2010/11/28

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - すばらしきまんがの世界(ギャグ以外)

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる THE MOVIE」
竹内元紀「Dr.リアンが
診てあげる THE MOVIE」
 
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筆者の大好きな作品、今世紀のオープニングを飾った下ネタギャグまんがの大傑作「Dr.リアンが診てあげる」。それが表題に出ているけれど、この記事では≪ギャグまんが≫の機能というか功用というか、そこらをわりと広く考えてみたい。

1. まんがと呼ばれる、夢あふれるメディア!(ギャグ以外)

にしても、さいしょは「リアン」のお話から。…その実質的な第4巻「THE MOVIE」の序盤に収録された『マンガを描こう』の巻で、ヒーローのナオト君が、少年漫画新人賞の応募作を描こうとしていると言い出す。
超とつぜんに、まんが家志望だとカミングアウトするのだ。そうすると。

【美果】 いいわよね 読者に夢を売る 商売だしね ギャグマンガ 以外は

…と、いきなり的確すぎることを、天然ボケ気味の美果がおっしゃりやがる(p.28)。
その次に、どういうジャンルで描こうかという相談になると、『ラブコメが いいです!』と言い出したのがリアン。

【リアン】 (ラブコメすなわち、)男に都合のいい女を 仕立てて
とりえのない主人公を モテさせて 全国のドーテーどもを ドキドキさせるマンガ!
【美果】 みもふたもない 言い方するな!!

ところがこの、「Dr.リアン」というまんがはギャグ作品なので。よって、そこで『ギャグマンガ以外』のまんがが読者に売りつけている夢や幻想をぶち壊すための『みもふたもない 言い方』がなされるは、しごく必然かつとうぜん!
そうすると美果は、≪ギャグまんが≫が何であるかは知っているが、しかし自分がそれに出演しているという自覚がないらしい。…ま、それはそうか。

また、異なる作品も見ておくと。ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」(*)の第1巻、『ヤスチーム vs.ビキニ隊』の対抗戦で。敵の動きが速くてつかまえられないミチル君に対し、セコンドのヤスが、『心の眼を開け!』のようにコーチングする。
そうかと思ってミチル君が目を閉じて闘うと、それがあっという間にやられてしまう! あたりまえすぎていやになるところで、だいたい『心の眼』なんて、そんなかんたんに開くものじゃない…というか、開いた人がいるのだろうか? 筆者ぐらいの古い人だと、「アストロ球団」の球三郎サマじゃあるまいし…ということになるが(汗)。

そして、『まんがじゃあるまいし!』というふかしぎなツッコミが言外に表現されているのが、これらのギャグ作品のおかしいところだ。「Dr.リアン」という作品自体がムンムンのハーレム物語的なのに、それに近いラブコメが作内で揶揄され嘲笑されている。「踊るスポーツマン ヤス」の内容のありえなさは一般のスポ根まんがの比ではないが、けれどもかんじんなところに限って、要らざるリアリズムが描かれている。

2. 一般まんがをおちょくることが、ギャグまんがの使命

どうであれギャグまんがの内容には、ギャグじゃないまんがの内容や描写を否定しているところがあるのだ。筆者としては、“必ず”あると言いたい。
そしてそれが意外とかんじんなことで、そうだからこそまんが雑誌と呼べそうな媒体には、必ずいくつかギャグ(っぽい)作品が載っている。その質はともかくも。

ギャグじゃないまんがは一般に、読者の心にファンタジーを残して終わる。それに対してギャグまんがは、意識的または無意識的に『リアル』を読者に示して終わる。受け手の心の健康のために…行きすぎないようにバランスを取るべく、媒体には、行ったものを引き戻す要素が必要。それが、ギャグ(っぽい)まんがに期待される機能だ。
ただし、戻すぐらいならファンタジーの世界に行く必要もないのかというと、そんなことはない。どうせ起きるのに毎日眠らなくてはならないし、どうせ下から出るけれど食べなくてはならない。それと似たようなことで、人間にはファンタジーもリアリズムも必要だ。

そして、まんが史をひじょうに大きく見ると。ギャグまんがというジャンルの発生は、ストーリーまんがの発達に『対応して』のこと、という見方があるようだけど、その意見に筆者はほぼ賛成だ。
そのことを、筆者の持論のギャグまんが世代論を用いて言い直すと。まず『ストーリーまんが』という呼び方を求めるような作風の誕生に対抗して生まれたものが、ギャグまんが第1号「おそ松くん」(1962)からの第1世代。この過程を、かの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、『生まれた』ではなく『生まれさせられた』、と形容している(*)。
続いて1960'sからの劇画ブームに対抗したのが、「がきデカ」(1974)からの第2世代。そしてMid 1970'sからの新しいものら(大島弓子や大友克洋、等々)に対抗したものが、「伝染るんです。」(1989)からの第3世代。

というわけで、メインストリームのまんがの進歩だか発達だかに対応して、ギャグまんがも成長してきたと考えられる。言い換えれば、まんがにおける新しいファンタジー(の描き方)の発生に対抗して、ギャグまんがによる『リアル』の描き方も進歩してきたのだ。

よって。新たに第4世代のギャグまんががこれから生まれるには、それに先立って、まずギャグじゃないまんがにおけるイノベーション『こそ』が必要になってくるのかも。
あるいはそれは、すでに発生しているのだろうか? 筆者がはっきり認識できないうちに、ギャグにしてもギャグじゃないまんがにしても、いつの間にかすでに次の世代に突入してしまっている…そんなことは、ひじょうにないとも限らない。

3. 少年まんがは、少年として少年的に!

ところで、さいごに「Dr.リアン」の話に戻ると。いろいろ相談しながら描き上がったナオト君のラブコメ作品は、何とあからさまなエロマンガになってしまったのだった(p.34)。ペンネーム≪ルパンツIII世≫を名のる作者が、自分で自分の原稿に成年コミックのマークを描き込んでいるのがどうにも…。

【美果】 少年マンガを 描くんでしょ 描き直しま しょうよ
【リアン】 簡単に 少年マンガに 直す方法が あるですよ
(『ビシッ』と親指を立て、)チンチンを 少年のチンチンに 描き直せば いいです!!
【美果】 いいこと あるか――っ!!

というナイスな修正が、なされたのか否かは不明だが。けっきょく少年漫画新人賞は、落選してしまったのだとか。
何しろナオト君のまんが家志望の動機、その職業のいちばんの魅力とは、『エロ本 いっぱい持ってても 「人体デッサンの 資料」』として言い抜けが可能、ということだそうで(p.28)。そんなではそうなったのも、しごく必然かつとうぜんかと。

でまあ、いままでの話とは関係ないようなことだが。どうせ少年誌のラブコメなんて、ナオト君ほどじゃないにしろ、かなり血の気の余ってそうな方々が描いておられように(?)。ところがナオト君とは異なり、みんなちゃんと寸止めの作品に仕上げているのはすごいな、プロだなあ…と、おかしなことに感心してみせて、この堕文は終わるのだった。

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