2010/04/29

山仲剛太+工藤晋「闘莉王物語」(Web作品) - ヒーローと、その背後のもの

サッカーファンならご存じ、日本代表選手で名古屋グランパス所属の田中マルクス闘莉王、その人の伝記まんがが、小学館のサイトで無料公開されている。クラブサンデー「闘莉王物語」←こちらにて(現在、第2話まで)。同じものが、週刊少年サンデーにも掲載されているらしい。
ついさっき『サポティスタ(*)』を見てそれを知ったので、筆者も閲覧してみたのだった。

で、その闘莉王選手は昨2009年に浦和レッズでいろいろゴタゴタしたすえ、今季からグランパスに移籍したばかりであり。そうして筆者はレッズのファンなので、想うところはちょっとありつつ。
そしてさいごまで読んだらアンケートフォームへの誘導があったので、筆者はこれへの感想として、だいたい次のように書いたのだった。

 第1話の語り手の新米記者のひじょうに浮わついているところが、あまり感じよくない。
 レフェリーを悪役にしている作劇は安易だし、サッカー競技のイメージを下げている。
 そしてもっと全般に、『サッカーの楽しさ』を描くようなお話であればよいかと。
 それがそうじゃなく、トゥーリオ1人をヒーローにするような作品になっている。

でまあ、あえて言ってしまうと、あまり後味のよくないかたちで闘莉王と別れたレッズファンの中には、『あいつは1人でヒーローぶりやがって、“まず”チームのために、という気持ちがなさすぎ!』、のような感じ方は、そうとう広く存在しそう。
筆者もそのようなバイアスを持っているがゆえ、「闘莉王物語」が上記のように読めたのだろうか? あるいは「闘莉王物語」というまんが作品が、そのような闘莉王選手のキャラクターを、うかつにも『正しく』描いてしまっているのだろうか?

ところで筆者の痛いところは、サッカーという団体競技の中で、常にどこか『1人で』闘っている感じの闘莉王選手を、実はそんなに否定しきれないところだ。ほんと言うと筆者は『組織』なんか大っきらいなので(!)、よく言われる『個人と組織との矛盾』という問題を、自分の力で(とりあえず)解決している闘莉王を、かっこいいと感じることがやめきれない。
…貴姉兄は、いかがお感じになられたことでしょう?

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」 - 見せかけのオキテ、無分別ないくじなし

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」第1巻 
関連記事:「三ツ森あきら」

ギャグまんグルメを自負する筆者が絶賛をおしまない1990'sのギャグまんが大傑作、三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」。その関連シリーズとして、今21世紀にふっかつしたものがこれ。1P単位のショート形式、竹書房『Dokiっ』とかいう媒体に掲載中、『いつから』というデータは不明(推定・2006年かそこら)。単行本はバンブー・コミックスとして、第2巻まで刊行中。

並べてみると、題名の表記が少々変わっているので、前作を「大文字のLET'S」とでも呼びたくなるところだ。対する今作は、「SA」とでも略称することにして。
で、関連シリーズといっても、両作に直接のつながりはひじょうにない。ともかくも作者が同じで、ふんいきに多少通じるところがあるかな、と、そのくらい。あまりにもつながりがないので、「SA」第1巻・巻末のおまけまんがで、かの「大文字のLET'S」が生み出したスター的キャラクター≪スシ猫くん≫が、読者に代わって『こんなモン サギだろ サギッ!!』と怒っているくらいだ。
いらぬ想像をあえてすると、前作から版元が変わっており、しかも前作はTVアニメにもなった作品なので、権利関係がめんどうだったのかも? そこでせめてもと、そのおまけまんがの中で、おなじみの設楽先生やデキナイ君らがちょこっと活躍しているが。

あと両作が異なっている点といえば、『スーパーアダルト』ということわりがついているように、今作「SA」はエロいネタに特化した内容。前作も少年誌掲載にしてはエロい内容だったけれど、こっちはそんなものではない。

で、やっとここらから『内容』の話になるんだけど。今作「SA」について、読んで笑えないということはないが。本の値段分の価値はゆうにある創作だ、とは思うが…。
しかし筆者は「SA」の内容について全般的に、「大文字のLET'S」にあったような張りつめたものが感じられない、というのが正直なところだ。前作の描いていた≪性≫が、その背後に必ず≪死≫の匂いを秘めたものだったに対し、こっちはたいそうふんいきがゆるい。

たとえば…と言って、あまり面白くないところを見ることになるが。題して、『レズビアン イン アパート』。女性2人がアパートの1室でたわむれているところに、大家のおばさんがどなり込んでくる。そして、『こんな“ネコ”なんか 連れ込んで うちのアパートは ペット禁止 だよー!!』と言って、受け役の女性を外に放り出してしまう(第1巻, p.26)。別に説明したくないが、レズの受け側を俗語で『ネコ』と言う。
堕じゃれじゃん…って、それはいいんだが、しかし何とも発想がふつうだ。むかしからエロ本のすみっこに載っている『艶笑』的な4コマまんががあるが、今作「SA」はそのようなものとして、たいへんに洗練されている…くらいの見方もできてしまいそう。まあじっさいに、掲載誌がほぼエロ本のようなものらしいし。

ところでその「SA」の中で異彩を放っている部分、筆者が大いに注目しているのは、第1巻のカバーを飾っているキャラクター≪パンダ君≫が描かれたシリーズだ。このパンダ君がほんとうのパンダなのか、パンダの着ぐるみを着た人なのか、そこらがよくわからないが、ともかくも彼はテレビの子供番組の人気キャラクターなので、『いやらしい事など見ても 聞いても考えても いけない』という立場にあるという(同書, p.6)。
だからパンダ君は、エロいことを『しない』ことを必死にがんばっており、それゆえに彼を求める女性たちから『いくじなし』と呼ばれてしまうのだった。よって彼が登場するシリーズには、『チキンハートストーリー』という副題がついている。

他の登場人物たちがためらいなく≪享楽≫を追求しエロい行為に走る、特に三ツ森作品ではいつも、女性らに恥じらいがほとんどない。その中でパンダ君だけが超かたくなに、その『純潔』を守っているのだ。そしてそれが、だんだんとおかしいことに発展していく。

 ――― 「Let'sぬぷぬぷっSA」, 『パンダ君(お見舞い編)』より(同書, p.48) ―――
われらのパンダ君が、何らかの重病で入院しているファンの少年をお見舞いに。すると少年は悲観的で、『ぼくなんかパンダ君と同じ“いくじなし”だから、手術を受ける勇気なんてないし』、などと言う。
いきなり痛いところをつかれて、パンダ君は冷や汗をかきながら、しかし『ボクはいくじなし なんかじゃ ないよ…』と言い張る。すると少年は、つきそいのナースをさして、『だったら今ここで あの看護婦さんと Hできる?』と、とんでもないことを言い出すのだった。『いくじなし じゃなければ できるよね? 僕に勇気を 見せてくれる よね!!』、と少年が言うのを聞いて、ナースはパンツを脱いでそれをスタンバイする(!)。
と、追い込まれて全身がズブズブ冷や汗まみれになったパンダ君は、『やっぱ手術 しなくて いいよ…』と、あっさり降参してしまう。そこで少年とナースはがっかりして、異口同音に『いくじなし』と、パンダ君をののしるのだった。

それからの展開を超かんたんに記しておくと、このように自らの純潔を守らねばならないばかりにパンダ君は、自分が死ぬことも辞さず、他人が死ぬことも辞さず、その他の部分での名誉を失うことも辞さない。
クリスマスの夜、よい子にしていたことのごほうびとしてサンタクロースが女の子を連れてきて、『この娘の処女をもらっとくれ』などと言う。するとパンダ君はサンタを金属バットでぶん殴って、『ボクは本当は 悪い子だー プレゼントなんか いらないんだー』と叫ぶ(同書, p.78)。
そして今作の第1巻の巻末のエピソードでは、パンダ君は孤島のプライベートビーチでバカンス中(p.126)。すると浜辺に人が流れ着いたので助けようとするが、しかしよく見るとその女性が、漂流中に服を流されて、ほとんど全裸。
それに気づいたパンダ君はきびすを返し、自分のコテージに引き返してしまう。『やがて 夜になり 潮が満ちれば 波が全てを 消し去って くれるだろう…』と、非情のモノローグをそこに残して。そうして夜のビーチには、気の毒な女性の『いくじなし~』という叫びがこだまするのだったが、しかしパンダ君は『僕には 波の音しか 聞こえない…』と、自分に言い聞かせるばかりだ。

…分析用語の≪超自我≫とは、『内面化されたオキテ』のようなものを言う。しかしジャック・ラカンとその系列は、それのふるまいについて、非合理性や『無分別さ』を強調している。前にも引用したかと思うが、J-D.ナシオいわく、『なによりも超自我は、見せかけ(semblant)の掟であって、無意識的で無分別な掟なのである』(「精神分析 7つのキーワード」, 訳・榎本譲, 1990, 新曜社, p.208)。
という、そのフレーズはどういう意味かということを、われらがパンダ君の大活躍は絵解きしてくれているのではなかろうか?

2010/04/28

平野耕太「進め!! 聖学電脳研究部」 - 人のいやがるクソゲーを、何の因果か…!

平野耕太「進め!! 聖学電脳研究部」角川コミックスA・エクストラ 
参考リンク:Wikipedia「進め!! 聖学電脳研究部」

コンピューターゲームばかりをしているという高校の部活を描いた、まあいちおう『ギャグまんが』と呼べる作品。2003年の角川コミックス版(全1巻)しか手元にないのだが、実は初出が1997年の古い作。いちど20世紀に新声社から刊行されていて、そっちもわりと古書店では見るけれど、『それも押さえよう』とまではさすがに想わなかった。

ところで今作については、内容以前にいろいろと見る点がある。まずは文字要素が横組みで、左から右へ読む作品になっている。これもそうだがゲーム誌やパソコン誌に出たものを中心に、いまは横組みのまんがの本はけっこうある(今作は、『ファミ通PS』とかいうゲーム誌に掲載)。
けれど、かろうじてでも『作品』と言えそうな横組みのまんがは、これ以外に知らぬ(外国のものは除外し)。今作にしたって読みやすいとは決して言えないが、しかし『何かあるのでは?』…という思いでがんばって読んだ。

次に、今作の登場人物らの多くは、なぜだか名前が、東京・足立区の町名になっている。いきなし主人公が≪西新井くん≫であり、ヒロインは≪綾瀬ちゃん≫。それからわき役の女の子らが梅田と梅島、カタキ役が北千住高校の番長の竹ノ塚クン、と。そうして筆者も足立区の者なので、ここらはいちおう気になるところだが。
しかし主人公をさしおいて大活躍する電脳部のブチョーは、≪寺門クン≫…と、足立区には関係ない名前になっている。そうすると、むしろこのヒトだけが真の登場人物であり、≪キャラクター≫と呼べるだけのしろものはこいつ(および、追って登場するその一族)だけ、ということが逆に知れる。ちなみに今作を読んでも、うわさの足立区がどんなところなのかは分からない(はず)…惜しくも。

で。転校生の西新井くんが入部した電脳部と称するゲーム部のブチョー≪寺門クン≫が、とんでもないアナクロなクソゲーマニアだったのだ。しかもこいつは、『ゲームキャラ以外の女の子には興味が』ない(p.40)、と言い張って、彼をしたう梅田と梅島の猛アタックをだんこスルーしまくる奇人でもありつつ。
そして、なぜにそんなやつがいるのか…ということがふしぎかのようだが、実は大してふしぎじゃない。われらのブチョーは、ようするに≪ナルシスト≫なのだ…と言っておけば、だいたいすむ。
彼はかわいい自分のプライドを護るために、常人らのいやがる≪クソゲー≫と『超マニア設定』をタテに使っているのだ。あまりにも大きな愛を求めつつ、それがもし得られなかったらどうしよう…という不安をまぎらすため、あえてきらわれそうな変人を演じているのだ。で、そんなポーズを本人がやめたいと思っているのでなければ、特に≪問題≫は存在しない。

しかしこの1997年的な時代、筆者もまたゲームマニアの方々のわりと近くに生きていたので、なつかしい話題が出ている作品ではある。クソゲーのブーム(?)もそうだし、「FFVII」が成功しすぎでちょうしづいたスクウェア社とか、何が偉いのか分からないが大物ぶっていたWARP社の社長とか。それと第7話(p.51)で言及される『コスプレ・ダンス・パーティー』なんてことは、いまでもどこかでなされているのだろうか…(遠い目)。

また、ちょっとそういう点から見ると、今作のヒロインの綾瀬ちゃんが、メガネっ娘でゲーマーでコスプレイヤーで、しかもりっぱな≪腐女子≫だという設定なのだが…(もちろん、実作に『腐女子』とは書かれていない)。

しかしその設定が、後の展開で、死ぬほど生きてないッ。

そんなヒロイン像が1997年時点では目新しかったはずなので、ブチョーの偏奇なる生きざまの描写に固執するよりも、そっちから押した方がよくはなかったか? そうしたら、ちょっと前にヒットしたアフタヌーン誌の「げんしけん」みたくいけたのでは? しかしこの作者サマが死ぬほどのヒネクレ者らしいので、『死んでもそんな、媚びたコトは描かねェ!』という感じだったのでございましょうか?

つまりこの作者サマのアチチュードとして、『オタクカルチャー』なんてものを軽く肯定し賛美しちゃおう、というのがない。そんな軽いもんじゃないんだということが、ひねくれたクソゲー賛美によって描かれている気配。しかし筆者の見るところ、「げんしけん」的なオタクさんらの無反省なナルシズムと、クソゲー求道者たちのナルシズムと、まあまあ五分の勝負じゃないかな…という気もしつつ。

次のようなことを言っててもしょうがない気がするが、面白くもないクソゲーに没頭している方々が現在もおられるなら、『自分がそこに何を求めているのか?』を、いちど考えてみてもよさそう。たぶんその行為によって、『そこまでもゲームを愛している自分』を確認したいのかなあ、とは考えつつ。
それが『何の意味もないストイシズム』であることは、まったく疑いえないが。けれどもそれが、少数の仲間の中では『1つのもの』と見られているなら、『それもありか』と考えざるをえない。
ここらにおいて、人を愛さないが人々にしたわれているわれらの寺門クンは、選ばれたごく少数の幸せ者だ、ということが知れてくるのだった。そのような1つの幸福を描いているということが、ひじょうにささやかな創作である今作「進め!! 聖学電脳研究部」を、わりと忘れがたい作品にしているポイントなのだろうか?

2010/04/27

佐藤まさき「未来人間GOGOGO」 - セックス と 誕生 と、エロビデオテープ

佐藤まさき「未来人間GOGOGO」第1巻 
参考リンク:作者公式「未来人間GOGOGO」
関連記事:佐藤まさき「ボクら超常倶楽部です」

月刊少年チャンピオン掲載の、SFスペクタクル下ネタギャグまんが。詳細は不明だが2000~02年くらいに出ていたもので、少年チャンピオン・コミックス版は全7巻。
それがだいたいどういうお話かというところを、その第1話からご紹介すると…。

物語のヒーローは、近未来2042年の高校生≪五剛号(ごごう・ごー)≫。モヒカン刈りの頭に全身タイツを身につけて、さらにその上からブリーフをはいている…というおかしげな少年だが、これはどうやら未来のファッションらしい。
で、その号クンについて作者さまが言われるには、『性格はスケベでマヌケでケチで嘘つき…と、良い所ナッシング』。そのような号クンが、発明家の父の甘言につられて、≪タイム・ホール≫を通って過去へ行く、という実験のモルモットに。
すると、穴の向こうは1999年の日本の民家…とまで確認したところで、タイム・ホールの穴が小っちゃくなっちゃって、号クンは帰還不可能に! しかも、誰だか民家の住人が帰ってくるし。さあ、たいへん!

で、帰ってきたのはその家の長男の高校生≪佳司(けいじ)クン≫。何とかやりすごせないかと号クンが、部屋がうす暗いのをいいことに身をひそめていると。おもむろに佳司クンはいっきなし、学校で悪友に借りてきた無修正エロビデオを見始めるのだった。
そしてそっちが、だんだんと盛り上がってきて。ついに佳司クンが『えーと ティッシュ ティッシュ』…と言って手を伸ばすと、そのティッシュの箱の上で、手と手がふれあう(!)。
そこで佳司クンが顔を上げると、いつの間にかTVの手前の並ぶような位置に、彼の知らない少年(号クン)がいる。そしてこの見知らぬ少年のどうとも形容しがたい表情を、暗い部屋の中、ブラウン管の光が、横方向から照らし出している。

そして、その見知らぬ少年の2つの目、小さな目が、佳司クンを…ただ、見ているのだった。

その次の瞬間、佳司クンはびっくりして『うっ うわぁあ ああぁあ』と叫び、号クンもまた『しまったあぁ あぁあー!!!』と叫ぶ。
そこで号クンは『少し眠ってて もらうぜ!!』と言って、佳司クンをぶん殴る。がしかし、その次のシーンでは、逆にボコられた号クンが、ロープでギンギンに縛り上げられている。この2人、体格はそんなに変わらないンだが、なぜか佳司クンはケンカ無敗のつわ者、一方の号クンはぜんぜん非力で殴っても効かぬ…とは、今作の一貫した基本設定なのだった。

ていうところで民家の住人ら、この滝原家の主人で男やもめの父と、佳司クンの妹の中学生≪しほ≫が集まってきて、ドロボーかと考えられた号クンの処置を相談する。そこへ号クンの父が、異様に狭くなっちゃったホールからやっと顔だけを出して、自分らの事情を説明し始めるのだった。
どうにか話が通じたところで、五剛パパは滝原父に、『マシンが 直るまで 号を預かって くれませんか』と、超むしのいいことを言い出す。という相談の後ろで号クンは、しほがかわいいのでいっきなしちょっかいを出し、『手相を見てあげるよ』、などと言っている。そんな未来でもナンパの初歩テクは、いっこうに変わらぬらしい。

そんなありさまを見て滝原家のメンズは、号クンを預かるのは『イヤです』と、すなおに答えるのだったが。そこで五剛パパは、父2人のタイマンで、『大人同士の話し合い』、というものを申し入れる。
そして言うには見返りとして、未来テクノロジーの産物≪バーチャルエロ1919≫というエロビデオの超進化形、それを提供するのでどうか、と。すると滝原父は、『何かと思えば 私をエログッズで 釣ろうという わけか…』と言って、フッと鼻先で笑う。

かくて、『大人同士の話し合い』が美しく合意に達したので(!)、滝原父は佳司クンの部屋をさして号クンに、『今日からここは キミの部屋だ』と言うのだった(!)。すると、とうぜん佳司クンは面白くなくて不満たらたらだが、かくてわれらがヒーローたる号クンの、現代における生活が始まったのだ…ッ!(第1巻, p.5-35, 『第1次中間報告』)

…というのが、今作の第1話のあらましなのだったが。このお話には、表面的におかしいところは、別にそんなにはない。『戯画的』という意味でのおかしさはありつつも。だがしかし、何かおかしいことを付随的に語っていそうな気がする。

そのおかしいこととは、『誕生』という現象にかかわる≪外傷的≫なストーリーだ。

まずいっきなし、問題の≪タイム・ホール≫は一方通行で戻れない…これが、『産道』というものを思わせる。というところで状況をチェキると、この穴をはさんで結ばれた両家には、いずれも母がいない。追って滝原母は若くして死んだことが知られるが、五剛ママの消息はまったく分からない。
で、びっくりなことにタイム・ホールという穴が、両家における≪母≫の機能を果たすのだ。その穴はまず号クンというムスコを過去の側に『産み』出し、追って第2巻の巻末では、佳司クンというムスコを未来の側に『産み』出す。そのたびに『産道』は半ば閉じてしまうので、佳司クンもかんたんには現在に戻れない。

そうだとすれば、≪エロビデオ≫などという話題が第1話に2回も出ていること、その意味もまたおのずと知れる。まず、佳司クンがそれを見て何かにはげんだことが…その想像上の≪性交≫がその場へと、号クンを≪象徴的≫に、『産み出して』しまったのだ。
そしてその、『産まれてしまったもの』としての号クンは、≪何≫とも言いがたきふしぎな存在として、佳司クンを見る。そのまなざしの≪外傷性≫に耐ええずして佳司クンは、『うっ うわぁあ ああぁあ』と叫ぶのだ。

逆から見ても同じこと、とも言えて。その場面で号クンが佳司クンを見るまなざし、どうとも言いがたい目つき。それ自体が、何か異形のものの『誕生』を見てしまった…そのような目つきでもあるのだった。
いやなことばで『穴兄弟』なんて言い方があるが、このように同じエロビデオを見て同時にはげんでしまった2人は、互いを異形なる『兄弟』として、互いに産み出してしまったようなのだった(…ちなみに、このWヒーロー2人はタメ年)。

またその一方、滝原父は号クンについて当初、『こんなムスコもどきは超いらねェ』と、その意思がはっきりしてたわけだが。しかし≪バーチャルエロ1919≫という擬似性交マシーンの提供を受けたことと引きかえに、彼をムスコ同然の存在として受け容れる。その家を、『自分の家だと思って』…とまで彼に言う(第1巻, p.34)。
つまり滝原父は、擬似にしろ性交の結果として、≪享楽≫の結果として、出てきちゃったムスコが号クンだとみなし、それは責任をもって受け容れる…という、オトナの態度をとっているのだ。さすが2児の父ともなれば、『誕生』というイベントの≪外傷性≫にも慣れたもので(?)、そうはうろたえもせぬのが佳司クンとの差か。

なお、ずいぶん後のお話だが、未来へ行った佳司クンが現代に戻るため、タイム・ホールを修理せねばならなかったのだが。その材料を求めてのドタバタの最中にも『エロビデオ』というブツが登場し、敵のボスはそれを失くすまいとして死ぬ(第4巻, p.18)。さらにまた、金満キャラクター≪金丸君≫の登場シーンを華やかに描け…という金丸家からの要請を呑む代わりに、作者はわいろとして、大量のエロビデオを受け取る(第4巻, p.76)。

…するとだ。こんなんでは今作「未来人間GOGOGO」は、ヒトが『出る』という現象のたびに作中でエロビデオが機能する、そのようなきわめてふしぎなことを描いてる作品だ、と申さざるをえぬ(!)。つても、そんなにはふしぎではない…と、筆者は申しつつ。

ところでさいしょに、号クンの頭がモヒカン刈り、ということはお伝えしたが。その彼の顔をまっ正面から見ると、そのモヒカンの先端部は『▼』というかたち、逆三角形の茂みになっている。これはようするに、どう考えても≪恥毛≫というものがそこで表されている。

『おお、あの三筋の道……かくされた深い谷間……ひと叢(むら)の薮(やぶ)の茂み……道はせばまって、三つの道が一つに合わさるところ……』
(ソポクレス「オイディプス王」, 訳・藤沢令夫, 1999改版, 岩波文庫, p.123)

それがわりと男性のよりは、女性の恥毛に見えるかなあ…とは思いつつ、しかしそれはどっちでもよい。ギャグまんがのキャラクターには、『ペニス面』・『チンポ頭』、などと形容されちゃう人相、という人らがわりといるが、号クンもまたそれということ。
つまりそのヒト自体が、≪ファルスのシニフィアン≫なのだ(ラカン用語で≪ファルス≫とは『象徴化されたペニス』、≪シニフィアン≫は、『意味ありげだが意味不明な記号』)。それに並行するものとして、五剛パパの眼帯や、女装趣味の校長先生の頭頂部の1束の毛髪らもまた、≪ファルスのシニフィアン≫でありつつ。

で、そのようなふうに始まった今作は、彼らのロウな学園生活や、時空をまたにかけての冒険とかを描いていく。作品としては何せその、作画面でのがんばりがすごい! アクション的でスペクタクル的な描写もすごいが、号クンの百面相もすごい。決してあまりハンサムではないオトコの、≪何≫とも言えない表情を、超リアルに微細に描く…そんなことをがんばってる作品を、他にはあんまし知らない(…この方向性にやや近いのは、古谷実「稲中」か)。
そして、ともかくも読んで愉しい作品だとは思うのだが。…しかし作画面以外への感じを、端的に申しちゃえば。ギャグ面がパンチ不足でストーリー面はやや散漫、かなあ…という気が(!)。

まず後者について申すと、Wヒーローの関係性がさいごまで明確にならない、≪IQ200の天才未来少年≫という号クンの設定がほとんど生きていない、かといってスケベ方面でも彼が活躍しきれてない、かつWヒロインと佳司クンの三角関係ラヴコメ展開が、決着のつかぬまま終わってる…等々々、とはどうなんだろ? 
そしてそのストーリー面のおぼつかなさを、ギャグ面が不発気味なことが、また目立たせてしまうのだ。かんじんなギャグさえズビビッとキレてたなら、別にストーリーなんて、どうでもよくなっちゃうわけだし(!)。…等々と、ことばにすればずいぶんときびしい感じで、実はわりと好きな作品なのに。

そうして筆者的な読み方からすれば、佳司クンから見て号クンが、≪何≫であるのか…ということが最大の問題なのだ。つまりそれを、≪享楽≫をさし示す≪シニフィアン≫、と見たいわけだが。

なのに、佳司クンから見ての号クンのポジションがいまいちはっきりして来ないということは、佳司クンが≪享楽≫というもの、≪性交≫という行為、その帰結としてありうる『誕生』という現象…それらに対してもまた、態度をはっきりさせえない…ということなのだ。だから彼は、彼が思慕する≪未紗≫に対しても、彼を思慕する≪なな≫に対しても、はっきりとした態度に出られないのだ。
そういう意味で、佳司クンを中心とすればこのお話が、彼の友情も愛情も、両サイドで超ちゅうと半端に終わっていることには、ある種の必然性がある。かつまた、ネタバレっぽいことを書くのでご注意を願うが、そのさいごのエピソード『最終報告』。完全に未来へ還ったかと思ったら、また数ヵ月後に滝原家へと来襲した号クンが、すでに35歳で2児の父(!)。そして彼の意外とかしこそうな子どもらを、佳司クンに誇示する…というのが今作の結びになっていること(第7巻, p.184)、それにもまた、ある種の必然性がある。

すなわち。ひと足お先に号クンが、『誕生』という現象の≪外傷性≫を乗りこえ受け容れ、≪父≫として生きることをがんばっている。それを見て佳司クンもまた今後、そのような方向に向けてがんばり始めるのだろう。擬似的な性交と擬似的な誕生ではなくして、リアルの人的再生産を行うような方向へ。

なお、最終話のお話と言えば。タイム・ホールが完全に使用不可能になっちゃいそうなので、その前に号クンは還らなければ…というのが、その展開の始まりだが。そしてそれへのきっかけがまた、五剛パパが≪バーチャルエロ1919≫をへんに酷使したせいで…となっている。すると号クンは、お土産に過去のエロビデオを未来に持ち帰ろうとして、またひともんちゃくを起こす。
かくてしつこくも今作では、『エロビデオ』というアイテムが≪シニフィアン≫としてさし示す≪性交≫チックな行為らが、われわれが『産道』っぽいと見てるものを駆動し、そして『誕生』かのような現象らを起こすのだ。

また、その終盤での五剛パパの説明によると。過去へ来ているにしても号クンは、あくまでもその本来の時間のものであり。それがタイム・ホールを経由して、過去へニュ~ッと出っ張ってるだけらしい。ゆえにタイム・ホールが完全に閉じてしまったら、たいへんなことになり気味、という(第7巻, p.135)。するとこのヒーローは、そこまでず~っと、ヘソの緒がついたまんまで活躍していた…のようなコトになるかと(!)。≪エヴァンゲリオン≫かよッ!

それこれにより、申しては悪いが『散漫っぽいかなあ』とも見られた今作のストーリーだったが。しかしその結び方は、なかなかすじが通っている感じなのだった。

かつまたはっきりとは描かれてないが、佳司クンのラヴコメ方面も事実上はカタがつき気味で、彼は幼なじみの≪なな≫の方を選ぶだろう。
これは冒頭あたりから、びみょうに予告されていたことで。まずは天才らしき号クンの、ほぼ唯一の発明品たる≪ラヴセンサー≫で、佳司クンと未紗の相性は『-99%』、佳司クンとななでは『100%』、という数字が出ているし(第1巻, p.189。ただし佳司クンは、後者の数字を見てない)。だいたいWヒロインというも両者の扱いは決して同格でなく、ななは単行本のカバーを2回もソロで飾っているが(第4巻, 第6巻)、未紗にはそういうフィーチャーがない。

とまあ、『散漫』というなら筆者の方がよっぽど散漫に、長々と語ってきたが(すみません!)。そうして描かれた今作「未来人間GOGOGO」の、『SFスペクタクル下ネタギャグ』という方向性は、それを追った佐藤まさき先生の近作「超無気力戦隊ジャパファイブ」にて、より大きなものとして開花し結実するのだった…!



【おまけ・超余談】 今作の第4巻の巻末、6人のまんが家らが『ゲストコメント』をよせているところに、かのおおひなたごう先生が登場されている。そのコメントが、『佐藤くんは、どんどん絵が上手くなっているので感心する』…と、上から目線でしかも逃げた内容。
どうしてそんなにエラそうなモノ言いなのか…と感じたころの筆者は、ごう先生が意外に大ベテランだとは知っていなかった。またはっきり申すが、まんが作品をほめるとすれば、『面白い』ということば以外は意味がない。『絵が上手』などと言うごときは、『内容がつまらない』の言い換えにすぎぬ。しかしヒトとして、想ったことも正直に言えない場面はあろう。
で、それに対して佐藤センセが返してるコメントが、『実はこの作品のタイトルはおおひなた先生の名前から拝借しました』(第4巻, p.186)。これにはびっくりした…! ギャグまんがの題名と主人公の名に、とくべつ親しくもない先パイ作家の名前を流用したなんて、たぶんこの例だけだろう。なぜそのような『暴挙=快挙』があったのか…ッ!?

2010/04/25

ハグキ「ハトのおよめさん」 - 有閑マダムの気まぐれな暴挙たち

ハグキ「ハトのおよめさん」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ハトのおよめさん」

1999年よりアフタヌーン掲載中のショートギャグ、単行本はアフタヌーンKCとして刊行中。略称「ハトよめ」という今作は何かというと、メルヘンもどきなどうぶつの世界で、ごうまんとも変質的ともエゴイストとも形容しかねる珍キャラクター≪ハトよめ≫が家事の合い間に(?)、ボケたりツッコんだりビームを発射したり…と、大忙しィ~! といったまんが作品、なのでは?
われらのハトよめは格闘家でもスーパーヒロインでもないただの主婦、であるはずだが、どういうわけか、ビームを筆頭に多くの必殺技を身につけており。そしてわりと理不尽かつ気まぐれに、それらを繰り出して大暴れするのだった。

だいたいハトよめのいかしてるところとして、奥さまなのに口ぐせは『うるせえ』、『殺すぞ』、『いいから』。さいごのやつが、特にいい。筆者のごとき小物だと一生言えないような暴言らを、相手かまわず特に身分もないのに吐きまくっているハトよめ様、そこへの尊敬とあこがれが止まらない。
『うるせえ』といえば、「ハトよめ」単行本の第1巻の表紙がいきなり、『うるせえ』と言って彼女がいきなり夫にキックを入れている絵柄。すわっ、こいつはDV礼賛かッ!?

なお、『ダンナ』とか『あなた』とか呼ばれているハトよめの夫はベンチャー企業の社長なので、基本的にはおカネがある。そこらからこのファミリーらに関する描写には、バルザック「人間喜劇」チックな19世紀の≪仏自然主義≫、ブルジョワジーどもの醜行を赤裸々に描く、といったふんいきがなくもない。どこかちがうところでも、そんなことを申し上げたけど。
よって、われらがハトよめのあれこれとむやみな活躍らを、『有閑マダムの気まぐれ』とも見うる。と、そのように言ってみると、これがいっそうすてきな作品のような感じが…?

さてこのすばらしい創作について、いつかくわしく語れる機会があればいいのだが。いまとり急ぎ手短に、その世界でさんぜんと輝く≪狂気≫の兆候はというと…。
と言ってパラパラと今作を見ていたら、わりと最初の方に、こんな1コマが(第1巻, p.93, 『ハトビームの10』より)。

まずナレーション、『ハト一家はスキー場をめざしていました』。そして画面には野原の中の1本道を、オープンカーで走っているハト一家3羽の姿。
そうしてよめは、大きく翼を拡げてきもちよく、『わたしのスキーは誰にも 止められな~い♪ ついでに恋も 止められな~い♪』と、歌っている。と同時に運転中のダンナは、『雪のォ~ 谷間にィ~ ワカメ酒ぇ~♪』と、まったくちがう唄を歌っている。

と、書きながら自分が爆笑したのだが、字で読むといまいちウケないかな? にしてもコレは今作の、えせメルヘンでありつつブルジョワ臭をキツぅく発し、さらには『そうとしても奇妙』であるふんいきを、一瞬で伝えている1コマではないかと。かつまたこのハト夫婦の関係の、すれちがっているのかみごとにシンクロしているのか、よく分からないところが出ている部位でもありつつ。

あと1つ、異なるところを見ておくと。ハトよめがムスコの≪ブッコちゃん≫に、おうちでTVゲームばかりしてないで『初めての おつかいに 行ってきなさい』、と言って≪1600円札≫を渡す。追って、いさいは略すがブッコちゃんがそのお札を出してミネラルウォーター『ビビッテル』を買うと、店主がおつりに≪1450円札≫をくれる(第2巻, p.133, 『ハトビームの30』)。
筆者はコレを初めて見たとき、≪1600円札≫や≪1450円札≫などというものの死に物狂いなありえなさに、息が止まるかとばかり爆笑したのだった。たぶんこの≪ギャグ≫は、われわれの貨幣制度のくだらなさを告発し、そしてぞんぶんにそれを蹂躙している快挙だと想うのだが…ッ!?

真城ひな「ややプリ」 - 『かわいい』帝国の専制、あわせて「みつどもえ」と「ロリフェ」

真城ひな「ややプリ」RMC第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ややプリ」
関連記事:「ロリコンフェニックス」, 「みつどもえ」

りぼんの4コマ作品で、小学1年生のヒロイン≪やや≫とその家族のストレンジな日常を、やたらにかわゆく描く(掲載:2006-09)。りぼんマスコットコミックス(RMC)版は、第1巻が発売中。

この作品については筆者の中に、印象の分裂がある。掲載誌で見ていたころには、『“かわゆさ”ばかりを売りにするような4コマは、りぼん的にはちょっと』、と感じていた。ところがこのたびRMCで見たら、けっこうストレンジなことが描かれてるので、『りぼん的にはありかもな』と。
けれどそのように、しっかりした印象を作れていないということは、けっきょくのところ今作「ややプリ」のウィークポイントなのやも知れぬ。かわいいと言い切るにはシュールなところが目立ち、シュールかとみればかわいいばかりのような感じもする、と。

そうして。並行してりぼんに載っていた、同じく『やたらかわいい』のような4コマ作品で、園田小波「チョコミミ」(2004)は現在も連載中だが、その一方の今作「ややプリ」は、いつの間にか終わっちゃっている。まあ「チョコミミ」はベテラン作家の心機一転・乾坤一擲の作なので、さすがに企画のところからよくできており、“ひなぽん”先生の本誌初連載の「ややプリ」と、ストレートには比較できないが。

と、そんな情勢論はさておいて、今作の描いているところの一端を見てみると…。

ややの父の≪ひろひこ(裕彦)≫は娘のことが心配で、たぶんサラリーマンのはずなのにろくに会社へも行かず、ほぼ常に娘を見守っている。それも考えて、ややがひじょうに好んでいるアニメのキャラクター≪ペン太ゴン≫の着ぐるみを着て、言い換えれば巨大なペンギンに化けて、娘の通う学校に押しかけるのだった。
そんなエピソードが第1話、ややが入学式に行くの巻に描かれて。それからひろひこが外出する時はペン太ゴンの着ぐるみで、ということが、逆に決まりごと(!?)かのようになっているのだ。ややはペン太ゴンを熱愛して、将来は『ペン太ゴンのおよめさんになるー』などと言ってるので、そのポジションはひろひこにとって、ひじょうにおいしいのだった。

で、そんなことばかりを描いてるとどうなるか? 今作「ややプリ」RMC第1巻のおまけまんがに、作者が教育実習に行ったさいの実話っぽいエピソードあり。そこを見ると。
実習先の中学校の教室で、りぼんのふろくを使っている女の子を見つけたひなぽん先生。そこで喜んで、『ややプリ 読んでるー? どんなマンガー?』と聞いてみる。そうすると女の子はこともなげに(?)、『お父さんが ペンギンのマンガだよー』と答えるのだった(p.144)。

 『おっ おしい!! 父は 人です!!』

というわけで、ひなぽん先生はそこでショックをこうむったらしいのだが。しかしこの事態、『誤読』といえばそうも言えるこの事態、これはむしろ、作品が言外に誘導しているところを、読者がきわめてすなおに受けとめているのだ、と考えられる。
何を言ってんのかってようするに、少女たちから見て父親なんてしろものは、ペンギンであるくらいがちょうどいい、中年男であるよりはよほどまし(!)、というわけだ。ちなみにひろひこは、犬好きな自分の長男の≪七海≫の歓心を買うために、イヌに化けることもする(p.146)。

もはやあんまりくどくどと言いたくないが、少女たちが心に描いている『かわいい』の世界に中年男がもぐりこむには、まずペンギンや犬にでも化けなければならないらしいのだった。言っとくとひろひこは、そんなにオヤジくさい中年ではなくて、つまり桜井のりお「みつどもえ」の描くヒロイン一家のヒゲデブでむさ苦しい父親のようではなくて、むしろ見かけはさわやかな方。それでもだ。
と、そこまでを見てくると。われわれが関連記事で検討したこと、松林悟「ロリコンフェニックス」に登場するロリコンどもが、なぜいちように、かわいいっぽい動物のマスクをかぶっているのか…という問いへの答もまた、出ちゃった気がするのだった。

そういえば、前にどこで聞いたのだったか、少女たちがわりと好むような『テディベア』というしろもの。毛むくじゃらでプクプクしてて、そしてクマであるからには、実は兇暴かもしれないもの。あれはようするに、≪父≫か≪男≫を象徴しているものであろう、という見方があるようだが。
そのように≪父≫や≪男≫が少女らに対して、かわいい動物で表象される、むしろそのように表象され『ねば』ならないという現象を、「ややプリ」はおもしろ戯画として描いている。また、このことを表象化ぬきで描くと「みつどもえ」の長女の、『パパが大好き、でもパパはクマのように見苦しいからキライ』、というジレンマになる。さらに「ロリコンフェニックス」のロリコン野郎どもは、この表象化を悪用して少女たちにつけ込もうとしているのだ。

で、「ややプリ」作中にも明記されていることだが、ひろひこが化けてみせたわんこは、テレビのCMでいちじ人気を呼んだ『ソフトバンクの犬のお父さん』、そのパチモノでありつつ。そうして『父親なんてしろものは、動物であるくらいでちょうどいい』という(無意識の)見方は、すでに世の中に蔓延しているものであるらしいのだった。
そしてその一方の、≪父≫という記号をやたらに高みに見ている、われわれことラカン系のもんとしては、こんな世の中が今後どうなっていくのか、気になるところではありつつ。ただここいらにおいて、『その存在が“外傷”であるところの“父”』というものをいつわりなく描いている桜井のりお「みつどもえ」の株は上がり気味、ではあるかと?

2010/04/23

井上和郎「あいこら」 - フェチは、別腹!

井上和郎「あいこら」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「あいこら」
関連記事:西川魯介「あぶない! 図書委員長!」 - その有する、ささやかな『うそじゃなさ』

話題の井上和郎「あいこら」は少年サンデーのラブコメ、2005~2008年に掲載(少年サンデーコミックス, 全12巻)。だが『ラブコメ』というにもけっこうストレンジな作品で、そのヒーローの≪ハチベエ君≫は、『1人の女の子』に恋をするというような、まともな少年ではない。
では、おなじみの≪あたる君≫のようにハーレムを建設したいのかって、それともまた異なる。われらのハチベエ君は『パーツフェチ』なんだそうで、女性の体の部分部分(パーツ)のフォルムに対して、異様なる固~いこだわりを持っているのだ。
ゆえに彼は、その理想のパーツの持ち主らに接近していくのだが、もちろんそれは、ふつうの恋愛活動ではない。そのいわく、

 『何がハートだ!!
 そんなもん1ミリも 求めちゃいねえ!!
 パーツこそがすべて!!
 パーツこそが正義!!』(第7巻, p.16)

…とはまた、何ともやばいヒーローがいてくれたものだ。『女体に興味があって、女性のハートには1ミリも興味がない』とは、ふつう(はっきりとは)言えないことで。

そういえば現在のサンデーには、若木民喜「神のみぞ知るセカイ」というラブコメが載っている(はずだ)。そんなに読んでないけれど、これはギャルゲー(恋愛シミュレーションゲーム)の達人で≪神≫とまで呼ばれる少年≪桂馬くん≫が、現実の恋愛にはまったく興味がないという、それとなくも同工異曲な作品になっている。女性そのものではなくして≪女性っぽい記号≫を、彼らは追い求める。
そしてハチベエ君にしろ桂馬くんにしろ、びみょうにもちょっとカッコいいと思えるのは、どちらもエゴイストのニヒリストではありながら、しかし異性に対して甘えようというこんたんがない、そこに多少のヒーローっぽさがある感じ。

ところでなんだが、関連記事において筆者は、フェチ満載の西川魯介センセのお作品について、こんなことを書いていた。
『はいぼく氏の論調だと西川作品は、フェティシズム(萌え)を超越して崇高なる愛にいたるようなものだという感じだが、しかし筆者にはそうは見えていない。
フェチ(萌え)もあるなら愛もある、と、そこでは2つのものの並置がなされているにすぎない。ところが西川作品のその点にこそ、一片のささやかな“うそじゃなさ”が存在するのだ』

これを見てから「あいこら」の話に戻ると、全編のど真ん中くらいでハチベエ君は、彼の追い求めるステキパーツの持ち主の1人≪天幕桜子≫との、わりとまともなラブに堕ちてしまう。そしてこんどは、『心(ハート)を大切にしない 者に、真の愛は 生まれない!!』(同書, p.51)などと言い出しやがる。
この事態を重く見たハチベエ君のフェチ仲間らは、彼がたまらないようなパーツを彼に見せつけて、ハチベエ君の『パーツ愛』をよみがえらせようとする。じっさいふつうの恋愛に堕ちたからといってハチベエ君は、パーツに対する執着心を失ったわけではないのだった。そこで彼は、『天幕への愛』と『パーツへの愛』との間でジレンマに苦しんでみせる。

と、そこへ、彼たちの学校のOBでフェチ道の導師みたいな≪油坂先輩≫が現れ、ハチベエ君に、『フェチの偉大なる先人達の言葉を授けよう』、と言うのだった。そしていわく(すっごく大きな文字で)、

 『フェチは、別腹だ!!』(同書, p.56)

いさいははぶくが、要はそのことばに説得されてハチベエ君は、『恋もフェチも全力投球!! 完全燃焼だぜ!!』と声高らかに叫び、今後もフェチ追求はやめないゾ…との意思を固めてしまうのだった。
そこまで読んで『はあ…』とため息をついて、このシリーズの第8巻以降は、いまだ見ていない。にしてもずいぶん正直なことが、描かれた作品だとは思える。

フロイト「性欲論3編」(1905)にも書いてあることだが、倒錯者という方々は一般に、その人格や生活がまるっきりおかしいわけではない。『通常は正常にふるまいながら、性生活の領域だけにおいては、あらゆる欲動の中でももっとも制御しがたい性欲動に支配され、病的な行動をする人がいるという事実』(フロイト「エロス論集」, ちくま学芸文庫, p.70)。
かつ、フロイト様の言われたこととは少し異なるのだが、かの名高き淫楽殺人者のペーター・キュルテン(1883-1932)にしたって、暴力なしのふつうっぽい性交などはいっこうに愉しめなかった、ということはないらしい。それがまた、やはり『別腹』であったらしい。

と、フロイト様は、『全般的にはわりとまともそうな人間が、性的行動において異常』ということを言われており。また観察は、1人の人間が性的に、ノーマルっぽい行動と異常きわまる行動の両方を(自発的に)こなす、という事実を示している。

この観察事実をふりかざして、『恋もフェチも』、あるいは『パンツも中身も』、さもなくば『2次元も3次元も』、あわせて追求するという態度が、ありえなくもなかろうが。しかしそれをことばではっきり言ってしまうことは、『フェチの求道者』や『ギャルゲーの神』を自称するよりも、なぜかよっぽどできにくいことだ。
つまり現実には知らないけれど、ネット上には『3次元ごとき(の女性ら、そのイメージ)には興味がない』を言い張っている方々が、少なからずおられるもよう。これを言い張ることが、単に生身の女性に縁がないというよりは、まだしもかっこいいらしい。
それに対して『3次元もよくね?』などという言説を返したら、『不純!』と断じられて終わるような気がしてならぬ。『2次元にしか興味がない』は、後ろ向きにしても一種のカッコつけだ。

だから『フェチは別腹』という主張は、分かりきっておりつつ認識したくないことが言われている、と考えられてもくる。言い換えて、2次元でばかりあれしている方々は『別腹』ばかりを満たしておられる、甘味ばかりを召し上がっている、ということにもなりつつ。

また。ここにおいて、一部のメガネフェチの聖典かとも言われるラブコメ、魯介センセの初期作品「屈折リーベ」(1996)を参照すれば。そのヒーローたるフェチ野郎くんは、ヒロインのメガネっ娘から『そんなに 眼鏡でなきゃ 駄目なのか!?』と迫られて、何か考えた末に『メガネでなきゃダメだッ!!』と、大断言する。それを聞いて呆れかえったヒロインは、自分のかけていたメガネをフェチ君に渡して、その場を去る。
西川魯介「屈折リーベ」ジェッツ・コミックスと、それきり疎遠になってしまってから、数週間後。何かのはずみでフェチ君は、次のように自分の考えを改めるのだった(「屈折リーベ」ジェッツ・コミックス版, p.168)。

 『「メガネだから 好きになった」 んじゃない!
 好きになった人が 「たまたまメガネだった」だけ なんだ!』

とはまたごりっぱな自己欺瞞もあったもので、そんな『たまたま』がこの世にあるわけはない。われらのフロイト様がいずこかで正しくいわく、『物理の世界に偶然はあろうが、心理の世界に偶然はない』。
ただしこのフェチ君が、単なるメガネ好きからヒロインに執着しているのだ、とも考えない。『中身よりもパンツに興味がある』、というばかりではないような感じだ。そのようにどっちつかずな自分の心理を、このフェチ君はことばで表せない。

そしてこのことを「あいこら」以降のわれわれの見地から言い直せば、すなわち『フェチは別腹』、『恋もフェチも』、というわけなのだが。または筆者がかって書いた、『フェチもあるなら愛もある』、という並置並存の状態なわけだが。
しかし「屈折リーベ」のヒーローのフェチ君は『恋もフェチも』、という考えには、思いいたらない。それがなぜなのか『分かりきっておりつつ認識したくないこと』なので、その想念は無意識へと抑圧されている。そして気分だけ、フェチをびみょうに卒業したつもりになっているらしい。

そういえば「あいこら」作中で油坂先輩は、『フェチは死ぬまで治らない』、みたいなことを言う。そして恋愛はフェチ心をいったん抑圧するけれど、しかしけっきょくは抑圧しきれないものなのだとか。
と言われた通り、恋愛を自覚した「屈折リーベ」のフェチ君にしたって、お話のさいごでフェチが治っているわけではない。そこらがまあ、その作品の有する『一片のささやかな“うそじゃなさ”』かなあ、と考えつつ。

かつまた。うろおぼえだが、ジャック・ラカン様がセミネールのどこかでいわく、『精神分析の実践は、人間の中にどうしようもなく存在する≪法(オキテ)≫、ということを教える』、とか何とか。そうしてフェチ君らやギャルゲーマニアらといえども、自分でかってに作ったオキテをかってに守ることによって、そのかってな世界の中で自分を『ピュア』であり『イノセント(無垢, 無罪)』だ、と考えたいのだ。
さらには、世間から見ての犯罪者といえども、自分を悪いと考えている人間はめったにいない。ねずみ小僧が≪義賊≫だという話に対抗して、いかなる泥棒も1人の貧民(自分)を救っている、とは言える。これはラカン様のみ教えを、逆に見て言われることだ。つまり、いかなるド悪人も精神的に破綻していない限りは、何らかの彼なりのかってな≪法(オキテ)≫を守っているので、その世界の中で自分を無罪だ、と考えているのだ。

で、「屈折リーベ」のヒーローのような自覚あるフェチ野郎にとって、『恋もフェチも』を『言う』ということは、彼なりの守るべきオキテから踏み出してしまうこと、らしいのだった。かつ、われわれの卑近な観察からも、『2次元も3次元も』を言うことは、何となくカッコ悪いのだった。
『女性っぽい記号には興味がある、女性には興味がない』。これがふつうは言えないことなのに、それよりもさらに言いにくいことがあるのだ。で、『恋もフェチも』あわせて追求したい、というカッコつけ以前のホンネを言わないことによって、その独りがってな≪法(オキテ)≫を守ることによって、フェチ君たちはその≪自我≫をいつくしみ守っているらしいのだった。

そうしてだ。『フェチは別腹』、『恋もフェチも』、というたいへん言いにくいこと、その外傷的な認識を、はっきり描いてくれている、この「あいこら」という作品。それを、少なくとも1つの大したしろものだとは考えながら、この堕文はここらでいったん終わる。

2010/04/21

山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - こんな≪女≫で、よかったら?

山上たつひこ「喜劇新思想大系」講談社+α文庫版・上巻, 1997 
参考リンク:Wikipedia「喜劇新思想大系」

ご存じのことかとは思うのだが、以下で話題の作品「喜劇新思想大系」(1972)の内容は、まったくもって激烈にはしたないしろものに他ならない。なので皆さま方におかれては、以下を見ても過剰にはびっくりなされないよう、あらかじめお願いしつつ。

さてこの「喜劇新思想大系」は、何度も何度も再刊されている≪ギャグまんが≫史上の大傑作だが、筆者においては秋田漫画文庫版(1976)の印象が強い。というか、通読したことがあるのはその版だけだ。で、その全6巻を一時は持っていたのだが、なぜか近ごろ見つからない(歴代の刊本については、次のリンク先をご参照。[*], [*])。
というところで地元の図書館に、講談社+α文庫版(上下巻, 1997)の収蔵を発見したので、それで久々に今作を再読したのだった。するとこの版についての印象があまりよくないが、しかしそんな書誌的な細事はおいといて。

こんどの再読で筆者の印象に残ったのは、次のことだ。今シリーズ中に、おなじみのヒーロー≪逆向春助くん≫が女装するエピソードが、2つある。するとその両方のお話で、女装した春助くんは、別にゲイでもない男性たちから、異様に好かれてしまう。
もっとはっきり言うと、彼たちの劣情を強力に刺激してしまう。それはもちろん≪ギャグ≫ではあるが、なぜかこのことに、ふかしぎかつ異様なる説得力があるなあ…と、このたび自分は感じたのだった。
なお、ご存じの方も多いだろうけど、われらが春助くんの面相は、あいきょうのあるおサル顔。きょくたんなブ男とわざとらしいハンサムしか出てこない今作の男子らの中では、わりかしニュートラルな見かけだとは言える。が、そうとはしても、別に女性と見まごうようなツラつきはしていない、と、おことわりした上で。

さて具体的に申して、春助くんの女装エピソードが出ているのは、この刊本の上巻に収録の2編。『町内素人名人会』(p.247)と、『お見合い大百科』(p.385)だ。
まず『町内』で春助くんは、横丁の仲間たちに誘われて、素人芝居のヒロイン役を演じる。劇の演目は、エロ小説家の≪筒彦≫が脚本を書いた、『“世紀の対決”慢性欲情男と先天性淫乱パクパク女』という、題名からしてまったくどうしようもないしろものだ。そして先天性何とか女の春助くんに対抗して、おかまの≪亀丸師匠≫が欲情男を演じるのが、また面白いところでありつつ。
その一方の『お見合い』で春助くんは、彼が思いをかけている少女≪めぐみ≫のお見合いをブチ壊すべく、本人の代わりに自分が女装してその席に出る。そこでとんでもなく粗暴でおバカで品のない女性を演じて、相手を撃退しようとする。

そうしてそれらのお話が、どう運ぶかというと…。

まず『町内』で春助くんは、さいしょはいやがっていたくせに超ノリノリで、その下劣きわまるお芝居に入っていく。そしてチン妙な女装姿で舞台セットの上で、『ああ…… ほてるわ 体が うずく……』などと言ってるところへ、何かの拍子に、警官に護送されている最中の婦女暴行魔が、会場に入ってくる。
するとその暴行魔は、春助くんの演じる団地妻のわざとらしい媚態と嬌態を見て、『イ… 色ッペエ~ フーッ!フーッ!』と、激しく興奮してしまう。それで警官の制止をものすごい力でふりきって舞台に上がり、そして春助くんを間近で見ながら『女…… いー女』とつぶやき、その次の瞬間には『犯す!』と叫んで跳びかかり、何かしようとするのだった。
そこで舞台監督の筒彦はあわてるけれど、ほとんどの人々はその展開を面白がって、事態を止めようとはしない。たまりかねた春助くんは、ステージ近くで見ていた艶っぽい未亡人≪志麻≫を暴行魔に示して、『(自分は)女と ちがうっ これが本当の 女ですよ』と言いながら、志麻を犠牲にして彼のなんぎを逃れようとする(!)。
だがそんな鬼畜の保身行動もむなしく、暴行魔は志麻には目もくれず、春助くんをかっさらって逃走。そして山中の隠れ家で彼は、あくまでも春助くんを女性と信じつつ、何かを試み続けるのだった。

その一方の『お見合い』で春助くんは、これもまたチン妙なドレスとカツラ姿でお見合い会場に出現。しかもメイクがへんに濃いので、春助くん本人から見ても『まるで 終戦直後の パンパンでは ないか』というありさま。そして、あまりに粗暴すぎなので高校をダブって在学5年目、特技はバーベルとジャーク、さらに『ご趣味は?』と聞かれての答に、『はい オナニーを 少々…』等々とふざけたことを、見合い相手の男性に吹きまくる。
ところがよく見ると相手の反応が、さいしょはすなおにドン引きしていたものが、『オナニー 俗に言う マス ですわね』という春助くん(が演じるめぐみ)のせりふが出たあたりから、びみょうにも喰いつき始めている(!)。それから2人が庭園に散歩に出ると、『めぐみ さんなら (和装よりも)ウエディング ドレスの 方が 似あう かな?』などと彼はぬかしやがり、そして春助くんの体に手を廻してくる。何とこの男はすっかり、目の前の≪女≫と結婚したい気まんまんになっているのだ(!!)。
と、計算が大ちがいになったので春助くんは大あわて。父親役の筒彦をからめて、もう1つお芝居を打ち、その粗暴さと非常識さを魅せつけてみるが、しかし男はいっこうに引かない。それどころか嬉々として、『あとは 結婚式の 日どりを 決めるだけ ですねっ』などと、とんでもないことを言い出す(!)。
そこで最後の手段として春助くんは、その場で服を脱いで全裸を男に見せる。そして『この通り…… 私は 女として 生まれながら 体は男……(中略)とても あなたの お嫁に なんか なれませんわ』と、わけの分からぬことを言って、ついに男をあきらめさせる。と、それでうまく行ったかと思ったら、その1ヶ月後に男が性転換して女性になって春助くんを訪れ、再び結婚を申し込んでくるのだった。

という2つの女装エピソードを見て、大いに笑った後でちょっと考えてみれば。そうこうとすると、男という連中は『実は』、作中で春助くんの演じているような≪女≫こそを、ほんとうは好んでいるのでは?…という気がしてくるのだった。
春助くんによる2つのお芝居は、『男たちが本当に求めている≪女≫』の姿というものを、うかつにもそれぞれの場へ現前させてしまっているのだ。それはわれらのジャック・ラカン様が、『≪女≫は、存在しない』という超メイ言によって記述しているところの≪女≫でもあろうかと。つまり男らがかってに求めている≪女≫は実在しないものだが、しかしわれらの『女装春助くん』は、そのイメージの一片としてのリアリティをそれぞれの場で実現しちゃっているのだ。

また、別のところから言えば。エロ小説家を本業とする筒彦が、『先天性淫乱パクパク女』などというしろものを彼のお芝居のヒロインにしたことは、べつに観客への(意識的な)イヤがらせではなさげ。そうして彼の制作のねらいは、少なくとも1人の観客に対しては、超ジャストミートしているのだ。
かつ、まったく関係ないものを結びつけているようでもあるが、かの高橋留美子「らんま 1/2」(1987)について、粗暴でありつつしみのない≪女らんま(その実体は男子)≫というキャラクターが、作品の内外でやたらな人気を呼んだ。このことをも、あわせて考えてみるとよろしいかも。

かくて今作における『女装春助くんの大好評(?)』という描写は、意外性の演出でもありつつ、しかしまったくとっぴなことが描かれているのではない。そして読者はそれへと≪共感≫しながら、しかしその≪共感≫を拒み、それを無意識へと沈める。その間の心的エネルギーの大きな動きが、『笑い』という肉体の運動によって消費される。
かつ、かくてわれらが呼ぶところの≪ギャグまんが≫は、それによって笑うものたちに対してのパーソナルで外傷的な≪真理≫を返している。『真理:≪女≫は、存在しない』。ところがノーマルな読み手たちはその≪真理≫を受けとって無意識へとスルーするのであり、そしてそれでよい。『受けとってスルーする』ということと、『受けとらない』ということとは、けっしてイコールではない。

さらに、もう少し話を続けよう。ご紹介した2つのエピソード、『町内素人名人会』と『お見合い大百科』。この2編それぞれの冒頭にて、本すじにはちょくせつ結びついていない感じのプロローグが、わりと長めに展開されている。それらについて、別になくてもいいようなもの、あるいはページ数合わせ、などとも考えられないことはないが、しかしよくよく見てみると。

まず『町内』のプロローグで春助くんは、自分で自分のペニスをしゃぶることのできる『尺八ザル』というものの存在を本で読み、『こんな マネが 出来る わけは ない!』といったん言いながら、そしていそいそと、その行為にチャレンジし始める(!)。しかしぜんぜんできないので体を柔らかくしようと考え、一升ビンから『ぐび ぐび ぐび~っ』と、勢いよくお酢を呑む。
そこへ彼の悪友らが部屋に入ってきて、『酢なんか 飲んで どーする つもりなんだ』と聞くので、われらのヒーローは『きまっとる じゃないか 体をやわらか くしてな…』と言いながら、自分のものを自分の口でどうにかしようと、再びトライし始める。そして彼が状況に気づいて、『わっ わー!』と叫んで自分の股間を隠すのは、そのだいぶ後の瞬間なのだった。

その一方の『お見合い』のプロローグで春助くんは、夜の街角で、女性の下半身が無修正で映っている感じのわいせつ写真、それを売るというバイトに精を出している。ところがそれは、『実は おれの下半身の 写真なのだ』と、彼はモノローグで白状する(!)。何とそれらは、春助くんが足腰まわりのムダ毛を剃った上で、自分のものを股ぐらにかくしたところを映した写真なのだった。

と、見てくると。すでに文脈から皆さまにも読めているように、これら2つのエピソードは、それぞれの後に描かれている『女装春助くん、その大好評(?)』というイベントを、間接的に予告するものになっていることが分かってくる。
『尺八ザル』をまねすることによって春助くんは、自分の中から、大悦びでペニスをしゃぶる≪女≫を呼び出している。偽エロ写真を作ることでも彼は、彼の中から、男性たちの好む≪女≫の幻想(イメージ)を呼び出している。だからこれらの小ネタが、それぞれに続いたエピソードへと発展することには、あからさまではなくも必然性が『ある』のだ。

とま。筆者がいつも申し上げるように、人を笑わせうる≪ナンセンス≫は、決して単なるナンセンスでは『ない』ということ。そしてけっこう無手勝流チックに構成されていそうな今作について、見えにくい巧みな構成が実は存在していること。この2つを上記によってみごと立証できたところで、いったんこの堕文は終わる。もちろん今作こと「喜劇新思想大系」については、今後も随時その大傑作たるゆえんを見ていくだろう。

【付記】 まったくもってよけいなことを申すのだけど、エピソード『お見合い大百科』のさいごのオチ(性転換)はあまりにも『まんが的』、というか作りごとすぎて、筆者はあんまり好きじゃない。いまでいう『トランスセクシュアリティ』についての分析的な見方が存在するので、そこをちゃんと勉強しなおすと、それが『作りごとにすぎる』というところを詳述できそうに思いつつ。
(上記にかかわる追記:山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - トランスセクシュアル論へ向け

米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」 - ギャグまんがの起源のなぞ

何度も申し上げて申し訳ないが、われわれの主張の1つとして、『“ギャグまんが第1号”と呼べる作品は、赤塚不二夫「おそ松くん」(1962)である』。どうしてそうなのかというと、それはまず、筆者の尊敬する先パイがそう言ってたからなのだが。
まあそれは皆さまの知らないことなので、おいといて。あわせて、世に出ている資料にも、このようにある。

 ――― 米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981), 『はじめに』より ―――
『基本的には、ギャグマンガの始まりを赤塚不二夫あたりにすることにする。それまでのマンガにおいて「ギャグマンガ」という概念はたぶん存在しなかったと思われるからだ(中略)。意識的に「ギャグ」を優先させる方法論が持ち込まれた時に、「ギャグマンガ」は生まれさせられたに違いあるまい』(ちくま文庫版, p.18)

生まれ『させられた』、という言い方に味わうべきものがある。ところで近ごろ、これに並行するような主張を、別のところで見つけた。

 ――― 呉智英『ギャグの未開地を拓く』(1999)より ―――
『現在「ギャグマンガ」の名で総称される作品は、一九五〇年代までは「ユーモアマンガ」とか「ゆかいマンガ」と呼ばれていた。簡単に言えば、落語をそのままコマ割りしたようなマンガで、とぼけた主人公が滑稽な行動をし、最後にオチがある、といったものである。
これが大きく変わったのは、赤塚不二夫の登場からであった。赤塚の「おそ松くん」「天才バカボン」は、それまでのユーモアマンガの概念を打ち破るものであった。旧来のマンガの笑いがオチに向かって収斂されてゆくのに対し、赤塚の笑いは全体の流れとは無関係に冒頭だろうと途中だろうと爆発した』(楳図かずお「まことちゃん」小学館文庫版・第1巻『解説』, p.358。改行は引用者)

つまりそういうことだ、と申してすましたいのだが。ところが、質的な意味での≪ギャグまんが≫の起源はそうだとして、しかしその一方、『“ギャグまんが”ということばがいつからあるのか』を伝えている資料が、いまだ見つからない。
「戦後ギャグマンガ史」の伝えるところによると、「おそ松くん」の誕生と同じ1962年に出た「ぼくらの入門百科・マンガのかきかた」(冒険王編集部・秋田書店)という本に、すでに『ギャグまんがの描き方』が説かれているらしい(p.144)。対向ページのそこからの図版を見ると、当時の代表的な『ギャグマンガの主人公たち』は、「ナマちゃん」(赤塚不二夫)・「ポテトくん」(板井レンタロー)・「わんぱくター坊」(ムロタニ・ツネ象)・「ナガシマくん」(わち・さんぺい)・「ロボット三等兵」(前谷惟光)・「よたろうくん」(山根赤鬼)、等々々。
で、いま名前が出たような作品たちをこんにちのわれわれは、≪ギャグまんが≫以前のもの、と考えたいわけだ。ところがそれらは発表当時、りっぱな『ギャグまんが』の作例だ、と考えられていたらしいのだ。

ちなみに『ナンセンスまんが』ということばの方がよっぽど古いもので、戦前の「ノンキナトウサン」や「フクちゃん」らが、そのように呼ばれていたのだとか(米沢, 前掲書, p.27)。ゆえに、かの「サザエさん」も、そうした『ナンセンスまんが』の流れにそった作品ということになる。
だが現在のわれわれの感じ方だと、≪ナンセンス≫とは、もうちょっとどぎついものになるのではなかろうか。…と、それは余談だが。

ところで「戦後ギャグマンガ史」の論じ方は、するどく狭い意味での≪ギャグまんが≫を定義していく方向には、あまり向かっていない。『笑いを主眼として送り出されてきたものをとりあえずギャグマンガとして扱ってみた』…とは、その書の巻末付録の『戦後ギャグマンガ史年表』へのただし書きだ(p.321)。
そのように同書においては、まず『笑いを主眼とした作品』が『とりあえず』、『ギャグまんが』として扱われている。がしかし、コアな≪ギャグまんが≫の起源が「おそ松くん」なのだ、と言われているように、いちおう読んでおける。そこらをわりとあいまいにしているのが、同書の記述のにくいところだ…と考えながら。

つまり『ギャグまんが』という用語は「おそ松くん」のために生まれたのではないのだが、しかしそのように考えておこう的な≪操作≫が、ここらでなされている気配。そして筆者もその行き方には賛成するのだけど、しかしこの≪操作≫の存在を忘れてはならんように思う。
かつ、われわれがコアな≪ギャグまんが≫(“外傷”的な笑いをクリエートしている作品)を定義しえたからといって、広義の『ギャグまんが』を完全には排除できない、峻別しえない、ということは、以前に申し上げた通り。と、ここまでまったく面白くない議論だったように思うが(涙)、しかしこういうことも認識しておく必要があるかなあ…と、筆者は思い込んだのだった。

2010/04/12

荻野真「孔雀王」 - 貪瞋癡による身語意より生ずる所なり

「孔雀王」YJC版 第1巻 
参考リンク:Wikipedia「孔雀王」

4月11日・日曜日、親類の法事というつまらない用事で、鐘ヶ淵あたりまで出かけた。すると行った先のお寺が真言宗だったので、その祭事の進行に異色があったことには、家族一同で少々びっくりしたのだった。

異色というのは要するに、密教色があったということ。『では』と言っていきなりお経を詠み始めるようなものでなく、まずその前に取っ手つきの香炉をあっちからこっちに移動することをはじめに、坊さまが黙ったまんまでいろいろな儀式を執行するのだ。
うまくは説明できないが、金剛杵と金属の数珠をすりあわせて『しゃらら~ん』と、ウィンドチャイムのような音を出すとか。さらには祭壇に向かって『ぐっぐっぐぐっ』と印を結んでいるのだが、しかしその両手をふくさで隠して行っているので、予備知識なくば何がなんだかわからないところだ。

で、それに続いての読経を、参列者も参加で行わせるというというのは、このお寺さんの宗派の独自のところかもしれない。『○○山勤行式』と書かれたパンフをあらかじめいただいており、見ながらそれを詠めばいいんだけど。

 『懺悔の文(さんげのもん)
 我昔より造る所の 諸々の悪業は 皆無始の貪瞋癡による身語意より生ずる所なり
 一切 我 今 懺悔したてまつる』

これはちょっと、ジャック・ラカンちっくなことが言われているな…とは誰でも思うようなところだ。特に、『無始の』とことわっている点にハッとさせられる。がしかし、似ているからといって同じに機能するのではないとあれば、さして意味がない。
『ラカン-と-密教』なんて切り口は、むかしもそうだがいまはいよいよ流行らない。と、そんなことを考えていたら、坊さんが真鍮のシンバルのようなものを『じゃーん、じゃじゃじゃーん、じゃじゃらーん』…と長く鳴らすことで、式次第は一段落したのだった。

 『光明真言
 おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら
 まに はんどま じんぱら はらはりたやうん』

という勤行式、約45分間。とま、そんなことがあって、≪金剛杵≫なんてアイテムをナマで見ることになるとは、ちょっとびっくり。そこで筆者がまんがっ子として思い出した作品が、密教バトルサスペンスの決定版こと荻野真「孔雀王」(1985)なのだったが。

そうしてこの「孔雀王」関連のシリーズが、現在にいたるも進行中なんだと思うけど。で、筆者的なその注目点は、ヒーローの≪孔雀クン≫がいまだに童貞らしい、という事実。
確かそのはず。かれこれ25年間も青年まんがの主人公をやっていて、孔雀クンてば、いまだ童貞。そのヒロインの少女≪阿修羅≫と、結ばれそうでぜんぜん結ばれない。
この2人はひじょうに好感がもてるキャラクターなので、きっと結末では幸せになってほしいなあ…などと筆者もふつうに思うけれど、しかしそういうものでもないかもしれない。さいご世界を救うために、この2人(のいずれか)が犠牲になるような、そんな結び方も考えられる。

でまあ気がつくことは、「孔雀王」シリーズが人間らのドロドロの欲望の闇を描くもの、『貪瞋癡による身語意』を描くものとしてスタートし、そしてバトル展開に転じてからもそのトーンは変わらないんだけど、しかしそのヒロインとヒーローの清潔さはキープされたままだ。
しかもその清潔さは、俗世間のPTA的な道徳を『逆に』転覆しているような激しいストイシズムによっており、そこが異様にカッコいい。筆者が孔雀クンにパンクロックを感じるのは、そういうところだ。現状ではシリーズの状況が不透明であるようなんだけど、いまだある種の期待をさせてくれるシリーズかと感じている。

2010/04/11

夢みがちなボクら!

Ministry“Psalm 69”1995お知らせさせていただきます。この場に出ているものらより、もっともっとゴミっぽい堕文の置き場所を設置しました。

 ≪Icey Dreams≫

そっちでは、内容よりもブログとしての見え方を研究中ですので、ここと比較し、ぜひコメントか何かでご意見をおよせください!

2010/04/09

安部真弘「侵略!イカ娘」 - 襲撃! メドゥーサっぽくもある娘

「侵略!イカ娘」第4巻 
関連記事:安部真弘「侵略!イカ娘」 - こんなのもアニメ化スルメイカ!

関連記事を書いちゃった後から、手元の「イカ娘」単行本をひととおり読み返してみた。そうしたら自分の記憶よりも意外と面白かったので、そこでひとつのエピソードをご紹介。

海中で育ったようなことを言っているイカ娘が、地上や人間界のあれこれを見て驚く、というお話のパターンがある。そしてある日イカ娘は、『手品』というものの存在を知ってびっくりする(第4巻, 第68話『手品しなイカ?』)。

 『私も何か覚えて 人を ビックリさせたいでゲソ!』
 『初見の人は お前が 出ただけでビックリ できると思うぞ』

ツッコミ体質の次女がツッコんできても気にせずにイカ娘は研究を重ね、そして彼女の個性を活かした常人にできない奇術のレパートリーを開発、そうして海の家でショータイムに及ぶ。さてこの演目が、説明しづらいんだけど何とか字に書けば…。

まずはテーブルの上に、イカ娘の10本の触手を並べる。次にその場の客2人に、その触手の1本ずつをしっかりと握らせる。そうすると、よりによって、イカ娘に異常な執着を示しているストーカー痴女2匹が、その役を買って出る。
次にイカ娘らは、テーブルにシートをかぶせ、本体と触手の先っぽとの間を隠す。それから『3・2・1』のカウントでイカ娘は、触手をつかまれたままで、『ぴょんっ』とテーブルから離れ、捕われの状況からの脱出に成功する。
そこで2匹の変態痴女らはびっくりし、『じゃあ私たちのつかんでる ものは……』と言って手元を調べる。すると彼女らは、1本の触手の両方のはしっこをつかんでいるのだった。それはイカ娘本体にはつながっておらず、両方が先っぽの形状になっている。

かくてマジックショーは成功し、会場の海の家は拍手かっさいにわく。いつもズッコケを演じがちなイカ娘も、今回ばかりはごきげんで、『(奇術のタネは)極秘でゲソ』ととくい顔。
そうしてまた、なぞの触手を手に入れた2匹の痴女もまた悦んで、『…半分こ しよっか…』と、嬉しそうにほほをそめながら、その戦利品の分配にかかる。そこへと次女の、『気持ち悪いよ お前ら』というツッコミが入るのだった。

というエピソードをちょっと分析すると、まずは怪しさのきわまった新触手の出現という、≪不条理≫の要素がある。あと前記事で言い忘れたが、われらのイカ娘は誰がどう見ても≪メドゥーサ≫の一族なので、それへの関連記事もご参照(≪*1≫, ≪*2≫)。かつここでわれわれは、『(メドゥーサを見た者が)石のように硬くなるということは、勃起を示している』というフロイトの分析を思い出しとく必要もある。
で、婉曲に言うのがめんどうなのではっきり申すと、エピソードのさいごで痴女2匹は、双頭のディルドーに似たものを手に入れて大悦びしている、とは言える。あたりまえだがイカ娘の触手は、さいしょから誰がどう見ても≪ファルスのシニフィアン=勃起したペニスを象徴するもの≫、ではある。しかも≪去勢のシニフィアン≫でもあるわけで、彼女は人類を去勢するために登場しながら、まいど自分が去勢されてしまう。

ただ、そういうドロドロしたところとはまた別に、このお話が好ましいのは、痴女らに狙われているイカ娘がみごと脱出に成功する、その身の軽やかさがわれわれを歓ばせるからだ。それこれによって、このエピソードは、痴女とあるところをただの人に換えてしまったら、いっこうに面白くない(というか成り立たない)はずだ。
かくて≪不条理≫なるシニフィアンの現出は、とうぜんのように(?)性的な意味作用をそこにあらわす。ところがだ、そうやってある種の人間らはイカ娘を性的な記号のように見つつ、そこに≪享楽≫を求めつつ、しかし一方のイカ娘本人には、まったくもって性愛的な感情が『ない』らしい。
何しろ人間では『ない』だけに、なのだろうか? …ここらが面白いところだ。あわや変態性欲のいけにえになりそうな場面で、彼女は軽~く≪不条理≫を提示しつつ、その身をかわす。

そういえば、われらのイカ娘に絵を描かせたらどうなるか、というエピソードがあり(第4巻, 第75話『描かなイカ?』)。それが手で描くと幼稚園児よりもへたくそなのだが、しかし触手で描くと異様にうまい(!)。しかもどうやら『無意識のイメージ』を描いているふしがあり、彼女のにがてな人物を描くと、わざとじゃないのに化け物の絵になってしまう。
それではそのようなイカ娘の、自画像はどのような絵になるか? これが恐ろしくて、彼女は海面に頭だけ浮上した巨大な海ボウズであり、そして真ん丸な目玉をうつろに見開きながら、ボート遊び中のカップルを襲撃している(!)。

で、その絵図の中で怪物のイカ娘は、ボート上の女性は放置して男性を触手でつかみ上げ、気の毒な2人を引き裂くようなまねに及んでいる(p.154)。これは、イカ娘といえども男性への欲望があるとみるべきなのか、それとも彼女は、人間らの性愛ということ全般を否定したいのか?
そしていまは、そのどちらという判断を保留しつつ。そして『こういうシャープな≪不条理ギャグ≫が、もっとバンバン出ている作品だったら、もっとよいのに!』…という筆者の希望だけかってに申し上げて、この堕文をいったん終わる。

2010/04/08

安部真弘「侵略!イカ娘」 - こんなのもアニメ化スルメイカ!

「侵略!イカ娘」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「侵略!イカ娘」, 「侵略!イカ娘」アニメ公式

2007年から少年チャンピオン掲載中、海の底からやってきたらしいなぞの少女≪イカ娘≫が、人類を支配しようとして逆に迫害をこうむる的な、ショート形式の『地上侵略コメディ』(少年チャンピオン・コミックス, 刊行中)。これについてはいずれ取り上げようと思っていたけれど、さっき今作が『アニメ化(詳細未定)』というびっくりニュースを聞いたので、とりあえず書き始めてみた。
なにが『びっくりニュース』かって、特に売れているものでも話題作でもなく、しかもこんなチン妙な作品がアニメになるなんて、まったく予想もつかなかったので。めでたいっぽいニュースの後にひどいことを述べるようだが、単行本の第2巻が出たころから、むしろ『風前の灯火』的な印象をうけていた。
というのも今作の示している、『コンセプト』…? つかその『内容』、その創作の骨子的なもの…? そういうものらの提示は第1巻でほぼ完了しており、現在までにその後の発展があまり、あるような気がしていない。

ただしそのスタートダッシュのところが面白かったとは、大いに申しておかねばならないだろう。ある夏の日、海の底から盛況の海水浴場に上陸してきた少女が1軒の海の家に押し入って、『この家を… 人類侵略の拠点に させていただくで ゲソ!!』と、とんでもないことを言い出す。
そのなぞの少女≪イカ娘≫には、固有の名前はないらしい。そしてイカ娘というだけに、イカっぽい帽子をかぶっており、髪の毛っぽい部分が10本の触手になっており。そして衣類も含めて全体の色調が水色と白の2トーンなのは、さわやかっぽくも見えながら。

で、いちばんすごいと思ったのは、この女の子が何かの拍子で、口からスミを吐く。目の前の敵っぽい相手に向けて、『ドパッ』と真っ黒いスミを吐く。くしゃみをしたはずみでも、それが出る。そこで『なんてもん 出してんだよ!!』と突っ込まれると彼女は、『イカスミ吹いた だけじゃなイカ』と、イカ語なまりですましている(第1巻, p.19)。
さらに、それに目をつけた海の家の経営者は、イカ娘のスミを使ったスパゲティを店のメニューにする(!)。人類とケンカをしても勝てないイカ娘は逆らえなくて、言われたとおりにスパゲティの皿に向けて、『でろ~』と口からスミを吐く。それが『全然おいしい』という評判をかちとるのだが(同, p.23)、しかしその工程がきもち悪すぎる。

これがまさしく、≪外傷的ギャグ≫に他ならない。いつも同じことばっかり申しててすまないが、『オーガズムを婉曲に描くもの』としての≪ギャグ≫が、またここにもある。
かつ、別に作者の制作意図なんて知ったこっちゃないけれど、この本の第1巻の『あとがき』にも書いてある。『(前略)女の子が突然スミを吐いたら面白いなと思い、このキャラクターが出来上がりました』(p.163)。そしてうかつにも、その『面白いなと』思う思い方が、筆者にも共有できてしまっている。

で、言うまでもなく、その面白さは≪不条理ギャグ≫の面白さであり、それはいいが。けれども今作のその後の展開は、それに続いて不条理なギャグらをドパドパと繰り出すようなものには、なっていない。むしろ「オバケのQ太郎」みたいな(?)、珍しい居候のいる日常を描く、ゆる~いコメディになっている。そこが、筆者の期待をうらぎってくれているポイントではありつつ。
ただし、イカ娘がいぜんとして正体不明なので、かつまた地上侵略をあきらめてはいないというところで、今作にはいまだ≪不条理≫の要素があるにはある。で、そこらから再びの発展があることに期待はしつつ。

ところでなんだがギャグまんがの世界に、≪イカ≫というモチーフの系譜が存在する感じ。その元祖というのは特に知らないけれど、りぼんの4コマ作品の森ゆきえ「めだかの学校」(1996)のヒーローの校長先生が、やたらとイカ(スルメ)を好き…というあたりから気になっていたことで。また、それとほぼ同じ時代の三ツ森あきら「LET'Sぬぷぬぷっ」にも、確か≪イカ男くん≫というイカっぽい少年が、美人家庭教師からHっぽいレッスンを受けるようなエピソードがあり。
かつ、今作「イカ娘」の直前の先行作とも言えそうなのは、アフタヌーン掲載のSABE「世界の孫」(2005)。こちらもまた、学校の先生がイカを死ぬほど大好きというお話。ただしこちらの先生は、その名も≪イカ子≫という若い女性で、女性のくせに『イカ臭い』として評判がよくない。本人の素行もよくない。
そのイカ子先生は脇役なのだが、しかし彼女が大活躍し始めてから、ようやっと「世界の孫」という作品に精彩が出てきている。そして「めだかの学校」の婉曲きわまる性的ニュアンスのほのめかしは、「LET'S」や「世界の孫」においては、ひじょうにあからさまになっている。

かつまた。『近年の少年チャンピオンのギャグまんが』という文脈で、『“萌え”的な感覚をいちおう刺激しておいて、逆に転覆する』という方向性がある。2000年の伯林「しゅーまっは」がその第1弾かと見つつ、やぎさわ景一「ロボこみ」(2004)がそれに続き、広い見方では倉島圭「24のひとみ」(2006)や桜井のりお「みつどもえ」(2006)の方向性も近いもので、そして今作「イカ娘」だ。
「24のひとみ」はそれほど『萌え』でもないが、いずれの作品も『萌えキャラ』っぽいものをいったん出しておきながら、しかし『萌え』という感覚を撥無するところでその≪ギャグ≫を構成している。ところが「イカ娘」に関し、追ってひじょうに≪ギャグ≫が不足、ということは見たばかりだけど。

そうして「イカ娘」という作品について、いま見た2つの系譜というか文脈、『イカ系ギャグ』と『“萌え”おちょくりギャグ』との交わるところに生まれたものだということは、ここいらで言える。
しかし後者の『“萌え”おちょくりギャグ』について、≪ギャグ≫がキレなくなってしまえば、それが単なる萌えまんがに堕すのは見えたこと。かつまた「ロボこみ」のように、『“萌え”をおちょくる』という性格が濃すぎても、ちょっとまずいのかも。筆者はやぎさわ景一「ロボこみ」を崇高きわまる大傑作だとしているが、しかしそんなのはギャグまんがマニアの見方にすぎないらしく、あまり人気のあったような感じがない。

すると「みつどもえ」あたりの路線が、ギャグまんがとしても萌えまんがとしても読めるというところで、いちばんお得なようにも思えてくる。ただし『萌え』にしたって、そんなに計算通りにうけるものではない…ということも憶えてはおきながら。
そしてその「みつどもえ」が現在ブレイクしつつあるわけだが、にしても今作「イカ娘」がそれに続いて、はえある(?)アニメ化という展開は、まったく予測外のびっくりニュースだった。いろいろとおかしなキャラクターが出てくる世の中ではありつつ、まさかわれらのチン妙なるイカ娘にまで、そのチャンスが与えられるなんて。

 ――― 安部真弘「侵略!イカ娘」第1巻, 第13話より ―――
居候先の海の家、その家族と一緒に、テレビのSFパニック映画を見ているイカ娘。宇宙人が地球を侵略しているというその内容に感化され、『自分もこのように!』みたく発奮する。そこへ居候先の次女が、冷静にツッコミを入れる。
『お前のキャラじゃ パニック映画は 無理だ 出れて ファミリーアニメ』
『実写ですら ない!!』(…衝撃に涙ぐむイカ娘)

こんなお話を見ているころには、まさかほんとうにイカ娘が『ファミリーアニメ』に出ることになるなんて、まったく思いもよらなかった。ともあれそうなっちゃったからには、同じ『海産物系』の先行作「サザエさん」をブッ飛ばすくらいの大ブレイクを期待しつつ…ッ!

2010/04/07

種村有菜「桜姫華伝」 - ≪性交≫は、不可避でありかつ不可能

種村有菜「桜姫華伝」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「桜姫華伝」

題名の読み方は、『さくらひめ かでん』。筆者にはたいそうなじみある作家さまが、2009年1月からりぼん掲載中の伝奇ファンタジー。りぼんマスコットコミックス版は、第3巻まで既刊。というわけなんだが、その第1巻だけ読んだところでひとこと。

これはどういうお話かというと、ときは空想的に描かれた平安時代、ヒロインの≪桜姫≫は14歳。天涯孤独の身の上ながら、≪王良親王≫の許婚として、王都近郊のいなかで大切に育てられている。
ところが桜は異様に自立心が強く、よく知りもしない親王との結婚に、まったく乗り気でない。そこへ身分を偽って王良親王が、彼女を嫁取りに迎えに来る。その態度がまた、ちょっと感じ悪い。
思いあまって、桜は家出を敢行する。ところがその逃避行の過程で彼女は、『満月を見る』という禁じられていたことを実行してしまう。すると、今作中で≪妖古≫と呼ばれるドロドロした人喰いの化け物らがとつじょ出現し、桜を襲ってくる。

…ここから少々難解な設定が出ているところで、まず桜の正体は『かぐや姫の孫』。妖古を退治することは、そのかぐや姫の一族が身中から出す秘剣によるしかできない。だから妖古らは桜をねらっており、満月の鏡を媒体として、その居所をさがしていたのだとか。
そうして桜は、おなじみのなつかしい≪神風怪盗ジャンヌ≫のような姿の戦闘モードに変身。おぼつかないながらも秘剣≪血桜≫をふるって、妖古の退治に成功する(第1話・完)。

で、それから王良親王がちょっと態度を変えてきたので、『愛があるなら』いいかなと、結婚に対して前向きになった桜。そして、もうすぐ初夜のお床入り…というところへ、妖古が出現。
それはかんたんに退治したが、けれどその直後、びっくりなことに、王良に率いられた近衛兵らが桜に矢を射かけてくる。どういうことかって、王良が言うには、そもそもかぐや姫の一族と妖古とは同じもの(!)。つまり桜もまた、不老不死の人外なのだとか。
そして王良の父と祖父(先代と先々代の帝)は、月の姫の一族に魅入られたために、妖古に殺されたのだとか。ゆえに王良はその一族には恨みありまくりなので、『ここで死ぬんだ! 桜姫!!』と叫んで彼は弓を引き、その矢は桜の胴体の真ん中をつらぬく(第2話・完)。

その場をなんとか逃げのびて、やがて気がつくと桜は、忍者を名のる少女≪琥珀≫に看病されている。三日三晩、琥珀の家で寝ていたらしい。そして琥珀は王良の配下なのだが、『たぶん』連絡不行き届きのせいで、現在の桜が追われる身だとは知らない『らしい』。
そして桜が自分をチェキすると、彼女の胴体をつらぬいたはずの矢傷が、まったくない。しかも彼女は、琥珀を見ていて『おいしそう……』と、あらぬところに食欲のうずきを感じる。それではやはり、自分は妖古と同じ化け物なのかと桜は、(後略)。

というあたりで、第1巻は終わり。ふとんの中にてそこまでを読んで筆者は、『さすが“有菜っち”、おもしれえことを描いてくるよな』と、つまらぬ感想をつぶやいて寝た。
ところで筆者は、起きているときと寝ているときとで、考えることが異なる。比較すれば、眠りの中での方が、多少はましなことを考えているのでは…と自覚しているのだが。

そして筆者が、読後の眠りの中で考えたことはこうだ。
この「桜姫華伝」というお話の核心は、そのヒロインが≪性交≫を、するかしないか、というところにある。そしていったんは『愛がある(らしい)なら』と言って初夜を迎えようとした桜だが、しかしその初夜は、『男が矢によって女体をつらぬく』という象徴的行為によって代替される。
桜と呼ばれる≪主体≫において、王良との間に『愛がある』ということが確信されていないので、その初夜は代替と延期をこうむっているのだ。そしてその主体の『想像』において、彼女自身は無敵のスーパーヒロインと人外の化け物を兼ねるものであり、かつ一方の男子は『それ』を憎むものなのだ。

だからこれに続く桜姫の冒険は、『愛がある』か否かを彼女がねちねちと確かめるもの、さもなくばその愛を作っていくためのものになるのだろう。で、それが片づいたところで、性交が実行されて物語が終わるのだろう。

古い(が新しい)メルヒェンの「シンデレラ」とか「いばら姫」とかのお話には、ヒロインが『待つ』というところに明らかに、1つのポイントがある。シンデレラは一夜が明けるのを待ち、いばら姫は100年間も待つ、というところが大きく異なるにせよ。
けれども桜をはじめとする現代の≪姫≫たちは、待たずに闘う。そして彼女らの勇ましさは、≪王子≫らに対し、『拒絶しつつの媚態』というふしぎなものとして機能する。それをいっそのこと、なさるべき性交を延期するための闘いである、とも言い切りたいところだ。
よって彼女らにおいて、『性交は、不可避でありつつ不可能である』。ところが少女まんがにおいては、『それでいい』、と言いうる。性交が『ありうること』と認識されたところにそれは始まり、性交がなされてしまえばそれは終わる。

なんてまあ、そんな見方がすべてとは自分でも思わないので、この「桜姫華伝」の続きは楽しみにしつつ。今作については、いずれまた。

2010/04/03

松林悟「ロリコンフェニックス」 - 悪いロリコン、正義のロリコン(!?)

松林悟「ロリコンフェニックス」第1巻
参考リンク:Wikipedia「ロリコンフェニックス」

月刊ドラゴンエイジという媒体に2006~09年掲載、題名どおりにロリコンであるヒーローが、『悪いロリコンから少女らを守ろう』と、奮闘しているつもりの行動を描くドタバタギャグ。通称「ロリフェ」、単行本は全4巻(角川コミックス ドラゴンJr.)。
全4巻といっても実は構成がまたおかしいのだが、細かいことは参考リンクをご参照。いつも筆者がWikipediaを参考リンクにしているのは、主には書誌情報の補完をそっちにおまかせしたい、との考えによる。その説明は、足りなすぎるかくどいばかりだけど。

で、だ。未知の作家の単行本をいきなり買うような勇気は、ほとんど持ちあわせないチキンな筆者だが。しかしこれは第1巻を見つけた時点で、いかなる予備知識もなしに表紙買いした。
何せ、成年コミックでもないのに『ロリコン』の語が題名に入っているようなまんがの本は、他にない。あえてそんなものを世に出しくさった製作サイドの勇気に、こっちも勇気でこたえたつもりだ。いや別に『ロリコン』というところにフックがあったのではなく、並ぶ用語の『ニート』や『引きこもり』でもよかったし、そして≪ギャグまんが≫らしきものである、ということが最大のポイントだが。

そして、だ。別に製作サイドの意図するところではなくとも、今作には田丸浩史「ラブやん」(2000)の、押しかけ対抗作という風味がある。そのヒーローたちはいずれもロリコン・オタク・ニートという3拍子そろったダメダメ人間で、しかもそれを恥ずるところがあまり、いやほとんど『ない』。
という状態のまま、「ラブやん」のヒーローは、女子小学生に平気で要らざることをする。こちら「ロリコンフェニックス」のヒーローは、独りでかってに『正義のロリコン』としての活動をがんばる。そして後者にいたっては、正義の活動を続けるために自分はニートでなければ(!)…と、とんでもない合理化を自らに行う。

ところでそれぞれのお話が続くにつれて、「ラブやん」のヒーロー≪カズフサ≫が、頼まれもしないのに『緑のおばさん』のふりをして通学路をパトロールし、少女たちの味方を気どるという、逆に後発の「ロリフェ」をまねしたような挙動に出る(アフタヌーンKC, 第11巻, p.130)。ふざけるにもほどがあろうに、そのそうびした旗には『スクールゾーン』ではなく、『ストライクゾーン』という字が書かれている。
しかしそんな行動が社会から歓迎されるわけもなく、追って彼は交番へしょっぴかれて、きっついお説教を喰らうのだが。で、そうしてパトロール中のカズフサ君と、その仲間のロリ道の大先パイとが交わす会話(同書, p.131)。

 『いたいけな子供らを 世の悪意から 守るのだ!!』
 『エエ守って みせます!! あーあ…変質者 現れないかなあ……!』

いや、すでに変質者はそこにいる、2匹もいるとしか、われわれには考ええないわけだが。そしてこいつらの口から『世の悪意』ということばが出ようとは、まったく呆れるばかりだが。
けれども筆者が知っているところによれば、『なぜだかロリコンたちはみな、自分だけは“よいロリコン”だと思い込んでいる』。これがなぜだか普遍的に真なので、ゆえにここらで「ラブやん」と「ロリフェ」の内容がシンクロしていることに、何のふしぎもない。

そして、ここで「ラブやん」のカズフサ君が言っている、『変質者 現れないかなあ』というセリフ。自分だけ正義派を気どるかん違いしたロリコン野郎どもの、そうしたふらちな願望が実現しちゃっているところを描くものが、われらが見ている「ロリフェ」という作品なのだ。
すなわち。その主人公の大輔くん(26歳・無職)は、『少女を守る正義のヒーロー』たるべくして自室でこそこそと体を鍛え、そして『ゴクラクチョウのマスク』と言われるものをかぶって、自ら『フェニックス』と名のる。そして今作の第1話では、敵もいないのに1人の少女を守っているふりで、自作自演の大暴れをしているばかりだが。つまり彼は、少女に迷惑をかける1匹の変質者以外でないのだが…。
けれどもその次の第2話から、彼(ら)が待望している『悪いロリコン』のろこつな変質者どもが登場して、大輔くんの立場を守ってくれるのだ。その悪いロリコンらに今作では、『BL団』という名がついている。BLはボーイズ・ラヴではなく、『ブラック・ロリータ』の略なんだとか。

 ――― 「ロリコンフェニックス」第4話, BL団のボス≪カイザー≫の自己紹介より ―――
 『我々は ブラック・ロリータ団!!
 少女とどうしてもニャンニャン
 したい男たちの血と汗と涙
 その他色々なモノの結晶体だ』(同書, 第1巻, p.61)

あ~あ、な~にがいまどき『ニャンニャン』だか…。

ところで大輔くんがゴクラクチョウの仮面を常用しているように、BL団のやからにも動物のマスクをかぶっているやつらが多し。いつも出てくる3人組が、『カイザー:猫、ダニー:犬、ケロリン:カエル』、のように。ただしBL団の連中について、ほんとうにかぶりものなのかどうかは、分からないが(いちども脱がないので)。
そしてそこへとフェニックスがからんでいく、きてれつなライブアクションぬいぐるみショーが、この作品の実質だとも言えるのだが。

そうとしても、なぜにこのロリコンどもは、見ようによっては『かわいい』と言えなくもないような(?)仮面をそうびし、自分の顔をその背後に隠すのか? BL団の悪党が全編で10何人出てきたか数えていないが、その中で、もろに自前の顔らしきものを出しているのは、≪医者≫と≪イケメン≫の2人しか思い出せない。
恥ずべき行為にふけっているという自覚があるので、顔を隠すのだろうか。それとも、かわいいっぽい仮面をつけていた方が、少女らに近づきやすいからなのだろうか。
(なお特殊なこととして、今作の中で『少女』と呼ばれるのは、小学校の中高学年くらいの女子のこと『だけ』だ。それが、誰かの『ストライクゾーン』なのだろうか?)

あとふしぎなのは、フェニックスをはじめとする作中のロリコンどもが、みんなプロレスラーみたいなガッチリ体型で、フィジカルが異様に強い(これまた例外は、医者とイケメンだけ)。ここで再びなぜなのか、筋肉ムキムキのロリコン君を描く「ラブやん」と今作との方向性がみごとにシンクロしている。

『なぜにロリコンが、マッチョとして描かれているのか?』。いちおう考えられることとして、これをブヨブヨだったりショボショボだったりとして描いては、いくらまんがでも見苦しすぎるということはある。ギャグであってもまんがのヒーローは、『読者がそうでありたい人物』でなければならないし。それこれで、落しどころはマッチョマン、となっているのだろうか。
かつ、見た目がやたらにりっぱな青年や少年が『実は』ロリコンで、言うことがいちいちめめしくもちみっちゃい…という演出は、対比の効果があってグーかもしれない。というわけで、いちおうなっとくがいかないこともないが。
けれど、もう少し何か『心理的』なところに理由があるんじゃないかなぁ…という気がしてならない。仮面の問題もあわせて、そこいらを解明するには、もっと筆者が自らのロリコン観を深めなければならないだろう。

と、そこまで見たところで、まだほとんど今作の内容にふれてないが(!)、この堕文はいったん終わる。ice先生の、次なる「ロリフェ」論にご期待ください! …ごめんなさい。

2010/04/02

松山せいじ「奥サマは小学生」 - われらの師いわく、マンガは反逆のメッセージ!

松山せいじ「奥サマは小学生」
 
参考リンク:≪*1≫, ≪*2≫

さきまで筆者は、松林悟「ロリコンフェニックス」についての記事を書いている最中だった。そこへおかしなニュースを聞いたので、読んでない作品を語ることになり恐縮だが、ほんのひとことだけの『雑記』として。

話題の作品「奥サマは小学生」は、近未来の日本政府の政策により、少子化対策か何かのため、小学生の結婚が可能となった世界でのドタバタを描くギャグまんがだという。細かく言うなら、大人が子どもを相手に、前戯の見立て的なことを行うソフトHまんがであるらしい。チャンピオンREDコミックス、全1巻(2008)。
そして猪瀬直樹という有名らしき人が、それをBSフジ『プライムニュース』なるテレビ番組で取り上げて、『このような過激な表現物を誰でも入手可能な場所に置くべきではない』、『文学と違いただエロばっか続くような漫画は低レベルだから表現物とは言えない』、と言ったかのような話だ。これが、2010年3月の29日かそこらの話らしい。

ソースが貧弱で、番組中での猪瀬某氏の発言の内容がよく分からないのだが。しかしご本人のブログに、その作品に言及したところがある。ぜんぜん関係ないポテチの話から一行おいて、なぜかいきなり始まる。

 ――― 猪瀬直樹Blog, 3月23日付 (*) ―――
『「奥サマは小学生」」という漫画があり、奥サマは12歳なのである。セックスシーンが繰り返し出てくる。これはふつうの書店で、ビニールでもなく、誰でも買えるふつうの棚に置いている。18歳未満でも買うことができる。現状の自主規制の対象ではない。
ひどい本があるねえ、と見ていたら、帰国する直前のニルスが覗いて、「子ども! こんなもの、表現の自由と関係ないよ。フランスだったら、ふつうの本屋にはあり得ない」と驚いている。』
(引用者より。「奥サマは小学生」」、と、なぜか閉じカッコが1つ多いのは原文のまま)

どうして『いきなり』そんな話題になるのかって、電波な人の頭の中身は分からない。そもそもいろいろ調べていると、「奥サマは小学生」という作品は、性器をもろに描いていないのはもちろん、その作中では性交がなされていないという。少女の顔にホイップクリームが飛び散ったり、女の子が小さな口でバナナをくわえてモゴモゴしたり、という見立て表現を愉しむような、ある意味で高踏的な作品らしいのだが。
それをいきなり『セックスシーンが繰り返し出てくる』と形容してはばからぬやからの無粋さには、そのまんが読解力がゼロ以下なのを感じないわけにはいかない。
そういえば、われわれが興味をもっている精神分析は、『つまりそれは、性器が、性交が、象徴的に表現されたところです』という言いぐさを得意にしており。で、たまに筆者もそれと似たようなことを申し上げながら、『ちょっと無粋じゃあるまいか』と思わなくはないのだが、しかしいま見られたハイパーな無粋さにはバカ負けの屈辱を大いに味わった、と告白せねばならない。

ところでだが、ちょっとでも『児童ポルノ』に見えるような表現のじっぱひとからげな弾圧が着々ともくろまれているこんにち、われらが話題の「奥サマは小学生」という作品は明らかに、その動きを『逆に』挑撥している部分がある。その創作は明らかに、風俗としての言論弾圧に対する風刺であり、そしておそらく『少子化』に対して無策な政府と社会への風刺であり、よって≪まんが≫の表現としてもっとも正統的なものに属するということは、筆者ごときつまらぬ者が申すのではなく、かの手塚治虫先生がおおせなのだ、と言える。

 ――― 「手塚治虫対談集 第1巻」(MT388), 『マンガは反逆のメッセージ』より ―――
【ジュディ(・オング)】 いまのマンガって、どぎついギャグだったり、すごくエロチックというか破廉恥なものが多いですよネ(中略)。それは“反手塚マンガ”の爆発した形だなんていっている人もいますけれども、いわゆるアンチ・ヒューマニズムのマンガ(中略)、いかが思われますか。
【手塚】 ぼくはマンガは、それが正道だと思うんです。
【ジュディ】 あ、そうですか。
【手塚】 もともとマンガというものは反逆的なものなんですよ(中略)。マンガにはマンガの役割があるのですよね。それは、世の中の道徳とか観念をひっくり返すことなのです。
【ジュディ】 それは、先生のメッセージなのですか。
【手塚】 ぼくのメッセージ。
【ジュディ】 一般の、世間に対しておっしゃっておられるわけなんですね。
【手塚】 そう、マンガというのはそうであるべきだと思うのです。マンガの目的というのは風刺でしょう。風刺というのは批判しなきゃいけないのです。批判して、それで笑いとばすというのが風刺なわけ。それは反逆精神ですよ。だからマンガ家とは常に憎まれっ子なの。その憎まれっ子が描くものが、ヒューマニズムじゃしょうがないじゃない。

そして手塚先生の言われるような≪マンガ家≫の元祖たるオノレ・ドーミエは、当時の仏王ルイ・フィリップへのはげしい風刺への弾圧として、罰金300フラン+禁固6ヶ月の刑をこうむった(1832)。その一方、「奥サマは小学生」の作者はいまだ具体的な刑を受けているわけではないが、その受難めいたものはドーミエ弾圧事件のこんにち的な再現ではあろう。
で、愚鈍をも微力をもかえりみず、こんにちのドーミエ(たち)に対するこんにちのボードレールであろうとしている筆者は、まんがを否定しまんがを軽蔑するやからを否定し軽蔑する。



【余談】 これを書くためにいろいろ調べていたら、Amazonの中古に出ている今作の単行本が『\2,800より』(定価580円)と、法外に高騰しているのでびみょうにうけた。ささやかにも『言論弾圧』と呼べるようなイベントに乗じて、小銭を稼ごうという人間が平気でいてやがる…それが、われらの生きている『この社会』だ。

若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」 - メタルとパンクの、ちょっとやな関係♪

若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」第2巻 
関連記事:若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」 - レマン湖のほとりにて

以前の職場にメタル好きの同僚がいたので、自分はパンクだけれど、よく男子更衣室でロックの話をしていた。で、そのうちに意見の一致を見たことは…。
…パンクとメタルを比べての話、パンクにはある種のユーモア(もしくはウィット)がほとんどあるけれど、メタルにはそれがほとんどない。
だから≪ギャグまんが≫に描きやすいのは、とうぜんメタルの方なのだ。パンクをまんがの題材にするということは、漫才師をヒーローとして描くのと同じことで、逆に笑いが相対的にとりにくくなるのだ。

かつ。メタルの世界には『様式美』というものが存在するようだけど、パンクの世界にそれはない。パンクとはモヒカン刈りのことではなく革ジャンのことでもなく、2分ちょっとで終わる乱暴なポップソングのことでさえもなく、1つのアチチュードだと、われわれは解すので(…そうは言っても、ほんとはオレだってモヒカン刈りにしたいけど!)。
そしてそこらをかん違いしているものを『ファッションパンク』とふつうに呼ぶが、しかしその一方に『ファッションメタル』という語が存在しないことにも、また理由がありげ。すなわち、パンクにおいてはアンチ・ファッションが一種のファッションだと見誤られるのだが、その一方のメタルの世界には、肯定的なものとしての一種のファッションが、さいしょからあるわけだ。

といった違いを確認した上で、もはやおなじみの「デトロイト・メタル・シティ」(DMC)から、メタル対パンクの対決が描かれたエピソードを、以下で見てみる。
そして先廻りして感想を言ってしまえば、本物っぽいメタルにケンカを売ったら根本的に勝ち目がないということを、われわれパンクは憶えとく必要がある、と。同じく悪いと言ったって、悪さのレベルがけたちがいだ。

 『もしオレがけだものだったなら
 オレは≪悪≫ということから自由になれる
 けれど人は、もう少しマシなものだとオレを言う
 だからオレは、何をどうにもできない』(Germs“Manimal”1979)

パンクとはだいたいこういうことなので、『我は地獄の魔王である!』とか言ってるすごい人はもちろんのこと、むしろいかなる相手にも勝ってしまったりする心配が、逆にない。『ロックンロールは敗者の音楽』という名言らしきものがあるが、それをまたく体現しているので、パンクはもっともピュアなロックンロールである、あたりを強弁したいところだ。

ま、そんなことより実作を見ていこう。作中のバンド≪DMC≫のブレイクへの反作用として、同じく乱暴さをウリとするアンダーグラウンドなバンドのいくつかが、彼らにはげしい対抗心をいだく(第2巻, 第14~15話。以下すべて同じ)。
『反男性社会パンクバンド』を名のる≪金玉ガールズ≫も、そのひとつだ。ボーカルの≪ニナ≫を中心とする彼女らは、あてつけてDMCのデビュー曲「SATSUGAI」の替え歌「DMC (デタラメ・マザコン・チェリーボーイ)」をリリースし、シーンの話題を呼ぶ。

 ――― 金玉ガールズ「DMC (デタラメ・マザコン・チェリーボーイ)」(p.21)―――
 『オレ達ただの チェリーボーイ
 昨日はママに 化粧を教わり 明日はパパに 衣装をねだる
 潰せ潰せ潰せ キンタマ潰せ
 キョセイせよ キョセイせよ キョセイせよ キョセイせよ』

何しろ『反男性』をポリシーとする彼女たちには、『女を豚だの レイプだのと歌ってる クソバンド』を攻撃する理由は大いにある。しかもこの『デタラメ・マザコン・チェリーボーイ』という決めつけが、もういきなりDMCの本質をえぐり出している。だから素の状態でその曲のCDを見た根岸くんは、『テハハハ うまい事いうなー ほぼ当ってるし』と、すなおに感心してしまう。
ただし、もしこれがお互いの悪さを競うような勝負だとしたら。その『デタラメ・マザコン・チェリーボーイ』こそが、ほんとうに怖るべきサイアクの≪悪≫なのかもしれない。この認識をわれわれは、キープしとく必要がある。

で、いま見た歌詞に≪去勢≫という超重要キーワードの出ていることが、われわれをはっとさせるところだ。同じ金玉ガールズの別の曲は、こうも言う。

 『ブッ壊せ―― アイツのペニス面
 ブッ壊せ―― アイツのペニス思想
 金玉のみ よこせー』(p.25)

Crass“Penis Envy”ところで『反男性パンク』、『去勢』、と聞いて思い浮かんだのは、英パンクのクラース(Crass)というバンドの「Penis Envy」(1981)というアルバムなのだった。このバンドあまり好きじゃないのだが、にしても≪Penis Envy(ペニス羨望)≫というのがもろにフロイト様の用語なので、多少は気にしないわけにもいかない。
それはどういうアルバムかと言うと、いわゆるダッチワイフをフィーチャーしたスリーブが、まず挑撥的でありつつ。そして音楽的には、あまりパンクじゃないような演劇的なもので。そしてその女ボーカルが唄っている文句が確か、『今夜も私は、彼へとアピールするためにメイクし着飾って出かけ…』とかいったもので。

で、そのアルバムの全般から浮かび上がってくるのは、『男性が支配する社会の中で、女性たちのいだく屈辱感』ということなのではないかと。そして、それを総括することばが『ペニス羨望』だということまでは、分かったような気になる。
しかし筆者は、このクラース一派のコンセプトにはいちおう共感できたとしても、その作品らに創作としてのさえを感じたことがない。それはひょっとしたら、筆者のペニス頭の中身がペニス思想に染まりすぎだから、なのだろうか?

とまでを見てから、作品「DMC」の話に戻り。さてDMCにケンカを売っている金玉ガールズのニナは、人前では『この腐った男共!』か何か言って威勢がいいが…。
けれども彼女のバンドはオカマっぽい男性マネージャーによってコントロールされていて、彼女らが「SATSUGAI」の替え歌をやっているのは彼の発案によるものだ。『私は全部オリジナルでやりたかったんだ』というニナの意向は、なぜか通らない。
そして金玉ガールズというバンドを支持しているのは、ニナを目当ての男客ばかり。かわいい顔して彼女がいろいろと挑撥的なことをしてくれるのを、彼らは楽しみにしているのだ。

 『マネージャーも 客共も
 つまんねぇ 男ばっかりだ』(p.24)

ステージの上から客席を見わたして、ニナはそのようにモノローグする。そこへ客席から『パンツ見せろー』と、ストレートなヤジが飛ぶ。
かくて『腐った男共』を軽蔑しながら、ニナたちはそいつらによって生かされている以外でない。彼女らの挑撥的なパフォーマンスは、『腐った男共』への媚態として消費されている以外でない。その『金玉よこせ!』という挑撥は≪ペニス羨望≫からのかわゆい言表として、『腐った男共』によって、持てるもののよゆうで受けとめられるのだ。

だから。こんなでは…。そうでなくともさいしょから負けているものとしての『パンク』であるニナたちが、現に勝利しているものとしての『ペニス思想』の暴虐によりそうDMCに、ケンカを売って勝つという見込みが、まったくない。
さっきも言ったことだが、DMCが『デタラメ・マザコン・チェリーボーイ』に他ならぬということは、つまりサイテー最悪なのだということを見ておかねばならない。そしてサイテー最悪な相手には、勝てない。いくら腕力の強い不良学生であっても、ヨレヨレのヤクザとケンカして、けっきょくは勝てないように。腐った社会の腐敗を責めるものと、腐った社会の腐敗を体現するものとが、同じレベルでのケンカに及んで、どうして前者の勝利がありうるだろうか。

Sid Vicious“Sid Sings”だから、われわれことパンクの方法論が『最低レベルからの“プロテスト”』だとして、しかしレイプでありファックであるところの『デスメタル』の存在は、われわれのあっぱれな清潔さと正義派気どりを明らかにしてくれやがるのだった。われわれごときが『最低』を語れないことが、ここらでどうにも明らかなのだった。あたりまえだがパンクロックは、レイプと戦争には反対する以外のものでない。
で、ニナが崇拝しているピストルズのシド・ヴィシャスこそ、中途はんぱな気どり屋の負け犬であるところの『パンク』のシンボルに他ならない。そのようなシドという存在を≪反復≫することがニナの目的なのだから、とうぜんのこととしてニナもまた、敵を挑撥しておいてあっさりと負ける。もうかわいそうで詳しくは書けないが、DMCからさんざんに、象徴的なレイプをこうむってしまうのだった。

そしてその象徴的なレイプの大詰めっぽいシーンで、両バンドが対決したライブハウスは、DMCのやりすぎによって炎上してしまう。そこでクラウザーのカツラを取った根岸くんのペニス頭は客席の人々に、炎の中で勃起した巨大なペニスの出現を思わせるのだった(p.45)。かくて、サイテーでありかつ最強なものとしてのペニス思想が、『燃やせ! 犯せ! 殺せ!』というそのスローガンも高らかに、『現に勝利しているもの』として、そこでもまた勝利するのだった。
負け惜しみだが、そこで勝利しているのはペニス思想であって、その勝利に便乗して勝ち誇っているDMCではない、とも言いたいところではありつつ。今作を見ているわれわれには明らかなこととして、DMCのクラウザーを演じている根岸くんもまた、『ペニス思想』によって使われているものでしかない。

なお、ここでの『ペニス思想』というものをわれわれは、≪去勢されざるもの≫と解釈しうる。いさいを略してその特徴を述べてしまえば、それは狂気と暴虐とのきわまりだ。それは≪去勢されたもの≫らによって成り立つノーマルに見えている社会、その背後にあって、人々を去勢しているものだ。
『すべての性交はレイプである』というフェミニズム方面から出た名言があるが、『ペニス思想の支配する社会』というものを見た上で、一定のその正しさを噛みしめなくてはならない。DMCのファンらはクラウザーの(象徴的な)レイプ実践を愉しみ、それを『七転び八レイプだー』、『急がばまわせー』と、面白げにはやしたてる。
そしてシド・ヴィシャスのみごとな最弱の負けっぷりをわれわれが『かわいい』と感じているように、シドを崇拝するニナもまた、そこでかわゆい負け犬になり下がるのだ。ペニス思想の持ち主どもへの去勢を志しつつ、みごとに彼女は自らが去勢されてしまうのだった。

そうして今作の描くこれらのことが、不ゆかい千万でありつつも、むだに正しい。正しいけれど、不ゆかい千万以外でない。このことがあまりにも外傷的なので、ついつい筆者の堕文がくどくなって申しわけなかったが。
そしてその衝撃をわれわれはまともには受けとめかねて、むりにでもそれを≪笑激≫であると再解釈するのだ。あわせてわれわれこと負け犬弱虫気どり屋のパンクどもには、『ケンカを売るにも、相手を選ぶ必要が大いにある』との教訓を残しながら…ッ!
というか、悪魔の手先になって勝つよりも負けることを選ぶ、それがわれわれであり、ゆえにわれわれは最弱だ。勝ったつもりで悪魔の手先になっている方々に、かなうわけがない。だからケンカの相手を選ぶよりも、負けるにしたってその負け方を、われわれは選ばなくてはならない。

かつ、いちばんさいごでさいしょの話に戻ると、パンクであるところのわれわれは、事物に対してユーモアやシニシズムをもって対処すべきかも、ということは思い出さねばならない。だからDMCのようなものを見てしまったら、『すんばらしいギャグ、超うけるネ!』とでも言っておくのが、たぶんいちばん正しい。画面の外側のわれわれが、じっさい今作を≪ギャグ≫だと見ているように。