体には、何か真っ赤なヨロイ的なものを着込んでおり。そして肩にはトゲトゲの武装、腕と足はボーダーという、びみょうにはおしゃれかも?…というスタイルで登場。
そしてこの少年が、空を見上げて、はればれと『暗く湿った 地底と違って 眩しいやぁ!』と言う。そこへミヤコが、『夜なんですけど』と突っ込む(第1巻. p.9)。

追って分かるのだが、地底人が地上に達することは、地上人だったら宇宙に行くぐらいの大冒険らしいのだ。そこらを真に受けると、『夜空がまぶしい』はなっとくいく。
そしてチャッピーくんは『この景色を、地底の祖父にも見せたかった…。けれど、もう祖父は…』などと、思わせぶりなことを言う。ずっと引いていたミヤコは、そこではじめて相手の側に心を動かす。

【ミヤコ】 え… ま まさか おじいさん…
【チャッピー】 あ すいません… 地底人 だけに…
湿っぽい 話して。(超どアップ、とくい満面!)
【ミヤコ】 (モノローグ)コ…コイツ まさか、それを 言うために?

『地底人だけに、話が湿っぽい』、『地底人だけに、発想が超ネガティブ』。これらを言うため『だけ』にチャッピーくんは、地上に現れたようなものなのだった。するとその存在は、いわゆる『出オチ』的。このまんが全3巻、追ってだんだん苦しまぎれのようなお話が目立ってくるが、それもそのはずなのでは。

そして、そこらに注目すると。これの単行本・各巻の裏表紙に2コマまんがが載っていて、それが手っ取り早く、今作のテイストを伝えてくれそうな気が?
それはほんとうは、英語・ヒンディー語(?)・中国語の対訳まんがなのだが、その日本語の部分だけ、ささっとご紹介いたせば。

――― 水口尚樹「地底少年チャッピー」第1巻, 裏表紙より ―――
【ミヤコ】 (読者に向かって、)私はヒロインのミヤコです。
そしてこちらが主人公の…
【チャッピー】 (土中から顔だけ出して、)やめてよ、主人公だなんて…
地底人だけに恥ずかしくて穴があったら入りたくなる!!

――― 水口尚樹「地底少年チャッピー」第2巻, 裏表紙より ―――
【チャッピー】 (食事中のミヤコに、)地底人として大事な質問があるんだけど…
カレー味の土と、土味のカレーとどっちが… ねぇ、ちょっと聞いてる!?

――― 水口尚樹「地底少年チャッピー」第3巻, 裏表紙より ―――
【チャッピー】 (スペイシーなお姿の人物を紹介、)地底人だけに
土星人と知り合いになったよ!!
【ミヤコ】 スゴーイ!! 何かアンタよりずっとしっかりしてそうね!!
【土星人】 いきなりですけど脱糞しまーす。
【チャッピー】 それが土星人だけにさらに輪をかけたバカなんだ!!

ちなみにミヤコの名字が『土屋』だったわけなので、彼女が今作のヒロインになってしまったことにも、まあ必然性が…たぶん!
そしてこれらを見ると、こういう2コマとか4コマの形式の方が、今作は面白くなったような気もしてくる。いつも筆者は水口尚樹先生のお作につき、『いいところはいいんだけど、構成がややゆるいのでは?』と感じている。

2. 悪夢、終わらない悪夢!

さてだ。面白げなパートをご紹介いたした後だから、申し上げるけど。今作こと「地底少年チャッピー」には、ひじょうに不気味で怖いお話、と受けとれる面がある。
端的に申してしまえば、この作品で言われる『地底』とは、死者の世界なのだ。何しろ今作は、始まり方からしてハイパーだ。

第1話の冒頭でミヤコは、かわいがっていた金魚のチャッピー、それが死んでしまったので葬ろうとして、涙をこらえながら庭に穴を掘っている。そうするとシャベルの先に、何だか『ガッ』と当たるものがある。
それが、チャッピーくんだった。ミヤコのシャベルは、彼のかぶっていたガラスのヘルメットを貫通し、例のうずまきの部分に刺さってしまう。ヘルメットはこなごなに砕け散り、そしてチャッピーくんのおでこから、『フバァァァ』と血が噴き出る。それでびっくりして、ミヤコは『キィヤアァァ――!!』と叫ぶ(第1巻, p.7)。

と、ひじょうにショッキングに今作は始まっているのだ。ところがその血がすぐに止まって傷が治ってしまったので、ミヤコは相手を尋常でないとさとる。
それから場面は、さきの地底ギャグ初ご披露シーンに。それが決まったので気をよくしてか、彼はちょっと態度を変えてきて、『お姉さん名前 何ていうの? 僕の名前はチャッピー!!』と、さわやかに自己紹介。
ところが、なぞの少年が≪チャッピー≫を名のるのが、またミヤコにはショッキングなのだ。

【ミヤコ】 何でアンタが チャッピー なのよ!?
(地面へと視線を走らせ、)チャッピーは 私の金魚… あれ!?
【チャッピー】 (足の裏に貼りついた“もの”に気づき、)ん、何だ これは?
【ミヤコ】 いやああああぁぁ!!!

ここでミヤコは、気を失ってしまう。われわれの見方だとこの展開は、人が悪夢からさめる瞬間を思わせる。わりときれいに、そのふんいきが再現されている。
そして直後のシーン、あたかもそれだったかのように、ミヤコは自室のベッドの上で目ざめる。それから彼女が階下へ向かうと、ダイニングキッチンではミヤコの両親が、チャッピーくんを交えて楽しく朝食を摂っている(!)。
ここでチャッピーくんの地底ギャグが、またジットリとさえやがる。悪夢は、終わらないのだ。われらが地底人のチャッピーくんは、死んだ金魚のチャッピーの転生…という感じもしないが、しかし何かみょうに関係ありげなものとして、入れ替わりに『地底』から登場してきたのだった。

ではこの第1話を、いちおうさいごまで見ておくと。

追って両親がへいきでチャッピーくんを引き取ろうと言い出すので、不ゆかいでミヤコは家を飛び出す。ところが路上でヤクザの人に激突してしまい、からまれそうなふんいきに。
そこへチャッピーくんが追いついて、『友達だから』助けようみたいな展開へ。すると死んだチャッピーの祖父が回想として登場し、そしてへいきで場面に割り込んでくる(!)。

…で、中国拳法の必殺わざ『竜の拳』に、地底人テイストを加えた『“土”竜(もぐら)の拳』というものが、まったくの不発に終わった後。危機一髪のチャッピーくん、そのおでこのうずまきのあたりが、『ゴオオオ』と輝き出す!
まばゆさに目がくらんだ後、その光がやんだら、さきのおヤクザさんがいない。どうしたのかと聞いてみたら、チャッピーとその死んだ祖父はそろって『ナイショ♥』のポーズをとって、『オフレコで』と、答にならない答を返すのだった(p.26)。

3. ≪うずまき≫の、謎と神秘…!

伊藤潤二「うずまき」第1巻そういえば先日、自分は伊藤潤二先生の「うずまき」(1998)というお作を読んだ。これがご存じのように、すさまじく『悪夢』的な衝撃ホラー作品だが。
そしてチャッピーくんのおでこのうずまきは、潤二先生の描くそれと等価なのだ。そのいずれもが≪死≫とか≪虚無≫とかへ通じる回路を示す記号であり、それが一方で『ホラー』、また一方で『ギャグ』として描かれているのだ。
「うずまき」第1巻(スピリッツ怪奇コミックス)の巻末あとがきに、うずまきの謎と神秘を解明しようとし、潤二先生がナルト巻きやサザエらを食しまくったようなお話が、コミカルに描かれている。…これだ。潤二先生の描き方はほほえましくも不器用だが、同じ≪不条理≫が扱い方しだいで、ホラーにもギャグにもなるわけなのだ。
(余談だがそうなので、ギャグに並んでホラー作品は、筆者にとってまんが界の最重要なジャンル!)

と、ひじょうにイヤなイベントだったにしろ、彼に借りを作ってしまったミヤコ。追ってその夜、こうなったらチャッピーくんが家にいてもいいと言うと、意外に彼は『いや、もういいや』と、逆にそれを断ってくる(!)。
放っておけば出しゃばってくるのに、こっちが押していけば引くという、『地底人だけにネガティブ』現象の発動なのだ。けれどもどっかへ行ってしまうのかと思ったらチャッピーくんは、いつの間にか土屋家の庭先に彼のマイホームを建てていて、そこへ居つきやがるのだった(第1話・完)。

と、このように、あざやかな≪不条理≫を描いて始まった、このお話。かわいい顔して死の世界から、湿っぽくもネガティブな言動をしにきたチャッピーくん、土中から顔だけ出てるヒーローという、ざらにはない絵図を描いたもの。
その全編が超面白まみれと言ってはうそになりそうだが、しかしひじょうに忘れがたい作品ではあるのだった。いずれまた、そのいいところを見ていきたいと考えながら、いまはこのへんで!

2010/10/24

やぎさわ景一「ロボこみ」 - We are the ROBOTS

やぎさわ景一「ロボこみ」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ロボこみ」

今作こと「ロボこみ」は、筆者が主張する週刊少年チャンピオンの『“萌え”おちょくり路線のギャグまんが』、その中でもっともきわだった創作。それ的なものとして、2004年から1年半ほど掲載されたショート作品。単行本は、少年チャンピオン・コミックス全4巻。

補足すると、近年の週刊少年チャンピオンのギャグまんがには、『“萌え”おちょくり路線』という系列があるかのように、筆者は思い込んでいるのだ。それは2000年の伯林「しゅーまっは」あたりを起源とし、そして現在の安部真弘「侵略!イカ娘」にいたるもの。

1. まじめで明るくてみんなの人気者

それはどういうのかというと、いわゆる『萌え』っぽいキャラクターをいったん出しておきながら、追って不条理やグロテスクの出現で、ショッキングに落とすような作風。あわせて倉島圭「24のひとみ」や桜井のりお「みつどもえ」にも、びみょうにはそうした志向がある感じ。
だがしかし「しゅーまっは」や「ロボこみ」に比べたら、現在の「イカ娘」の不条理さとグロ味は、少々微温的かも? よってこの路線がチャンピオン誌上で、今後ますます発展しそうな気がしてはいないが。

で、この「ロボこみ」が、どういうお話だったかというと。まずそのヒーロー≪石上くん≫は、やたら髪がハネている以外、きわめてふつうの少年(かのように見える)。その彼が転入先の高校で、ヒロインの≪鈴木ロボ子≫と出遭う。なぜかその女子が、みょうに彼へとなついてくる。
ではそのロボ子が、どういう女の子かというと。まず性格はまじめで明るくてみんなの人気者、かわいいと評判で成績は優秀、ちょっとドジなところもあり、男子らからはモテまくり。それは、ひじょうにけっこうなのだが…。

けれども石上くんにはそのロボ子が、ひじょうに珍妙な人型ロボットにしか見えないのだった(!)。ごく短い胴体からフレキシブルチューブの細い四肢が生えていて、そして手足の先がひじょうにメカメカしい。その手の指は、4本ずつだし。
そしてその顔はネジ頭もむき出しの作り物で、頭頂部からV字型のアンテナが『アホ毛』風に突っ立っており。さらにおさげ髪のありそうなところから、なつかしいSCSIか何かのズ太いPC用ケーブルが、プラグ丸出しでぶら下がっている…と!
また近づくとモーターか何かの作動音がするし、かつ歩く音が『どみゅん どみゅん』、と重い。のちに知られることだが、その体重もまたひじょうに重い。そして動物たちは、基本的には彼女を恐れて逃げてしまう。

…ところが! ロボ子がそのように見えている人物は、何と石上くんだけのようなのだった。一般の生徒もその他の人々も、ロボ子を単にふつうのかわいい女の子、と見ているのだ。特に石上くんがショックを受けたのは、自分の妹の≪邑子(ゆうこ)≫にさえ、ロボ子がふつうに見えていたことだ(第1巻, p.24)。

2. 害意もなくしてファイアーボム!

しかもそのロボ子が、どういう設計思想なのか、全身これ武装のかたまりでもあり、きわめて危険なしろものなのだった。『7つの威力』を持っている、というふれこみのロボット少年がむかしいたけれど、しかしロボ子の有する火力はそれどころでない。
その第1話のさいご、まったくふつうな感じで、肩を並べて下校していたロボ子と石上くん。そこへ向かって車が暴走してきたのを見てロボ子は、『危なァァ――いっっ!!』と叫ぶや、セーラー服のエリの部分を『バクン!』と開いて、そこから雨あられとミサイルを斉射! 暴走車をあっさり大破させて、彼たちの難を逃れる。

で、『ビックリしたァ…』と言ったかと思えば、ロボ子は転校生の石上くんに、『学校は もう慣れた?』と、ふつうの話をへいきで続けてくるのだった(!)。いつもそうなのだがロボ子は、自分がミサイルや光線などを撃ちまくった、という自覚ができないらしい。
だがしかし『ビックリした』のはよっぽど石上くんの方で、彼は青ざめながらなま返事を返すばかり(p.12)。その内心では、こうつぶやく。

【石上】 (モノローグで、)「お前にだけは 慣れねェよ!!」

アクアプラス社「To Heart」より≪マルチ≫そして。これらを見て思い出すのだが、『萌え』なんてことばが、いまだ目新しかったMid 1990's。アダルトゲーム「To Heart」のヒロインの1人、ロボット少女の≪マルチ≫が最初期の『萌えキャラ』として、かなりな人気を博したものだった(*)。
そしてロボ子のあり方は、ちょっとそのマルチを裏返したもののような気がするのだった。いやそっちのお話をよくは知らないので、あまり確信はもてないが。

たぶん「To Heart」のお話で人々は、マルチがロボットだということを知っている。マルチは耳がへんである以外、ほとんど見た目が人間と変わらない。そしてたぶん彼女は、人々にもヒーローにも大した害悪はなさない。むしろイメージとしては、被害者であり犠牲者であることに徹している感じ。
一方の今作「ロボこみ」のロボ子は、ふしぎに人々からロボットだと思われていない。その見た目は、ある種かわいいと言えなくも?…だがともかく、ひじょうにメカっぽい。そして彼女は武装のかたまりで、害意もないままに破壊活動をやりまくり! やがてお話が進むと、その主なる被害者は、ヒーローの石上くんになる(!)。

通じているのは悪意のなさ、≪無垢≫という特徴と、あと例の『ドジっ子』ですぐテンパる、というところか。そして両作品のセーラー服の恥ずかしい赤さが、みょうに共通するものを筆者に思わせるのだった。ところが今作は、「To Heart」が普及させたような『萌え』という感覚を、明らかにおちょくって撥無しているのだけど!

そして「ロボこみ」作中で石上くんは、彼が『理不尽な存在』と呼ぶロボ子によって、ふり廻されまくるのだった。追ってさらにこの作品には、幽霊や化け猫や宇宙人といった人外の少女、さらにオカルト狂や特殊コマンドや自称エスパーといったエキセントリックすぎ少女らも登場し、ますますギャルゲーっぽさを深めるのだが…。
しかし何者であれ彼女らはいちように、何だかんだで石上くんを、超ひどい目に遭わせるのだ。その端的な結果は、われらがヒーローの病院送り(!)。めんどうだから数えないけれど今作には、そして石上くんが入院へ、というかわいそうなオチがやたらに多し。ここではわれわれの申す≪外傷≫的なイベントらが、そのまんま肉体の外傷に帰結するのだ!

3. 不在の父性の≪ファルス≫たる少女

そういうわけだが、いまはかんたんに、ロボ子にしぼって考察しよう。この作中で、ロボ子に関する認識の違いは、なぜに生じているのだろうか?
むかーし考えたことなんだが、それについては3通りの解釈が可能かと。

I. 『SF的解釈』 ロボ子のボディから洗脳電波が出ていて、それで人々は、彼女がロボットであることに気がつかない。それが石上くんに効かないのは、特異体質か何かのせい。ロボ子が動物らに強く嫌われていることは、この説を補強する感じ。
II. 『叙述のトリック?』 実は、語り手の石上くんこそがおかしい。ふつうの少女を、なぜかロボットだと思い込んでいる。『精神病』なのかも。
III. 『象徴的・心理的解釈』 IIの変形。石上くんからロボ子がおかしく見えていることは、思春期の少年にとって、異性が異物的にも見えることの象徴的な表現。同じくロボ子の危険さは、『異性のふれがたさ』の誇張されたもの。

…諸姉兄は、どの説がお気に召されるでしょう? 自分的には、わりといつも申し上げるような『象徴的解釈』をとりたいわけだが。けれどもけっきょく、『それはこう』と断言はできないもののような気がするのだった。

ところで筆者が考えるのは、ロボ子が作り物だとすれば、必ず誰かがそれを作ったのだ、ということ。それがどういうマッド・サイエンティストのしわざなのかを、今作は明らかにしていない。いやそれが明らかでないからこそ、われらのヒロインが『理不尽な存在』なのだが。
そこで考えると、『狂った父性』、そして不在の父性の≪ファルス≫として、この珍妙にして危険きわまるロボット少女が生まれ、そこらを徘徊しているような気もする。だが一方、危険にしたって善意の無垢なる存在として、その父性はロボ子を生み出したのだ、とも思える。
(≪ファルス≫とは手短には説明しがたい概念だが、とりあえず『勃起したペニスを象徴する記号』。そして、娘は父の『想像的ファルス』でありうる)

そのように、≪ギャグ≫に関することの通例として、ロボ子という存在はあくまでも『両義的』であることをやめない。そしてそれに対する石上くんの態度もまた、両義的である以外にないのだった。
かつまた≪ロボット≫に関するお話らは、けっきょくのところ『人間とは何か?』という問いかけに帰するものなのだ…ということも、憶えておく必要はある。≪無垢なる少女≫に近いものが、必ずしも害をしないということはない。それはマシーンでありプログラムされたものであり、それ自身の意思に関係なく、何らかの作動をする場合もある。ロボ子がしばしば、それで大暴走してくれるように。

そうしてロボ子のあんまりなヤバさ、その表している真実さは、『萌え』などと称される独りがってな想像ワールド、そのいい気な感覚を、撥無し続けてやまないのだ。もちろん人には想像の自由もありながら、しかし今作「ロボこみ」らこそ、そんな想像ごときを突き抜けるリアリズムの創作なのだ。

2010/10/23

田丸浩史「ラブやん」 - 「ラブやん」第14巻のエピソードから

田丸浩史「ラブやん」第14巻 
参考リンク:Wikipedia「ラブやん」

昨日発売、10月22日発の「ラブやん」最新14巻を見てひとこと、というタイムリーな記事。いや、その日にたまたま売ってるのを見つけたので、すなおに買い求めて。

まずこの作品「ラブやん」は2000年にアフタヌーンの関連誌でスタート、追って本誌に栄転し、絶賛連載中。そしてその主人公≪カズフサ君≫は、スタート時点から現在まで10年間ずっと、ロリコン・オタク・ニートというイバラの人生(?)をバク進中。作中では5~6年しか歳月が過ぎていないようだけど、にしてもすごい。

で、プロローグの第1話で、そのような彼に彼女を作ってあげようという善意の機構が発動。ラブ時空という異空間から、天使でありキューピッドである≪ラブやん≫が降臨する。
そしてご苦労にも住み込みで、ドラえもんとラムちゃんと「ああっ女神さまっ」等々を合わせたようなポジションで、ラブやんが活躍するが。…しかしこの10年間、まったくどうともなっていない!

――― 版元・講談社のサイトから、「ラブやん」の宣伝文 ―――
ロリ・オタ・プー、三重苦そろった大森カズフサの恋をイイ感じにすべく、
ラブ時空から愛の天使ラブやんがやってきたけど、結局ダメダメにというお話!

簡潔に言ったら、ただそういうこと。いったい10年間もこの人たちは、何をやっているのだろうか? まあこの作品はストーリーうんぬんじゃなく、細部を楽しむギャグまんがなので、ぜんぜんいいのだが。…にしても、ややふしぎなのでは?

1. つまり≪彼ら≫は何を求めているのか?

カズフサ君があまりに大物すぎることは別として、どうにもならない理由のひとつを言うと、ラブやんがいまいち勤勉でない。もとは超優秀な天使界のエリートだったらしいのだが、カズフサ君のペースに巻き込まれ、ダラダラといっしょに過ごしているだけになりがち。
『クライアントとの、適切な距離の取り方』。精神分析を元祖とし、そこから派生した『カウンセリング』的なことは、いずれもそれを教えているはず。そこが必ず重要な問題なのに、それをラブやんはうまくできていないようなのだ。

かつまた。ラブ時空からやってきた愛の伝道師、というところで今作は、『産めよ増やせよ地に満てよ』という、神の意思の存在を匂わせているような? そしてロリコンでオタクの人々が、それにまっこう逆らっているので矯正しなければ、という話のような感じもあるが…。
ところが愛の伝道師の方々は、不倫でも何でも男女をくっつければ『仕事』になるような、大ざっぱ&乱暴なことを言う。『うちら、宗教みたいのとは、あまり関係ないんで』とは、天使らの1ピキがどこかで言っていたことば(!)。なのでその正体が、ややつかみかねるのだった。それは、いずれ追求されることとして。

かつまた。オタクが売りのカズフサ君にしても、『二次さえあればいい、リアルの女ごとき要らんのだよキミィ!』と、そういう風に徹底はできないわけだ。ロリオタのぶんざいで彼はリアルの彼女がほしくて、しかも可能な限り『若め』なペドっ娘で…と、まったくできない相談をしかけているのだ。
それがまったくできない相談であり、しかもカズフサ君はその企図の『成功』を、さけて立ち回っている感じさえもある。そんななので、ラブやんの上司が部下の業績のなさを責めきれないのも無理はない、かも。

それこれでこの作品は、現代ニッポンにおける、カッコはよくないけどある意味ビビッドな人間像(=ロリオタニートの人)を中心とし、『つまり彼らは何を求めているのか?』を明らかにしようとしているような…そんな気配もありつつ。
そしてこの21世紀に、そっちの方々のナルシシズムをくすぐる『オタク肯定』的なまんが作品らがクソほどもあるが、これは少々異なる。『現にどうしようもなくそうである』ということを出発点にしながら、何か異なるところへ抜けようとしている人々を、今作は描いているのだ。

ところがその苦闘の中から浮き上がってくるのは、このヒーロー君のどうしようもないナルシシズムというか、単純に怠惰というか、あまりにも『想像』の世界に生きすぎというか。それらがきわめてショッキングに包み隠さず描かれ、しかもなすべきでない≪共感≫を迫ってくる(!)、そのことをギャグとしてわれわれは『受け-流す』。
今作の受容され方の特徴として、『なぜかメディアに無視されまくり』とは、よく言われることらしい。筆者は『メディア』を見ないので、そんなにまで無視されているのかどうかは知らぬ。けれどもこれが、リアルな≪痛み≫のある作品だからこそ、軽いおしゃべりの題材にはならない…ということはある感じ。

が、しかし、これは第14巻への寸評を意図して書き始めた堕文だし。拡げていると超長くなっちゃうので、以下なるべくしぼった話を心がけて!

2. オレは女の子である、オレはカワイイ!

さていきなりだが、どうしてわれらのヒーローがペドフィリアなのかというと? それの理由はひとつとは申し上げないが、まずは一種のナルシシズムなのだ、ということはある。
彼が少女らに想定している≪純真無垢≫みたいなものは、かって自分がそなえていたと思い込んでいる≪純真無垢≫なのだ。それを彼は、少女をどうにかすることによって取り戻せる、と思い込んでいるのだ。

ところがここまでの実作でも明らかなように、そんな少女の≪純真無垢≫みたいなものは、実在はしていない。そのことをきっぱり描いている点においても、今作はロリコンまんが(?)として非凡だ。
それは彼が、『あってほしい』とか『あったと考えたい』とか、思い込んでいるだけのものなのだ。そしてその幻想を捨てきれないのでカズフサ君は、いつまでも独りがってに傷ついて苦しむのだ。

で、このての幻想が捨てきれないどころか高まっていくと、さらにいろいろゆかいな≪症候≫らを、われわれは見学いたすことになる。まずは幻想の回路が短絡して、『オレは女の子である、オレは純真無垢であり、オレはカワイイ』、となる。世に『萌え』と呼ばれる趣向のコアは、ようするにそれだ。

ここから、やっと第14巻のお話になり。その第96話『追憶売ってます』(p.27)で、≪瘤浦(こぶうら)先生≫という新キャラクターがデビュー。この中年女性の催眠術師は、治療ではなくエンターテインメントとして、催眠術でお好きな夢を見せてあげる、という。任意の夢を見せるのに、それが『追憶』と呼ばれているのも意味深ぎみ。
またこのキャラクター瘤浦が、寺沢武一先生の「コブラ」から来ているものであることは確かそうなのだが。がしかし、あれのどこをどうもじったら催眠術師の中年女性になるのかは、筆者には見当がつかぬ。
それは、元ネタをあまり知らないから…? 田丸浩史先生の描くアプロプリエーション(いわゆるパロディ)は、こういうびみょうによく分からないものが多いと思うが、それはともかく。

寺沢武一「コブラ」第1巻かつ、この21世紀にどうして『催眠術』なのか? いまふつうだったらサイバースペースにジャックインしてバーチャル、みたいに描かれそうなお話が、どうして『催眠術』なのか?
…それは考えたって、どうせ分からないので考えないが。にしてもこのエピソード群の内容は、『催眠術療法は、“治療”をしていない』というわれわれ分析側の主張に、たぶんシンクロしたものではある。

で、だ。エピソードの前半、好奇心の旺盛なヒロインとヒーローは、瘤浦の施術を受けて、それぞれに希望通りの夢を愉しむ。ラブやんは『世界最強のキューピッドに』、カズフサ君は『ロリ系ハーレムのご主人さまに』、と。
が、それがひじょうによすぎたらしく、『これは麻薬みたいなもんでマズいのでは?』と彼らは危機感をいだき、『ほどほどに』とお互いをいましめあう。ところがその次の日、カズフサ君は同居人のラブやんを出し抜いて、独りで術師のところへ向かう。で、言いやがったリクエストがものすごい。

【カズフサ】 (キッパリと、)オレは猫耳 少女なんですよ
【瘤浦】 (引きながら、)………………………… はあ

長いので、続くカズフサ君の妄想トークを要約。…『それがある日、5年生の男子から一斉にコクられる。「私はみんなのアイドルだにゃー!」と言ってごまかすも、皆もうたかぶっちゃって、もろびとこぞりて俺に襲いかかってくる』…。

【カズフサ】 無垢な おちんちんランドと 猫耳美少女・俺… こんな方向で!!

はい出ました、キーワード≪無垢≫! そして瘤浦が、この理解を超えすぎたリクエストを『あたしに 任せな!!!』と、ともかくも引き受ける、その態度がいいんだか悪いんだか…。
そして気づきたくもなかったことだが、この第14巻のカバーを飾っているネコ耳少女。どういう新キャラクターかと思ったらそれは、このときのカズフサ君の自己イメージに他ならぬものなのだった。いやぁ~!!

3. まだしも『ふつう』のロリコンの方が?

で、このあたりでラブやんはいっぱい喰わされたことに気づき、急いで瘤浦のもとに向かう。そして彼女がたどりついたとき、カズフサ君は施術用のベッドの上で四つん這いで、全身を突っ張ってへんな汗をかきガクガクとふるえながら、心は向こう側の世界で、そしてこんなことを言ってやがる。

【カズフサ】 にっ 人間の交尾は 激しいニャ―――ッ!!!
(急にぐりんっと振り向き、)そっ そこは チガウ穴ニャ~~~ッ!!!

≪ギャグ≫とは“必ず”ショッキングなものとはいえども、ずいぶん超えたことが、ここで描かれているのだった。そして筆者だったらそのまま帰っちゃうような場面だが、しかしわれらの誠実なヒロインは、りちぎにもカズフサ君を叩き起こしてツッコむ。

【ラブやん】 (きっ、と指さして、)オマエは 潜在的に ホモよ!!

ところがカズフサ君はしれっとして、恥ずるところがまったくないようだ。かつ、ラブやんによる彼への分析は、いつもこのようにキレがないし実効性がない。いままで彼たちがどうにもなっていないのは、そのせいもある気配。
そしてラブやんが、『何で女の子になる 夢を見てたの?』と問えば、カズフサ君はこう答えるのだった(p.43)。

【カズフサ】 女の子が好きと いう考えを一歩 おし進めたまで!!
女の子が好き 女の子がほしい 女の子になりたい
これはごく自然な 思考の流れ ではなかろうか?

なあ~るほど。このカズフサ君の弁明によって、こんにちのオタク界における『男の娘』やら『TS(トランスセクシュアル)』やらの流行が、きれいに説明されるし。また「けいおん!」やら何やら、女の子らがじゃれているだけのおまんがをロリオタの方々がご愛読なさっていること、それもさくりと説明される。

で、別にいい。ある種の人々がそんな『想像』にふけることは、かかわりなき者らにはいちおう無害なので、別にいい。ただキモいだけで。
だがしかし、われらのヒロインはりっぱな関係者だし。そして彼女がカズフサ君についている理由は、彼にリアルの彼女を作ってあげるためだったような話だ!
無意識に女の子である段階をも通りこし、意識的にまで女の子であるような男子。それの彼女に、いったい誰がなるのだろうか? これではふつうのロリコンの方が、まだしも何とかなりそうなのではッ?

いやはや。このシリーズの第何巻だったか、そのヒーローが『かわいければ、おちんちんのついている生き物も、等しくいとおしいと思えるようになった』、などと言い出したころから、『これはヤバげ!』とは思っていたけれど。
それがもう、1年とか2年とかも以前に見たお話で。それからわれらのヒーローは、きわめて順調に、その≪症候≫の深まりをきたしているのだった。

4. 性交は、不可能かつ不可避!

そうしてさいごに、同じ第14巻から、瘤浦の夢操作のお話を、もうひとつ見ておくと(第99話『刑事長』, p.87)。
またしてもラブやんに黙って、瘤浦の術を受けに行くカズフサ君。そこでラブやんは、『戦わなくちゃ 現実と!!』と気合いを入れながら、それをとっちめに向かう。
ところが少々ようすが違っていて、このたびのカズフサ君はやすらかにベッドに仰臥しており、そして寝言に『ん――…… ラブやん……』とつぶやく。

そこで彼女はカズフサ君が、自分とラヴラヴな夢でも見ているのでは、と考える。それを彼女は、不快には思わない(…天使だけに、心が広いので!)。
だから起こすのも何だと考え、瘤浦と話していると、『彼の見ている夢の世界に入っていくのも可能』のように、術師はすごいことを言い出す。そしてラブやんも眠りにつき、カズフサ君の夢の世界にわけいってみれば…。

以下ちょっと、こんなところでネタを明かしては悪いようにも思うので、未読の方々には各自のご配慮をお願いいたしつつ。

こんどの夢ではカズフサ君が有能らしきデカ長であり、ラブやんはそれを慕う部下、という設定。ただしラブやんは、現実よりもかなり幼くプチっぽい姿。
そして、悪いやつに取っ捕まっちゃっている2人。プチラブやんはイスの上に縛り上げられ、そしてデカ長のカズフサ君は、その目の前で、覆面に半裸の悪人によって、四つん這いで背後からホモ行為を強いられている。

【悪人】 フワーッハッハッハッ
自分を慕う部下の前で やおい穴を汚される のは どうだ!?
【プチラブやん】 いや――っ 刑事長ォ――ッ!!
【カズフサ】 ウオオオン 見るなッ 見るな あああああッ!!

この光景を見てしまったラブやんは、そのあまりな衝撃性に、『おわ――ッ!?』と叫んで目ざめる。そしてやや落ち着いてから、『コイツの性癖が 益々わかんなく なりました』…と、瘤浦に向けてつぶやく(第99話・完)。

で、思うことはいろいろあれども…(註・やおい穴は、BL用語としての肛門)。

まずは≪無垢≫というモチーフがキープされたいのでカズフサ君は、夢の中でもプチラブやんと、ふつうのそれをいたすことができない。だから代わりに悪人が登場して、性交的なことを一方的に遂行してくれる。
かつまた、プチラブやんと自分とを(無意識の過程で)天びんにかけた上で、自分が犯される側に廻っている。これの理由もいろいろ考えられるけれど、彼としてはこのお話の中で、プチラブやんの≪無垢≫を守りたかったのでは?
(またあるいは、シンプルに。…ただカズフサ君が肛門性交に興味しんしんだったので、都合よくそれを強いられる、というお話になっているのかも知れない)

かつまた、『見るな!』と言っているのが、『ぜひ見てくれ!』の言い換えであることも明らか。そしてこの『汚される』というモチーフが、現在のカズフサ君が自覚する『無垢でなさ』、その説明になっている。
『なぜか自分は、もはや無垢ではない!』という≪外傷≫的な自覚に、そこで想像上の理由がついているのだ。彼がかってに無垢でなくなったのでは『ない』と、それをカズフサ君は見届けてもらいたいのだ。

どうであれ、ここでカズフサ君の想念の中に、『性交は不可能であり、かつ性交は不可避である』というテーゼがきざしている。不可能なので、彼はプチラブやんとそれをいたさない。不可避なので、悪人が代わってそれを遂行する。

それこれで、いったんの結論。ようするに彼らが分かっていないのは、『望んでもいない願いをかなえようとし、ぜったいにできはしない相談にはげんでいる』という、状況の全般のおかしさなのだ。それが分からないばかりに、こっち側で10年、お話の中で5~6年も、彼たちの無為にして≪外傷≫的なるドタバタが、延々と続いているのだ。
しかし見ている分には面白いので、いっこうに構わないのだけれど…ッ!? というところで、この記事は終わり。次の機会には、ヒロインの側に注目したお話を、おそらく!

やきうどん「主将!! 地院家若美」 - ちいんけせんぱい だいすき

やきうどん「主将!! 地院家若美」第7巻 
関連記事:やきうどん「主将!! 地院家若美」 - 肉欲と正義とのはざま、その決定不可能性!

やきうどん「主将!! 地院家若美」の記事、その2。まずわれわれは関連記事で、耽美をきわめた異端なヒーロー若美、と若鳥くん、その2人の関係性を見た。
で、その若鳥くんに対して若美はどうなのかというと。…追って見ていれば、実はそんなに本気じゃない(!)、という感じもするのだった。あくまでもおたわむれとしてのお気に入りで、実は大してさし迫った感情がない、という気もするのだった。

そうすると、どこの誰に対して若美は本気(マジ)なのか? そもそもそんな対象があるのかないのか…ということが、多少は気になってくるのでは? なお、この「主将!! 地院家若美」の記事に関し、小見出しの番号は通しにしている。

4. 地院家若美 -と- 桃戸美柑

さきに見た第1話に続き、この作品に、≪桃戸美柑(ももと・みかん)≫という女の子が登場してくる。ひじょうに気がやさしくて内気な1年生で、背が低いわりに胸がやたら大きい。
『攻撃誘発性』という何かの用語があるが、それを絵に描いたような少女なのだ。それでいつもいじめられがちで、いまは特に、通学電車でチカンによく遭うことで苦しんでいる。

そして第3話、たまたま同じ通学電車に乗り合わせた、美柑と若美。そしてまたもチカンの被害に遭う美柑、そのメガネリーマンのチカンヤローを、われらのヒーローがあざやかに摘発! そしてその場でおしおき(&お愉しみ)として、きっつ~く凌辱してしまう!(第1巻, p,59)

【リーマン】 (半裸にむかれて泣きながらホームへ、)覚えてろよ――!!
【若美】 (さわやかに勝ち名のり、)大内裏高校 柔道部主将 地院家若美
(クリックリッと、スナップのキレを誇示し、)いつでも お相手するわよ?
【車内の男ども】 ゾォ~~

なお、第1話のプロローグもまた、若鳥くんが電車内でチカンの濡れ衣を着せられるお話だった。なぜか今作には、この話題がみょうによく出てくる。
が、それはともかく、美柑がはればれとしてお礼を言うと、若美はこう出るのだった。

【若美】 (まったく関心もない眼つきで、)別にあなたを 助けたワケじゃ ないわ
痴漢になら 痴漢をしても 訴えられないと 思っただけよ!

そしてその駅で、プイッと電車を降りてしまう。この2人は同じ学校に向かっているはずなので(朝の事件と解釈し)、それは意味のある行動かと受けとっておく。そして車内に残った美柑は、あこがれの視線で、この美しく強く気高いヒーローの背中を見つめ続けるのだった。

【美柑】 (モノローグで、)助けてくれて全く 恩にもきせない‥
地院家先輩‥‥ 素敵すぎ‥‥

そして美柑に背中を向けたヒーローの表情は、なぜかほのかに寂しそうなのだった。これがまた≪意味≫のある表現なのかもしれないが、いまはそれをおいて。
かつ。ここらで美柑は、何かのかん違いを、していると言えるのだろうか? どうであれ彼女は、他の誰でもない地院家若美に、人においてありうる限りの正義と力の輝き、それを見たのだ。

5. 空中に書いたラヴレター

追っておそらく数日後、美柑は何かを決意して、柔道部の門をたたく。ところが…。
ところがというか、まったく予想される通り、若美の態度はけんもほろろ! 何も聞かない前から『不純よ!! 女は存在自体が 不純なのよ!』と一喝する若美と、立ちすくむ美柑…その背景に、なぜか不動明王と餓鬼の絵が浮かぶ(p.63)。

ここいらひじょうに面白いのだが、長くなりそうなので超略述。『強くなりたいんです!! 自分を守れる 女になりたいんです!』等々と言い、美柑があんまり必死なので、若美は何か考えた上、条件付きで、初の女子部員として美柑を受けいれる。
その条件とは、『武道として、何をされてもセクハラとか訴えません。訴えた場合、また中途半端で退部した場合、100万円を柔道部に寄付します』とかいう契約書に、血判を捺させるというもの。あわせて美柑と乱取りしたいような部員は、全員これに血判を捺せという。
で、美柑はもとより。彼女のかわいさを見て等々で、ついつい男子らも全員がそれに応じてしまったので…。

それから柔道部では、来る日も来る日も! 美柑がひたすら独りで受け身を練習している横で若美が、柔道にかこつけ、例の契約をたてにして、男子部員らをセクシャルに責めて攻めて責めまくるのだった。
第1話でもそうとうなことをしていた気がしたが、あんなのはぜんぜん遠慮してたのだったらしい! 快感と苦痛と絶望のきわまりに、あわれな部員は『お母さぁ――ん!!』と叫ぶ。処刑の順番を待っている部員らまでも、その散華のありさまを眺めながら逝きかける(p.70)。

そこへ空気の読めない美柑が(…そんな空気を読めってのもあまりだが)、『そろそろ技を教わりたい』のように言い出すと、いいところをじゃまされた若美の怒るまいことか。
受け身の重要さを言い出し、『空中で3回まわって受け身』という課題を美柑に出して、技はそれからと約束。『男に二言は ないわ! 二股はあっても』と告げて、若美はお愉しみに戻る。はたで聞いていた男子部員らは、『そんなの俺らにも できね――!!』と、心で叫ぶ。

ところがそれから1ヵ月後、美柑はその課題をクリアしてしまう。体育館の跳び箱を使って跳ね上がり3回転、板の間で『ビタァ』と受け身をとり、痛いのに何とか立ち上がる。のちにもいろいろ見ることになろうが、この子が意外と、尋常でない素質を秘めていたようなのだった(p.73)。

【若美】 (さいしょモノローグで、)女のクセに やるわね‥‥
いいわ 男に 一物はあっても 二言はないわ
最高の技を 教えてあげる‥‥!!

さりげなく進行しているようだが、実は全編にも波及するような重大事が、ここらで生じているのだった。まさしく『男に 一物はあっても 二言はない』であって、いくら若美でもそんなにいいかげんなことばかり言ってはいないと、われわれは追い追い知らされる。
さてそれから美柑は道場で、両手に鉄アレイを持った上、両手首にもたいへん重そうなウェイト、という特訓体制に入る。これから毎日その体勢で、腕を伸ばしたまま片手ずつ、空中にひらがな50音を書き取りせい、と若美は命じるのだった。

『それが、“技”!?』…と、美柑はあまり得心がいかないが、しかし若美は言うことだけ言うと、男子らとの練習に行ってしまう。そこで美柑はしょうがなく、『あ』から空中に書き取りを始める。
やがてそれが、『たの段』まで達すると、続いて美柑は空中に、思わず『ち い‥‥ ん‥け‥‥』と、彼女の想い人の名前を書き始めるのだった。

【美柑】 (空中に書いている文字、)せ・ん・ぱ・い だ・い・す・き
ちいんけせんぱい だいすき‥‥ 地院家 先輩‥‥!!

そうして汗をかき呼吸を荒くし、涙まで浮かべながら、熱い想いで特訓にとりくむ美柑。その一方、道場の向こう側で若美は、彼もまた『ハアハア』と呼吸を荒くしながら、かわいそうな男子部員を寝技で攻めて、責めに責めまくっているのだった。

これがまさしく、爆笑と号泣が同時に顔面から飛び出るような! ギャグまんが史上にも残るであろう場面だ。
一心に若美を慕い、彼のように強くなりたいと、超ハードな特訓にもついていく美柑。そのガッツと純粋さに撃たれ、女ぎらいをおして、実は超スペシャルな指導をしている若美。確かに何かが通じあっているのに、それと同時に彼たちは死ぬほどすれ違い、そしてぞんぶんな『出遭い(そこね)』を演じるのだ。

6. そこにまたあの≪決定不可能性≫が

で、それから2ヵ月後。鉄アレイの重さにもすっかり慣れてしまった美柑が、またしびれをきらしたので、ついに若美は乱取りげいこを彼女に許す。
ところが、指名されたそのお相手は、久々に活躍の若鳥くんだった。美柑は目当ての若美にすかされた上、この間に鍛え上げた若鳥くんのマッスルバディに恐れをなす。しかも彼は、いろいろに何かがたまっていてやる気マンマン…!

ところが美柑は、『いただきマンモス――♥♥♥』と叫んでかかってきた若鳥くんを、ワンタッチで軽~く投げてしまう。若美以外の全員が、そこであっけにとられる。
どういうことかって、若美がタネ明かし。美柑独りが課せられた奇妙な特訓は、古流武術が重視した『伸筋力』を鍛えるもので。とにかく秘伝的な、すごい技を可能とするものなのだった。

【美柑】 そっそんな 凄い技を‥‥ 私だけに‥‥‥!!
(感動のあまり、若美に抱きつこうとして、)地院家 先輩――!!
【若美】 (巴投げで美柑をぶっ飛ばし、)キモいわん
【美柑】 ああああ――!!

で、すっかり暗くなった、その日の帰り道。公園を通りぬけようとした美柑は、エピソードのさいしょに出てきたメガネのチカンヤローに急襲されてしまう。『伸筋力』の威力は組みつかれる前だけ、と若美から注意されていたのに、いきなり背後からクラッチされて。
危機一髪! がしかし美柑は、そこでとっさの巴投げから、上四方固めに移行! ただし若美スタイルなので、はしたなくもお互いの股間と顔面を合わせる形で。

【美柑】 (独りの特訓中に道場で、)目に焼きつくほど 凝視し続けた
地院家先輩の得意技 自然に できた!!

ところが『一本』がかからないので、数え続けて300秒以上、美柑はチカンを押さえ込んだまま。そこへ若美が通りかかって、敵がもう窒息していることを教える。『息苦しくも 馨(かぐわ)しいお花畑』と彼が呼んだ地点で、チカンヤローは昇天してしまっていた。

そして若美は、『おめでとう あなたも立派な 武術家ね‥‥』と、美柑を讃える。ここら、若鳥くんのエピソードを反復している感じも大いにありつつ。
がしかし。ときめきながら、『このタイミングでなら、ほんとうの気持ちが言える!』的に決意して、『私‥‥ 先輩のことが‥‥』とまで美柑が言いかけたら、もう若美がいない(!)。
若美は失神したチカンヤローを抱き上げて、またも凌辱…いや≪愛≫というものを彼にみっちり教えてあげようと、公園の茂みの深奥へと向かっていたのだった。ここで第3話『危険な果実』、完。

さてこのお話、その局面らがひじょうに感動的なのは分かったとして。しかしいったい≪何≫を表しているものなのだろうか?

見ていると美柑は、若美が男性らと何をしていようとも、あまりどうとも思っていないらしい。つまり若美本人と一般が『性的(変態性欲的)』と考え感じるような行為らを見て、彼女はそれを性的とは考えない。
そういえば、追ってこの作品には、BL・やおい・≪腐女子≫といった話題がドカンと出てくる。そのような目で若美らを見て女子たちが悦ぶのだが、しかし美柑は、彼女らの輪の中には入らない。

ちょっと変わり者、やんちゃな少年らしさを残す、彼をそのくらいに『考えたい』。『若美はゲイである』という認識が、彼女においては抑圧されているらしいのだった。それがはっきり≪抑圧≫だと分かるのも、かなり後のことだが。
だから美柑から見ての若美には、前に見た≪決定不可能性≫などというモメントが、まったく存在しない。若鳥くんは若美に両義性を見て、そして自らも両義的に接するけれど、美柑にはそれがない。

若美が美柑を、また違う意味でお気に入りとし、他には教えない秘技らを教え、誰をもさしおいて≪一番弟子≫の称号を許すのは、それでかも知れない。続く第4話のサブタイトルが、その『一番弟子』で(p.91)。
美柑と若鳥くん、その対照的な一対のお気に入りを、若美はそれぞれにキープし、そしてそれぞれに鍛える。まったくもって、同じようには接しない。

そうして若美と美柑が、後者の望むような関係にならないのは、ただ単に若美がゲイであるからなのか、それとも彼なりに美柑のためを思ってなのか? 追って述べられるはずだが、若美は武術の達人すぎて、ある筋から生命を狙われているのだ。
…そこらにまたあの≪決定不可能性≫がちらつくのだが、しかし美柑の知ったことではないのだった。すばらしい単細胞さで、彼女は若美についていくのだ。『ウザ、キモ、あんまりよってこないで!』のようにさえも言われながら、超へいきで…!(続く)

2010/10/22

やきうどん「主将!! 地院家若美」 - 肉欲と正義とのはざま、その決定不可能性!

やきうどん「主将!! 地院家若美」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「主将!! 地院家若美」

「主将!! 地院家若美」は2005年からマガジンSPECIAL掲載中の、格闘系お耽美ギャグまんが。ヘラクレスのような肉体美、そして武術の達人で万能の天才、しかもマスクは平安貴族っぽい美青年のヒーロー≪地院家若美(ちいんけ・わかみ)≫、その大活躍を描く。単行本は、KC少年マガジン・第9巻まで既刊。

ところでこのヒーロー、その名前を『逆から読んではいけない』。さいしょから秘密でも何でもないのだが、われらのすばらしすぎるヒーロー・若美は、実は男を愛する男、おホモでお耽美な人なのだった。
で、彼が、ある高校の柔道部の主将としてさいしょに登場するのだが。しかしほんとう言ったら講道館式の柔道なんて、超達人の若美にとっては、じゃれあいもいいところなのだ。だが『むしろ』そこがよくて、彼は学園の美少年たちとネチネチ激しくじゃれあいたいがために、それをつとめているのだった。

1. 地院家若美 -と- 若鳥くん

さて、≪決定不可能性≫というべんりなホメことば(?)があるが、若美に関してはぜんぶがそれだ。すなわち若美は、美少年らの若肌をむさぼりたいがため『だけ』で、柔道部の主将をつとめているようにも見える。ところが少年たちは、ひじょうにイヤだが若美と肌を合わせることで、イヤでも強くたくましくなっていく。
単なる下心で若美がそれをしているのか、それともびみょうには崇高な意思にもとづいての行動なのか、そこが誰にも分からない。かつ、彼たちの高めている力が、『正しさ』に向かっているものなのかどうかが、どうにも判断しづらい。

ゆえに、『どうしようもない悪質な変質者』と、『美と力と正義をあわせそなえた大ヒーロー』との間で、若美のイメージは揺れ続ける。そもそも若美が、男子に対してド淫乱でありつつ、一方で女性をしりぞけてやまないところが『超ストイック』、とも考えられうる(!)。
で、どう見るべきなのか?…という≪決定不可能性≫を現前させることが、まず今作の演出している≪ギャグ≫だ。

このシリーズの第1話『LOVE & JUDO』の巻が、いきなりその特徴を表してあますところがない。Wヒーローの一方とも見られる1年生≪若鳥くん≫が、まずはひ弱で女性っぽい美少年として登場。そして通学電車の中で、不良カップルからインネンつけられているところを、カッコよく若美が救う。
そのさいに若美は、逆ギレしてケンカを売ってきた大男を軽く片手ですっ飛ばして、『情けないわね‥‥ 日本のモラルは どこに行ったの?』と、またカッコいいことを言う(第1巻, p.8)。そしてお礼を述べる若鳥くんに、こう告げる。

【若美】 もっと自分を 輝かせたかったら 柔道部へいらっしゃい‥
美しく‥‥強く してあげるわよ トラブルすら 楽しめるほどに‥

男でありながら紅をひいた唇を、妖し~く輝かせながら、若美はそれを言ったのだ。で、若鳥くんは、明らかに相手がハイパーだとは分かっておりつつも、その引力に巻き込まれてしまうのだった。
で、うかつにも柔道部に入ってしまった若鳥くんが、若美から超おホモっぽい特訓を連日受けまくることは、まったく正当きわまる展開として。かつまた全編に言えることだが、若美の行動様式として『トラブル“すら” 楽しめる』というより、むしろ愉しむために“こそ”、大小もろもろのトラブルを、彼はそこら中に起こしまくるのだ。

2. ≪肉体の門≫のあっちとこっち、少年 -と- “男”

が、きびしくも変質的であり、そして基礎的な特訓ばかりが続く中、やがて若鳥くんは、主将の真意に疑いをきたし始めてしまう。単なる肉欲なのか、ちゃんと技を教える気があるのか…クツを飛ばしてその表裏で、彼はそれを占おうとする。
ところが若鳥くんのクツは、つま先を上にして直立。それで判断しかねていると、冒頭の不良らがそこへ登場。こんどは、不良グループの下っぱになれ、と勧誘してくる。

そして若美を『オカマ野郎』とののしり、『あんなキモイ奴』よりも自分らとつきあえ、と言うのだった。そこで若鳥くんは、初めてブチ切れる。

【若鳥】 (さいしょは低く、)ふざけるな‥
姑息で汚い オマエらより 若美先輩の方が 断然美しいぜ!!

するととうぜん、短気な大男が怒って突っかかってくる。それでひるみかけた若鳥くんに、もの陰から若美が『肉体の門!!』と声をかける。≪肉体の門≫とは主将が若鳥くんに課した、空中股裂き責め的な、超過酷&ホモっぽい特訓の呼称だ。
その特訓でつちかった柔軟性と体力を活かし、若鳥くんは不良の攻撃をいなして、さらにはきれいな一本背負いで倒してしまう。習ったこともない、特訓の合い間に見ていただけの大技で。
そして投げが決まった瞬間、その衝撃で、さきに飛ばした彼のクツが表を上にして倒れる。そこで占いの結果は、肉欲ではなく『技』と出たのだ。

そして、それこれの間に不良の仲間ども全員を軽く凌辱しつくしていた若美は、『“男”になったわね‥』と、若鳥くんの勝利をたたえる。『体さえできていれば 技は(おのずと)できるのよ』。
ここでまた若鳥くんも、まずは肉体ばかりを激しくアレしまくっていた主将の指導、その真意を理解する。ここらで美しく、シリーズの第1話がまとまっているわけだが…。

しかし! そうかといって若美が少年たちに、ホモっぽいおたわむれを仕掛けまくっていないかというと、まったくそんなわけがない! クツの占いが『技』と出たのは、あくまでも『その場での』、その瞬間の答だ。
いちばんさいしょの『直立』という状態が正しい答であり、つまりは両方なのだ。ちょっと前、占いシーンの直前のところを見ると。

【若鳥】 主将‥実は あなたは‥‥ ボクをオモチャにして
遊んでるだけなんじゃ ないですか?
【若美】 (血相を変えてきびしく、)若鳥―――!!
(あっさりと表情を崩して、)その通りよん♥
(ズッコケている若鳥くんに、)というのは 半分冗談で
【若鳥】 半分!?

半分冗談、半分本気、すなわち両方。そして若鳥くんにしろわれわれにしろ、なぜかその『両方である』という答を受けいれがたいのだ。
半分下劣で半分は崇高、美と醜悪の両方のきわみ、英知と愚劣のアマルガム、超プラスにして超マイナス。そして、おネエの美青年でありつつ強じんなるマッチョ。万事においての『両方』である若美という人物に、若鳥くんもわれわれも魅かれまくりながら、しかしその受けいれ方で大いに困るのだ。

3. 『少年愛』の、美学 -と- フィロソフィー

ところでまたアレを申すけど、ラカンの理論で言われる≪ファルス≫という概念は、まさにさっき見た『直立したクツ』に等しい。それはまず『勃起したペニスを象徴する記号』でありつつ、あわせてその含意として、一方では性欲のたけりを表し、また一方では理性・秩序・正義などを表す。つまり、『両方である』。
かつその≪ファルス≫とは、人間らや事物らの縦横のつながりを可能とする記号、『-と-』に等しいものでもある。主将である若美と若鳥くんは、一方では性欲、また一方ではもろもろの指導や教育、両方でつながってしまっている。

クリスチャン・グリーペンケァル作。ゼウスが美少年ガニュメデスと何かしてるスキに、プロメテウスが…さて筆者は、ソクラテスもプラトンもおホモであったと言われる、あのあたりの事情をよく知らないのだが。が、若美と若鳥くんとの関係は、たとえばそれ的なものという感じがある。
いまざっと調べてみたが、古代ギリシャで『教育』とは、ホモ行為と抱き合わせになされるものだったらしい(!)。だからというのか、びっくりなことに、同じ世代の男性同士は、そういう風にならないのがふつうだったらしい。
で、上の世代から下へ、知識&性知識が伝わったらしいのだった。そうした古代的な『少年愛』を、こんにちのホモセクシュアルとは別のもの、と見る考え方もあるようだ。
そういえば若美にしても、美少年らに対してぜんぜん見さかいがないというわけではなく、タメ年らしき相手には、あまり熱心に何かをしない。そしてここまで「地院家若美」の第1話を見てくると、そうした『少年愛』のシステムにふつごうなどは、ぜんぜんないような気もしてくるのが、何とも恐ろしいところだ!

それこれによって、若鳥くん(&われわれ)から見ての若美は、超変質者と理想的ヒーローとの間を揺れ動き続ける。ただのヘンタイかと思えば超りっぱなことをするし言うし、まともかと思えばはためいわくの限りをつくす。
かつまた。その既刊分をず~っと見ていると、若美は万事に死ぬほど強いのかと思ったら、意外な局面でわりとあっさり負ける(反則負けを含む)。また、ふだんはいわゆる『攻め』を演じているが、ほんとうは『受け』の方がウェルカムらしい。

そしてそれこれの意外性が、いちいち強烈な方面に傾くことが、今作の演出している≪ギャグ≫だ。さきのお話で若鳥くんは、クズどもによって主将を侮辱されて『ふざけんな!!』と怒った。それはもっともで、ひじょうに共感できるところだが。
がしかし別の人物が現れて、若美を『すばらしい!』とホメあげたら? 『でもあの人は、変質者ですよ!!』と、若鳥くんは正反対の反応に出るのではないだろうか? …われらが見ている地院家若美とは、そのような両義性をきわめたヒーローなのだ(続く)。

2010/10/20

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」 - カフカ「掟の門」 と スカトロギャグまんが

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」第2巻 
関連記事:ラベル「フルパワーMONKEY」

関連する記事で今作「フルパワーMONKEY」について、『まるで東欧文学のカフカやブルーノ・シュルツのようなふんいき、“孤立感”』ということを述べた(*)。
…が、とうとつな感じを与えていたかも知れない。カフカやシュルツのお文学と、フルモンのようなスカトロおげれつギャグまんがと、何の関係があんのバカじゃねえ?と、思われていないとも限らない(涙)。

1. あっちに『掟の門』、こっちに『暗号』

…カフカによるごく短い小説、もしくは寓話で、「掟の門」(1914)という作品がある。調べていたら『KAI-SAI ART』というブログにうまい要約があったので、まずそれを引用いたす(*)。

ここ(掟の前)にやってきたある男が、この門を通ろうと門番に掛け合うのだが、どうあがいても通してくれない。
何を言っても「今はだめだ」という。

だが門番は無理やり入ることを禁止してはいない。
とはいえ門番は屈強で、自分の後ろにはさらに強靭な門番が控えていることをほのめかす。
その脅しに男は怯えきって通ることができない。

「今は」という言葉に男は光明を感じ、いつとも知れない通行の許可を待ち続ける。

歳月は流れ、男の寿命は尽きかけていた。
その時門番は言った。

「他の誰ひとり、ここには入れない。
この門は、おまえひとりのためのものだった。
さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」

次に、それに対する「フルパワーMONKEY」から、ひとつの作例を見てみよう。

――― 亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」より、『暗号』(第2巻, p.107) ―――
【野球帽の少年】(公衆トイレのドアを叩き、)早く出てくださーい
【中からなぞの声】 暗号を言いなさい
【少年】 (びっくりし、泣きながら、)暗号なんて 知らないよー!!
【声】 暗号が ちがいます
【少年】 (ついにお尻のあたりがこんもり、号泣して、)もれた――っ
【声】 (ギイイ、とドアを開けて、)OKです

トイレに入ろうとする人が、『もれた!』と叫ぶまで、トイレのドアが開かない。これがナンセンスであり、おかしい。何のためのトイレの存在か、わからない。
ただし、これをおかしいと感じて笑っている人々が、その背すじに感じている冷たいもの、ということも見ておきたい。それは、取り返しのつかない『事後』になってからでないと動かない機構が、この世にはすごいいっぱいある、という抑圧された認識だ。

それに対する、カフカの「掟の門」。これはずいぶん多様な解釈を許容しそうなお話だけど、いま見て筆者が感じたのは、『“誰も”が合法でなければならないが、合法たりえず』というところ。ドイツ語の原題(Vor dem Gesetz)を直訳すれば「掟の前で」なので、これはまず何よりも『掟』についてのお話だ、と受けとらないわけにはいかない。
そして掟の門は、入れば入れる門なのかもしれない。だがしかし、番人が『入れられぬ』と言っているところを通って、それで合法かと言ったらおかしい。

ただし、その門を実力行使で通り抜けて≪掟≫へといたる、という行き方も確かにある。オキテの起源には暴力による権力掌握があり、オキテの守護者は暴力を(特権的に)行使する。合法の根拠に何か必ず非合法くさいものがあり、秩序の背後には必ず暴力の装置がある。
(フロイト-ラカン的なりくつとして、“すべての”者が何とかをすべからず、といったオキテの立て方は、必ず例外者を言外に想定しているものらしい)

現にあるようなノーマルっぽい秩序は、いわゆる『自然状態』の暴力が横行している状況とも異なりながら、かといって“誰も”が許されているフェアな世界でもない。ここを甘く考えてはいけない。

太平洋戦争の後の、BC級戦犯の悲劇、といったことがいまも話題になるが、それはこういうことでもあろう。好きで兵役に応じた人間がそうはいたものとも思えず、応じなければ『非合法』、だから応じたものとして。
ところが暴力の応酬の結果、負けた側の行為がまるごと非合法だったような話になる。合法性を求めて行動した者が、非合法として裁かれる。これがまさしく、≪カフカ的状況≫というものだ。

だから、非合法だゾ、と言われて裁かれそうな人間は、いっそ自分の≪王国≫を作ってしまうといいかもしれぬ。自らが、≪掟≫になっちゃえばいいのでは? ただしカフカにしろ亜太川ふみひろ先生にしろ、そんな度胸などのない≪われわれ≫のことを描いているのだ。
ラカンが好んでおしゃべりに持ち出した、『奴隷と主人の弁証法』、というヘーゲルのたとえ話がある。それをここに応用すると、門番とケンカしてでも掟の門を通ってやる、という人間が≪主人≫になりうるもので、おとなしく許可を待っているようなわれわれは≪奴隷≫、ということらしい。

2. あっちに『掟の門』、こっちに『国境』

ここでフルモンの同じ巻から、ちょっと似たようなお話も見ておくと。

――― 亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」より、『国境』(第2巻, p.74) ―――
【青年】(モノローグで、)オレは今 無断で国境を 越えようと… んっ
【なぞのマシーン】 (アームの先の光線銃をつきつけ、)入国許可証ヲ 見セナサイ
【青年】 あっ…ないです…
【マシーン】 国境ヲ 越エルト 射殺デス
【青年】 そ…そんな…(個室内に存在する、不可侵の国境。その向こうのトイレットペーパーに手が出せないので、便器に腰掛けたまま、青年は頭を抱えて苦悩!)

≪侵犯≫を、しなければいいとは分かっているのだが、しかしそれをしなければ身動きも取れない。ここまでを見てくると、分かってくることは…。同じく不条理な状況、大ジレンマを描いている作品らでありながら…。
一方のカフカ「掟の門」は、『“掟の門”に入ろうとして』という高尚なところからお話が始まっているけれど、また一方のフルモンは、人間の超低レベルな欲求充足のところから、お話が始まっている。それらの特徴が、ストレートに、作品らの印象につながっていよう。

けれどもカフカ作品について、そこに高尚さばかりを見るような読みは、はっきり言ったら間違っている。この「掟の門」にしてもそうで、その全訳はネットでも読めるので、それをご参照ありたし(*)。
掟の門の前で待ちくたびれた男は、だんだんへんになって、自分についているノミに門番の懐柔を頼む(!)、そんな心境にまでおちいるのだ。こういう細部に出ているナンセンスやユーモアこそを、ぜひ味わいたい。

――― 演劇「アメリカ」の演出家・松本修氏の談話から(*)―――
カフカの読者から、僕のやった舞台には「カフカにはないユーモアと、性的なものを付け加えた」と言われましたが、違うと思います。もともとカフカの中に性的なイメージやユーモアがたくさん書き込まれている。
日本でのカフカの読まれ方では、そこが重要視されていなかったかもしれませんが、演劇的にはそこがとても面白いと思いました。若い頃に『城』を読んで面白く思えなかったのはそこが読み取れなくて、観念的に受け止めていたからだというのがわかりました。

――― 第20回東京国際映画祭(2007), 山村浩二監督らの質疑応答から (*)―――
【山村浩二】 カフカを知らない人は世界中にいないですが、ちょっと難しいととらえられがちです。原作の中にエンターテインメント性を見出し、僕はユーモアとしてこの映画(短編アニメーション「カフカ 田舎医者」)をとらえている。もちろんブラックなユーモアの部分は強いんですけど。
【池内紀】 カフカは作品を読み聞かせるのが好きでした。「変身」を友人の前で音読んだ時は、自分でもおかしくて笑ってしまい「真面目に読め」と注意されたこともあったそう。カフカの文章は非常に明晰で、おかしみがあり朗読に適しています。
(註・『音読んだ』は、原文通り)

まさにしかり、『超禿同』というところ。そしてここでは(ブラック・)ユーモアと言われているけれど、しかし『ユーモアとは感情の節約である』というフロイト様の定義からはみだす部分が明らかにあり、それをわれわれは≪不条理ギャグ≫と呼びたいわけだ。

3. あっちの人は≪掟≫を求め、こっちの人はトイレを求め

そしてフルモンの場合、まったくあたりまえなことを遂行しようとして≪われわれ≫は、不可解なオキテとの直面によってつまづく。トイレ関係のトラブルは、たいがいの人が夜の夢にもみていることで、すなわち“誰も”がそこらに≪外傷≫をもつ。
そしてフルモンの場合、そこ(トイレ)は必ず理不尽なオキテや不条理なシステムのあるところであり、人が不可避に試みを受けるところであって、しかもその試みをうまく乗り切るものがいない。≪田舎医者≫がわが家に帰りつけず、≪ヨーゼフ・K≫は告訴されて弁明の機会も得られず、≪測量技師K≫は城にまでたどりつけない…それらのことに似て。

「掟の門」のヒーローは衰弱死の間ぎわ、『誰もが掟を求めているのに…』と言う。それと同様、トイレを必要としない人はいない。これを『同様』、と言い切るのもなんだが。
そして、「掟の門」に登場したのはヒーロー専用の門だったそうだが、フルモンに頻出するトイレらにもそういう性質がありげ。つまり、同じなんぎなトイレで、いろいろな人がリアクションをきそうような展開にはならないのだ。それらは、誰であれそこに出た人物への、それぞれ専用の試みの提示という感じなのだ。

ただし、誰もが失敗するのだから、その試みの個別性ということに何の意味があるのやら? 個別的には違いないのだが、しかし『個性』ということは問題になっていないわけだ。
それは「掟の門」のヒーローが、特に誰ということもない男なのと同じで。ここいらは、人間らの『個性』などシカトしきってやまないラカンのりくつに通じる感じもある。

ところでなんだが、≪掟≫の前でのつまづきを演じまくるカフカ作品とフルモンの人物らは、いちように男性だ。これはおそらく、偶然ではなく意味があることだ。
どうしてかって、スラヴォイ・ジジェクがいろいろな本でのカフカ論で書いているように、女性の場合は≪掟≫とのかかわり方が、また違うからだ。きわだったものとしてはジジェク「斜めから見る」(訳・鈴木晶, 1995, 青土社)の、『カフカ「審判」論』チックなチャプターをご参照。

4. あっちに「流刑地にて」の処刑マシーン、こっちには?

当初の意図ではもっと短く、さいしょの2つの引用を並べて『ほら?』というだけの記事にしたかったのに。それがもうずいぶん長いので、今回はこのくらいで。
何しろ『カフカ vs.フルモン』というお話は、へいきで無限にも続けられるものなので、どこかできりをつけなければならない。さ~て次回のフルモン記事は、フルモン vs.カフカ「流刑地にて」、というお話になる予定かも?

2010/10/19

名島啓二「波打際のむろみさん」 - メドゥーサ、スフィンクス、そしてわれらのセイレーン

名島啓二「波打際のむろみさん」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「波打際のむろみさん」
関連記事:名島啓二「聖☆ピスタチオ学園」 - 重力の虹(二次)

今や人呼んで『ギャグまんが王子』こと名島啓二先生の、週刊少年マガジン初連載作にしてブレイク作「波打際のむろみさん」。2009年より掲載中のショートギャグ、単行本はKC少年マガジンより第2巻まで既発。

ブレイクと言ったが、今作「波打際のむろみさん」が、どれほどにブレイクしちゃってるかというと? 名島先生の前シリーズ「聖☆ピスタチオ学園」単行本の、帯の宣伝文によれば。

累計10万部突破「波打際のむろみさん」の名島啓二プレゼンツ!

累計って、その「ピス学」と「むろみさん」第2巻が同発(2010年6月17日)だったので、たぶん2巻の数字は初版の部数。ストーリーものだったらまず出さないような数字だが、しかしこれから、もっともっといくんだぜ~!!
で、これがどういったお話かというと、版元の宣伝文によれば。

ある日突然、むろみさんが釣れた!! フィッシング部の向島拓朗が釣ったのは‥‥なんと人魚!? 「ミミズうまかっちゃん、喰らいついてしもたら、なんや釣り鉤やったんやね」‥‥こいつ、博多弁話すしー! なぜか博多弁を話す人魚のむろみさんと、釣り好き少年・拓朗の異生物交流コメディ♪

あおりとしたら少々キレてない、すべり気味な気もするが。しかしこれでどういう作品か、よくわかったはずだ。あとこの作品は、コメディではない≪ギャグまんが≫。
そして今作について、前シリーズ「ピス学」からの変化をまとめると、次のようになろうかと。

 1. ≪不条理ギャグ≫の乱射
 2. 北九州の方言を大々フィーチャー
 3. 非人類キャラクターいっぱい(主に女性)
 4. ファンタジー(神話)要素満載
 5. 社会風刺要素の後退
 6. 舞台が学園から、基本アウトドアへ
 7. 4コマ→ショートという形式の違い
 8. 群像劇から、明快なヒロイン/ヒーロー中心のお話に

とまあ、違う作品にしたって、いろいろなところがずいぶん変わっている。
けれども変わっていない、継承され、さらに発展したりしているかと見られるのが、筆者が関連記事で述べた、『女性というものの妖しさと危うさを描き、そこから外傷的ギャグを展開』という方法なのでは?

 ――― ▽ 1. 環形動物をナマで喰った口で! △ ―――

さてこの作品は当初、短期集中連載・全5回として週マガに掲載されたもので、そこで基本的な要素、というか決定的な要素らは、ほぼ出そろっている。そこのあたりを、この記事では見たい。

その第1話、のちに拓朗という名が明らかになる少年が突堤で釣りに興じていて、大物かと思って引き上げたのが、なんと人魚っぽい生物だった(以下すべて第1巻より, p.3)。痛がっているので釣り針を取ってあげると、それは、

『えーらい たまげたわぁ
ひだるかったけん 思わず喰らいついて しもたら
なんや 釣り鉤やったんやね』

と、なぜか流暢な博多弁をあやつりやがる。
そこで少年は、意外に動じないが、にしてもびっくりしながら、『ええっと‥ あんたは?』と、そのふしぎな生き物にたずねる。するとそれは、『あたし? あたし むろみ!』と答え、くねっとしたポーズを取る。

少年は『“何者”なのか?』ということをたずねたのに、しかしそれの方は、『私はむろみという“私”である』、と答えているのだ。むしろそうとしか答えようがない、彼女は自分が『何者か』を知らないのだから! …というお話は、今エピソードのさいごに続くことになるが。

ゴカイそれからむろみを名のるものは、『そっか あたしあんたに 釣られたっちゃんね どげんすっと?』と、何だか意味深くさいことを言う。…言いながら、少年が用意した釣り餌のゴカイを、むしゃむしゃと食べてしまう(!)。
少年があわてて制止するも、むろみは箱いっぱいのゴカイをあっさり完食。そして、

『釣った魚には 餌やっとかな 逃げてしまうって よー言うやん?』

と、またも意味深なことを言いやがる。
何かそこらで、むろみの態度に性的なふんいきがない、とはとても言えない。だがしかし、ゴカイを喰うようなお方と性的にどうしろというのか? 環形動物をナマで喰った口に、誰が口づけ等々をするというのだろうかっ!?
と、これはまた、久々のあっぱれショッキングなギャグのばくはつなのだった。かつ、『ゴカイは、何らかの“誤解”に通じていそう』、ということも指摘しておきながら。

ちょっと間を飛ばして、さきの『何者なのか?』というお話の続き。この第1話の終り近く、むろみが『あたし魚類 やもん』と言い出す(p.8)。そこで少年が、しかしいま陸上で肺呼吸してるじゃん、とツッコむ。するとむろみは、『それってつまり 両生類ってことじゃ‥ そこんとこどげん!?』、と言って苦悩し始める。
彼女は自分を、カエルの仲間とは考えたくないようなのだった。そこで少年が、あなたは≪人魚≫なんじゃないの?のように言うと、『なるほどそれなら 合点がいくたい♪』と、むろみはその見方を、喜んで受け容れる。

わりとよく見る人魚のイメージそのものなのに、むろみには『人魚である』という自覚がなかったらしいのだった。いやじっさいのところ、≪人魚≫なのかどうか、よく分からないのだが。誰にそんなことが断言できるのだろうか?
けれどもむろみは、『人類と魚類のハーフ』という語感を気に入ってか、あるいは目の前の少年がそうだと言うならそれでいいと思ってか、その表現を受け容れるのだ。

さてこの問答は、いったい何なのだろうか? むろみはそんなことを聞いて来ないけれど、もしも彼女が『あんたは何ね?』とでも逆に聞いてきたら、少年はどう答えるのだろうか?
『人間である』、というのはひとつの答だ。けれども『人間とは?』と聞かれたら、次にはどう答えるのだろうか? 霊長類のホモ・サピエンスだとか、そういう答え方はあるけれど。

しかし、『ではその霊長類のホモ・サピエンスであるものが、“あなた”なのか?』とまでツッコまれたら、さすがにいやになるはずだ。わかっている気が、しなくなってくるはずだ。ジャック・ラカンと呼ばれる人によると、『私は○○である』という言表は、実は何をも意味しないらしい。その外傷的な認識を(受け手の無意識に向かって)返しているので、さきの問答が≪ギャグ≫として機能する。

だからむろみが、少年から『あなたは人魚である』という認識を受けとって歓ぶ、そのことにも理由がある。主体とは、人からそうだと見られているものだからだ。

で、歓んだところで、次にむろみは『お礼ばせないかんね』と言い、自分の下半身のウロコを1枚はぎとって、それをくれようとするのだった(この行為は2回目)。だが、いまいちそれをありがたいと思わず、少年は『いらんって!』と、受け取りを拒む。
筆者にもよう説明しきらんが、この『人魚が現れてウロコをくれたがる』というお話が、わけのわからないほど≪外傷≫的だ。そこに何らかの意味がびっしりとつまっている気がするのに、それが何なのか言いにくい。

それがいわゆる≪フェティッシュ≫であり、よって『ファルスのシニフィアン』、ひいては『去勢のシニフィアン』である、ということまでは確か(…シニフィアンとは、たぶん意味深な記号のようなもの。ファルスは、勃起したペニスを示す記号)。しかしここでは、『逆にそれが押しつけられてくる』、というところがショッキングなのだろうか?

つまり。スケベな少年が≪ギャルのパンティ≫的なものを欲しがるようなお話は、さんざんに見てきたところだが。裏返して、とつぜん現れた女性が、なぜか少年にパンツを渡して、『大切にしてね♪』と言いやがる…といった≪外傷的ギャグ≫も考えられる。それの変奏を、ここでわれわれは見せられているのだろうか?
かつ、人魚のウロコというものが、いかにもファンタジーな無限の『何か』でもありそうだが、しかしなまぐさく不潔な感じもしないではない。この両義性が、やはりギャルパンに通じつつ。

で、ここまで見てきたら。つまらないことを申し上げるようだが、少年にとってむろみが『異生物』であるということは、彼にとっての≪異性≫を象徴的に描いている、とは読める。ゆえにこの作品で、『異生物』ならざるノーマルな人類の女性は、既刊分ではほぼ登場していない。
そしてその『異生物』としての≪異性≫は、潜在的に『私は何?』と、ひじょうに答えにくい問いかけをしてくるやっかいなしろものなのだ。それはそのつど、『お互いを定義しあう』ことを求めてくるものなのだった。

だから一般に人間のカップルで、女性が男性に、『私のことをどう思ってる?』と聞く。それは彼女が、相手からそう見えているところの何かだからだ。
ここが分かっているだけ、一般に女性の方がかしこいと考えられる。かといって、そこで男性がどのように答えても、実は彼女はなっとくしはしない。せいぜい、『そのつど』のなっとくがあるばかりだ。
だからむろみが、さいしょ『私は“むろみ”という私である』と主張したように、男は女性に対して、『あなたは“X子”という他にないあなたである』、とでも答えるのは、ひとつの手だ。むしろそれで正しいのだが、それにしたって相手をなっとくさせられるとは、まったく限らない。

 ――― ▽ 2. メドゥーサ、スフィンクス、そしてセイレーン △ ―――

では、実作の「波打際のむろみさん」の話に戻って。それから初期版の第2~4話では、このなぞすぎるヒロインの習性やら履歴やらが、少々ずつ紹介される。

 [第2話] マグロなみの泳力を言い張るが、へぼくて海流を押し戻されるの巻
 [第3話] ローレライ的な魔力をもつむろみ、元寇の船団を沈めた前歴あり
 [第4話] むろみの知り合いの1人は、川の上流に住むカッパの≪川端くん≫

第3話での情報を真に受けると、『歌えばすぐ船が沈む』というのもすごいが。しかもむろみの年齢は、1000歳かそのくらいなのか(!?)、ということにもなる(参考・第1回の元寇襲来は1274年)。
けれどむろみは『女の子の秘密!』的なことを言って、年齢を明らかにはしない。というかおそらく、彼女は自分の実年齢など知ってはいない。

それと。ここまでに出てきた情報で、この≪むろみさん≫というキャラクターについて、明らかに、安部真弘「侵略!イカ娘」のヒロインとかぶっているところがある。それぞれが、海の底からやってきた『不条理のヒロイン』という部分で。
ところが対照的なのは、≪イカ娘≫は、自分が何であるのかを自分で定義できている。つまり『侵略者』であり、その定義付けを、他に求めることはしない。しかし彼女は、一般的なことについてはまったく無知だ。むしろ、海の中のことさえもよく知らないようなふしがあるのが、また不条理なところだ。
その一方のむろみは逆に、地上の一般的なことも海の中のさまざまな神秘をも、みょうによく知っている。ところが『自分が何であるか』ということだけは知らず、その定義付けを、ヒーローたる少年に求めてくるのだ。

ハーバート・ドレイパー「ユリシーズとセイレーン」するとだ。かってわれわれはイカ娘について、それがどう見ても≪メドゥーサ≫の一族であることを知った(*)。しかしてむろみは、それとは違った≪セイレーン≫の一族であると、ここまでに分かった気がしないだろうか?
(ただしギリシャ神話のセイレーンは、下半身が鳥。それが時代を下り、人魚としてもイメージされるようになっている)

そしてその美しくも狂おしい歌声とはつまり、『“私は何”? 私に対して、あなたは何を求めるの?』という問いかけなのだ。これに対する適切な答を見つけえずして、船乗りたちはわれを見失い死んでいくのだ。
するとセイレーンたるむろみに対しつつも正気でいる、平凡のような非凡のような少年たるヒーロー君。彼は、自らをどこかに縛りつけたオデュセウスなのだろうか、それとも耳に栓をしたその部下の船員なのだろうか?

そしてここまでを見てくるとわれわれは、『名前を言い当てると退散する』というタイプの妖怪や悪魔、というものをも思い出す。たとえばグリム童話の、KHM55「ルンペルシュチルツヒェン」(*)。そのまた一方、かの≪オイディプス≫らに対し、間接的にだが『汝は“何”であるのか?』というなぞをかけてきた≪スフィンクス≫もいる。

まとめれば。メドゥーサ、スフィンクス、そしてセイレーン、これら3種の女性型モンスターは、それぞれに人(man, 男)らの≪外傷≫をつついて害をなすものだと知れてくる。
まずメドゥーサは比較的シンプルかつ強力に、≪去勢コンプレックス≫というところを攻めてくる。次にスフィンクスは、遠廻しに『汝は“何”であるのか?』というところをつついて、『外傷を仮に埋めている表面的な≪知≫』からの自滅をうながす。さいごにセイレーンは、わりと性的ニュアンスあるところから(男女的な含みを込めて)『私は何?』と問いかけ、まともな答ができない者の理性を奪う。

…そういえば。たまには筆者もエロまんがの類を見ることがある、あくまでもまんが表現の研究のためだが(!)。するとそこに出てくるバカでスケベな男らが、女性をつかまえて『汝は○○である』と、いろいろしっけいなことを言いやがる。
ここは桜井のりお「みつどもえ」に出ていることばを借りて、『変態!雌豚!痴女!』くらいに言ったのだとする。すなわちこれは、セイレーンの問いかけに対しての、ひとつの答に他ならない。
で、そんな答は超0点以下だ。それを言った男が、もし発狂も破滅もしないですんでいるとすればそれは、その作品が一方的で根も葉もない『想像』だからにすぎぬ(…以上は、「みつどもえ」についての評言ではない)。

 ――― ▽ 3. あんたになら、食べられてもよかよ? △ ―――

さて、ここらが話の大詰めで、われわれは決定的と言えそうなもの、「波打際のむろみさん」初期版のフィナーレ第5話を見る(p.29)。

この回は、イントロからして、そこまでと少々違っている。いつも偶然っぽく出遭(いそこな)っていた2人だが、このお話では、少年がよく釣りに来る突堤で、むろみが先に待ち構えている。しかも浜っぽい料理などを用意して、少年をもてなそうとしながら。
何だかいろいろと気になるところだが、しかしむろみは『細かいことは気にせんで』と言い、そして、

『男の子ならいっぱい 食べて精つけりー』

と、何か焼き魚をすすめてくる。
そこで少年は、おそらく初めて、むろみに対してちょっと気をよくする。それを見てとったむろみは、『ちょっと あんたに お願いがあると』と、本題を切りだしてくる。そしてうかつにも少年は、『俺で できることなら』…などと答えてしまう。

ご存じの諸姉兄も多いと思うので、さっさと申し上げれば。それからむろみは、かなり大きめのスジコかイクラのようなものを出してきて、『あたしの卵』と言う(!)。そしてそれへと少年に、『精子かけて♥』と、かんじんのお願いを打ち明けるのだった。
ここにおいて、さきの『精つけりー』などというせりふもまた生きてくるわけだが…。

まったくどうとも、これに対して≪外傷的ギャグ≫とかいうことばをかぶせようとしている自分がバカでバカでしょうがない、それほどの外傷的ギャグのきわまり、これはその大ばくはつなのだった。もはや爆笑を通り越して、脈拍がへんになるまでのインパクトを、これに筆者は感じ続けている。

クヌート・エクヴァル「漁夫とセイレーン」で、『後々面倒なことは 一切ないけん』、『あたしのこと 好かんと?』、等々と言ってそれを懇願し哀願してやまぬむろみを突き放し、『それぞれ以前の問題である』と、少年はだんこその行為を拒否る。
それもひじょうにもっともなのだが、しかし一方のむろみはかわいそうに、『うううう~‥ また母親に なれんかった~』と言って泣く。

そこで少年は、『男の人魚に頼めばいいじゃないか』的なことを言い、またそれももっともだ。がしかし、むろみによると彼女の同族は『雌的な存在』ばかりで、雄がいないらしい。それどころか、同族において生殖がなされた、という知らせをまったく聞かないという。

【むろみ】(推理のポーズで、)んん!? じゃあなんで?
なんであたしら 定期的に卵 産むと?

それがなぞであり、そしてそれに関連し。追ってのお話でもそうなっていたはずだが、むろみは親という存在をまったく知らない。『自分は何』ということを知らないむろみは、『自己の起源』ということもまた、とうぜんのように知ってはいない。
で、むろみの存在はもちろんフィクションではありながら。けれどもわれわれは、その次々と提示してくるなぞと不条理に、『自分を知らず、他者を知らず、とうぜん“自己の起源”も知らぬ』、そのような自分を(無意識に)知らされ、それに対してけいれん的で≪外傷≫的な笑いを返すのだ。

さらにおまけとしてむろみは、無精卵に終わったそれらについて。魚の餌になるよりは、『あんたになら 食べられても よかよ』、イクラ丼に見立てて(!)…などと、またまたショッキングなことを少年に言ってきやがる。

【少年】(あぶら汗をかきながら、)精子かけろって 言ったり
喰えって言ったり‥‥ とにかくいらないよ そんなの‥‥

なお、続くお話らでむろみは、自分自身についてさえ、『あんたになら 食べられても よかよ』という態度を示してくる…っ!
とまできては、いくら鈍感な筆者でも。これらについて、『分析すれば』どうこう…などとへりくつをこね続けることの本格的な無意味さが、感じられてきてやまない。一連のこれらは、ひそやかに≪外傷≫をかすっているところのギャグ、という騒ぎを通りこしすぎだ。

で、その『衝撃=笑撃』的にもほどがあるエピソード、そのすぐ次のページ(p.35)で作者さまが、『おかげ様で「むろみさん」の人気は(、短期集中連載の)回を追うごとに増え』…と述懐しておられるのが、あたりまえの妥当なリターンなのか、またはありえないふしぎな現象なのか、筆者にはどうとも言いかねてくるのだった。
いや、もちろん、タテマエとしては前者だと見ているけれど! タテマエで!

 ――― ▽ 4. 『波打際』は、ヤバい場所…!! △ ―――

ところで、ここまでにもちらほらと出ているが。むろみの態度として、わりに目の前の少年(等々)へと、いろいろなことを投げ出している。
『私が“何”であるかを決定するのはあなた♥』、という態度に出ているのだ。われらのヒーローは慎重に接していてつまづかないが、しかしそれまた、彼女がセイレーンとしてしかけているわなだと見うる。

投げ出した態度といえば、追ってのお話で(p.50)。むろみはマグロ漁船の網にかかって水揚げされても、まったくあわてずにマグロらと一緒に魚市場でゴロゴロしている(!)。そうして海に生きる人々はいろいろ分かっているらしく、別に彼女をどうともせずに、『非売』という札をつけて転がしているばかりだ。

似たようなこととして、本格連載・第3話のとびら絵的な場所では(p.54)、

[まな板の上のむろみさん] 危機的状況を まるで理解していない

ということわざ事典的なキャプションを付されてむろみは、大きなまな板の上で『固いベッドやねえ』と言いながら、のんきに寝そべっているのだった。その真上から、これも大きな包丁が迫っていることには気づかずに。

で、これ的なことをさすがに言い飽きてはきたが。それからたいへんなことになってしまいそうな彼女が、その場を『ベッド』と呼んでいることに、性的な含みがない…とまで偽善的なことは申し上げようもない。
そしてそこまでに無防備なむろみについて、だからこそヤバげ、と理解しているヒーロー君について、『ずいぶんかしこいなあ』と、筆者はみょうに感心するのだった。まるで彼は、『女性というものの妖しさと危うさを描き、そこから外傷的ギャグを展開』、という作者・名島啓二センセの手口は分かっているし…とでも言わんばかりだ!

なお。「侵略!イカ娘」にしてもそうなのだが、あらかたの物語において海っぽく水っぽい記号らの頻出は、たいがいを通り越して性的な意味作用を(無意識に)なしている。
テニエル画・アリス物語の挿し絵「魚とカエル」読んでおられる方々はご存じのように、ルイス・キャロル「ふしぎの国のアリス」にも海産物(英 fish)らのイメージが超頻出しているが、それがまたそれだし。
かつ「サザエさん」という例にしても、性的な機能を名前らが示しているわけで。空洞・包摂・扁平を表すサザエ・フネ・ワカメ・タイ子らに対する、出っ張りを表したマスオ・カツオ・タラ・アナゴ、という記号らの含みの違いを見よう(…ただし≪波平≫だけが、この対になる群の外部にいてる。これまた意味のあること)。

そして、この時点で、いったんの議論のしめくくりとして。

よくも名づけたもので、今作の題名は「波打際のむろみさん」。その『波打際』とは、もちろん海と陸との境であり、そして人の世と人外らの世界との境であり、またたぶん両サイドの性らが出遭いそこなうところでもあり。
…さらにおそらく、生と死の境たる場所でもあるのだろう。その場所でむろみは、われわれを待つ。『私は何?』という問いかけへの答を、その場所で彼女は、すでに一千年ほども待ち続けているのだ。

そしてその答を保留し続けているのは、ヒーローのかしこさだが。けれどその態度は、未成熟な少年たるものの特権行使かも知れないのだ。別のお話で言ったら、ラフカディオ・ハーンの描いた雪女が『まだ若いから』と言ってヒーローを殺さなかったことは、たぶん彼女の気まぐれでも何でもない。