2010/11/29

衛藤ヒロユキ「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」 - ≪ゆる系ギャグ≫はんらんの必然性?

「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻
「ドラゴンクエスト 4コママンガ
劇場 ガンガン編」第2巻
 
参考リンク:Wikipedia「4コママンガ劇場」
関連記事:ラベル“衛藤ヒロユキ”

日本のまんが史においてMid 1980'sあたりから、コンピュータゲームからのインパクトが大きくて無視できないとか。また、われらの衛藤ヒロユキ先生は、その流れの中から出てきて最先端に立ち、大ブレイクをなされたとか。…そういうことはあるけれど、だが別にそんな大きめな話を、いまここで申し上げようとはしていない。
ただ単に、さっき自室に積んである本の下の方に、「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」の何冊かを見つけて、うっかり目を通してしまったのだ。で、その「ガンガン編」の第2巻(1992)から、われらが電脳系ギャグまんがのマイスター、衛藤ヒロユキ先生の作例にふれて、ちょっと感じたことを。

――― 「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻, p.55 ―――
(お話の前提。ドラゴンクエストIVの第5章、勇者らは天空のぶきぼうぐを収集中。その1つである天空のかぶとを所有するのは、北方スタンシアラの国王。彼はそれを、『自分を笑わせてくれた者に与える』と、奇妙なおふれを出している。で、勇者らも挑戦!)
【勇者の仲間・商人トルネコ】 コーミズ(という村)の 住人は ムコーミズ!!
【王】 (むっつり、)おかしく ないのぉ
【トルネコ】 (あいそ笑い、)さすが王様 ひとすじなわでは いきませんな ハッハッハッ
【王】 (場がゆるんだので、ついスマイルを返し、)まあな
【勇者たち】 (脱兎と逃げている王を必死に猛追し、)確かに 笑ったぞ!

この作例が何と、すでに20年近くも前のものかと思うと、かなりがくぜんとさせられるものがある。ドラクエ自体はぜんぜんノスタルジーになっていないのに、また衛藤先生のペンワークのみずみずしさはいま見ても変わらないのに…。しかしわれわれ(というかオレ)ばかりが、ずいぶん年を取っちゃっているようで。
ま、それはともかくも。現在のわれわれは、この作例をどのように受けとめるべきだろうか?

作中で勇者らが取り組んでいる、『人を笑わせる』ということ。それは、われらがギャグまんがの最大のタスクでもあるが。
けれどもまんがに限らない話で、『さあこい!』とかたく待ち構えている人物を笑わせるだけのギャグなんて、そうそう出るものではない。『出るぞ』とお思いなら、ぜひいまここに出していただきたい。さあッ!

で、そんなすごいギャグがないとすれば。性急に笑いを取ろうとする前に、まず何とかしてその場の空気を温め、相手の心のガードをゆるくしておくことが有効になるだろう。
あと、あまり高級なやり方とは考えられていないが、『先んじて自分から笑ってみせる』ということは、ギャグ的弱者が人を笑いに誘う戦術としては有効であろう。笑いは、伝染するものだから。
いっそのこと第3者のサクラを用意して、まず彼に爆笑させてみることもできなくはない。いにしえの海外ドラマのコメディで、笑いどころにあらかじめ笑い声が入っている、あのように。

かつまた笑いの機能として、『緊張の緩和』ということがある。作例を見ると、『ギャグを出そうとするよりもお追従を述べた方が、まだしも相手を笑わせうるとは情けない』…という気もするが、しかしそれだけではない。
のっけからいきなりお追従を述べたのでは、王は『あ? 何?』くらいにしか反応しないだろう。そうではなく、さいしょの『笑うか/笑わないか』という勝負で、まず王の緊張が高まっており。次に勇者らがギブアップしてその緊張がゆるんだところへ、タイミングよくトルネコのあいそ笑いとお追従がヒットしているのだ。言うまでもないのだが作例は、ギャグ作品なりに、ちゃんとありうる人間の動きが描かれたものに他ならない。

ところでわれわれは『笑い』に関し、英語っぽく言って『ラーフ』と『スマイル』とを区別している(*)。いずれの笑いも『心身の緊張の緩和』ということに関連しているのだが、ラーフとは肉体のけいれん的な運動によって緊張が緩和に向かう現象自体を言い、スマイルとはゆるんだステータスが表情に表れているものを言う。
(そして、言うまでもなくギャグまんがは、どうにかして読者をラーフにみちびくべき)

だが、ドラクエIV本編にしろ、衛藤先生の作例にしろ、前提としてはその2つが区別されていない感じがある。調べてみると、スタンシアラの町人が、『王さまを“大笑い”させれば』…ほうびは思いのまま、と言っているようだ。この『大笑い』こそ、われわれの言うラーフのことに違いない。けれども『ラーフでなければならず、スマイルは排除する』とまではっきり言われているわけではない感じ。
そこらがあいまいだからこそ、作例がお話として成り立っている。王の方は『ラーフ以外無効』と考え、勇者らは『スマイル有効』とゲームのルールを受けとっている、その認識のギャップがギャグを生み出している。つまり、われわれの考えるような区別は必要かつ有意義なのだと、ここで衛藤先生が同意なさっているも同然。

と、それこれ見てくると。この作例は、こんにちはやり気味な『ゆる系ギャグ』とやらの方法、ギャグ的弱者の戦術を浮き彫りにしているようにも思うのだった。

ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻
ヒロユキ「マンガ家さんと
アシスタントさんと」第1巻
一般的なギャグまんがの作法として、『1ページに2つはギャグを入れること』、と言われるらしい。ミキマキ先生がりぼんの編集からそう教わったそうだが、何か古いまんが入門の本にも同じことが書いてあった気がする。それをいちおうリファレンスとすると、こんにち『ギャグまんが』で通っている作品のかなり多くに、そんな数のギャグが入ってないことに気づかされる。

ただし、すべっているかもしれないギャグを大量に盛り込むより、読者が心地よいようなふんいきで押していくという方法は、まんがとして大いにありうるものだ。そして全体のテンションを限りなく低めておくと、その中の少数のギャグが、よりインパクトあるものとして受けとられるやも?

――― ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻(2008), p.20 ―――
【まんが家】 (仕事部屋の窓から外を見て、)いい… 天気だなぁ
何故こんな日に… 僕はマンガなんか 描いてるんだろ?
【アシスタント】 先生の原稿が 遅れているせいです
【まんが家】 (表情が死んで、)スミマセン…

同じガンガン系の『ヒロユキ』先生というつながりで、これをご紹介してみたが…。

で、こういう作品の方法論をしさいに検討しても、ちょっと自分的にはあれだが。ともあれ、このようにきわめてロウなところでのテンションのびみょうな起伏、それにプラス『お追従』、読者のナルシズムをくすぐるような要素を加えると、あいそ笑いのスマイルくらいは引き出せそうなのだった。
そしてこのような、ギャグ的弱者の方法論が現在、筆者もそうである社会的弱者らのセンチメンタリズムとナルシズムにアピールしている、ということは大いにありそうだが。いや、そうでなくともおセンチとナルシーは、『まんが』というメディアには絶対のつきものだが。

けれどもそうじゃないものがあるかもしれない、『それが“すべて”ではない』のでは?…という想いから、自分はこの≪ギャグまんが≫というものに粘着し執着し続けている。

0 件のコメント:

コメントを投稿