2010/05/12

「課長バカ一代」と「主将!! 地院家若美」 - または『山崎ハコ と ギャグまんが』

野中英次「課長バカ一代 子供用」 
参考リンク:Wikipedia「課長バカ一代」, 「主将!! 地院家若美」

筆者はあんまりよく知らない対象なのだが、このご時世に浅川マキとか山崎ハコとかって、どうなのだろうか? うそでもいいから、フランソワーズ・アルディとかブリジット・フォンテーヌとかに置き換えてはダメなのだろうか? まずは以下しばし、約4年前に書いていた堕文の焼き直しから。



一条ゆかり先生のまぼろしの傑作「5愛のルール」(りぼん1975年5~12月号、未完)に、先日初めて文庫版で目を通した。するとその冒頭、ヒーロー初登場の場面にて。あれこれと失意が重なり、スナックでやけ酒中のヒロインの姉が、ジュークボックスに向かったヒーローに、

 「ねぇハンサムさん 浅川マキかけてよ」

と、言う。
…いやはや、浅川マキも古ければ、それを呼び出す装置の≪ジュークボックス≫も古い。ぐん、とくるほど、じゅん、となるほど、古い。まあそれは、むかしの作品だからだが。

いや、作劇としたらむろん、この場面にその名前の登場は『ふさわしい』かも。われらが一条センセのなさるコトに、まちがいのあるはずはない。だがしかし、そうきなさるのか、そのふんいきイヤだなあ…と、自分が軽く思ったことも事実だ。

それから、わりと最近。ちょっと古書店で、野中英次「課長バカ一代 子供用」(2001, KC少年マガジン, 全1巻)を買って読んだ。これは「魁!! クロマティ高校」でおなじみの作者の1990'sのシリーズ作(ミスターマガジン掲載)を、少年マガジンの読者に向けて編集し直した1冊。

そしてその巻末近く、ヒーローのバカ課長が部下の3人を呼んで『バンドを結成しよう』と、とうとつに言い出す。その理由は『音楽への情熱』とかいうのではなく、社内のサークル活動として公認されれば予算が出るかもと、あて込んで。
けれども方向性がちっともまとまらないので、『しょーがない、じゃあ、いきなりだが解散しちゃおう』(!)という相談になってしまう。だが、解散するにも多少はカッコつけが必要ということで、部下の1人の発案により、『音楽性の相違』という理由が設定される。
それに続く会話として、われらのバカ課長が『ちなみに俺は 山崎ハコが 好きだけど オマエらは何が 好きだ?』と、一同にたずねてみたら…。

 『え……! 課長も山崎ハコ 好きなんですか!?』
 『実は僕も 山崎ハコ 好きなんですよ…… あんまり人に言わないようにしてるんですけど……』
 『まさか…… 前田くんも……』
 『山崎ハコのオールナイトニッポン…… 毎週聴いてました……』

やだもう…何なの、この会社? そうして彼ら4人は、ほんわかと意気投合し直すのだが。しかしその直後、『しまった、コレじゃ解散の理由がない!』と気がついて、再び頭を抱えるのだった。

ちなみに筆者は、浅川マキと山崎ハコとの区別がほとんどついていない。というか、しっけいだがおそらく、『区別しよう』という意志がない。
ゆえにこれら2つのまんが作品が、≪同じもの≫をさしているかのように、ついさっき確認するまでかん違いしていた。こういうことを、悪しき『同一性の思考』と呼ぶのだろうか?(2006/04/03)



と、ちょうど筆者がそんなことを書いていたころ、「魁!! クロマティ高校」に続くようなギャグまんがの新しい動きとして、マガジン系の媒体でひそやかに、やきうどん「主将!! 地院家若美」(2004)の掲載が始まっていた。はっきり申してほんとうに大好きな作品だが、それの第2巻をいま見ると、こんなことが描かれている。

最強の暗殺武術の達人にして、最悪の美少年ハンターであるBL系ヒーロー≪若美≫。その親友で幼なじみの≪三平白人(みひら・はくと)≫は『超 忍者マニア』で、独断的な忍者修行にはげみすぎ、学内ですっごく迷惑をかけまくり。よって若美と並んで、柔道部の2大問題児、との風評あり。
まったく困ったもんだ…という相談をしているところへ若美が道場に現れ、たまには練習を休んで遊びに行こう、と言い出す。一同は悦んで、若美がご招待のカラオケ屋に向かう。追って白人が道場におもむくと、誰もいない。何せ忍者だけに、ふだんから存在感を消しているせいで(?)、忘れられたのだ。

やきうどん「主将!! 地院家若美」第2巻そこで白人は忍者の情報網か何かを使って、柔道部員らの行き先をつきとめ、ボーイに化けて彼らの個室に潜入する。実のところ白人クンは、のけものにされたこと、そして忘れられていることが、せつなくてたまらないのだ。さびしんぼうなのだ。
やがて部員らは、白人がいないことをやっと気づく。ところがそれからその場所は、白人へのしんらつな悪口とかげ口でもちきりに(!)。その口撃の急先鋒は、若美や白人が起こす問題の処理に追われまくりの、いつもは温厚な副将だ。部員らの中で、ちょっとでも白人をフォローしたのは、心のやさしいヒロイン≪美柑(みかん)≫だけ。
あまりのことに、ボーイ姿の白人がぼうぜんとしていると、何かわけの分からないリリックがその場に流れる。そこで白人は、

 『誰だ! 山崎ハコなんか 歌ってんのは…!!』

と内心で叫び、そして人知れずダラダラと涙を流すのだった(KC少年マガジン版, 第2巻, p.74)。

それからお話の後半は、美柑以外の部員らに白人が、血も凍るようなおそろしいふくしゅうをッ!…と続く。ゆえにこのエピソードのサブタイトルは、『忍(しのび)の戦(いくさ)は無情 の巻』。

とまあ、そうなんだけど。そのストーリーはともかく、われわれの観点からは、≪山崎ハコ≫というふかしぎな記号が、こういう場面にて、その意味不明きわまる意味作用をなすものらしい、と分かったのだった。いや、『分かった』なんてことは言えないが、しかし何かを知った感じがなくもない、という。
「課長バカ一代」にしろ「主将!! 地院家若美」にしろ、≪山崎ハコ≫とはこういう意味の記号である、なんてことを描いてはいない。ただその使われ方を見ると、その記号は、あえて言うなら『共感なき共感』、さもなくば『コミュニケーションなきコミュニケーション』とでもいった、何かきわめて両義的で、受けとり方のむずかし~い心の状態を示すようなのだった。

そしてそのような、意味ありげにして意味不明なる記号(シニフィアン)の現出、それの引きおこす強烈なとまどいを、われわれは≪ギャグ≫と解釈する。その記号に何らかの意味があることは確かそうなのだが、しかしそれが思い浮かばないのは、その意味が≪抑圧≫の対象になっているからだ。そこで発生するエネルギーの詰まりが、笑いという運動によって発散されるのだ。
だからこれらがギャグとして成り立つには受け手において、『その意味が抑圧の対象』という前提が必要になる。山崎ハコという女性歌手について、『偉大きわまるディーヴァ』だとか『くだらなさのきわみ』だとか、別にどっちでもいいのだが、にしても受け手の側にはっきりした『意味』しかないとしたら、ここで笑いの発生はない。
そうじゃなくて、その存在感(プレゼンス)はずいぶんとありつつ、しかしその受けとめ方にはたいへん困る。そのような記号としての≪山崎ハコ≫であり、その現前によっての≪ギャグ≫なのだ。

対極的な例をも、1つ出しておくと。まんがに限らずギャグの世界には、エルヴィス・プレスリーの仮装をした人がよく登場する。それが決まって、かの映画にもなったラスベガスでのカムバック・ステージの、純白のジャンプスーツ(ソデにピラピラつき)&もみあげがものすごい、というかっこうで。『何かさいきんあったなあ』と思ったらそれは、若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」第2巻の冒頭のお話にも出ているのだった。
だが、それがどうして≪ギャグ≫になるのだろうか? エルヴィスは文句なくカッコいいが、しかしその猿まねはカッコ悪いのでこっけいだ、というばかり? それともそうじゃなく、ネタとなっているエルヴィス自体に、過剰すぎてカッコよさを通りこしちゃってる部分のあることが、そこにて示されているのだろうか?

むろん筆者には、それをどっちであるとも言えない。むしろ、ほとんどの人には『それをどっちであるとも言えない』。そしてそうしたどっちつかずな感覚に対して、われわれは笑いという反応を返しているのだ。ここでまた、≪エルヴィス≫という記号がりっぱなシニフィアンだということが確認されながら。
で、何が『対極的』かというと、同じく意味不明なシニフィアンでありつつ一般社会に対し、エルヴィスは出っぱりすぎている例、山崎ハコは引っ込みすぎていて『逆に』気になるかもしれない例、という意味で。そしてこのような≪シニフィアン≫というしろものを、われわれは、いっそのこと『不条理の記号』と呼んでもよいように錯覚しつつ。

…などと、山崎ハコという記号を介してギャグまんがを見る、というふかしぎな行為のあったところで。そうして「課長バカ一代」にしろ「地院家若美」にしろ、ひじょうに大好きなすばらしい作品なので、こんなんでは語りきれない…と筆者は申し上げながらッ。

2010/05/09

石川雅之「もやしもん」 - 断章。菌類の変態性 と 人間らの変態性

石川雅之「もやしもん」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「もやしもん」

以下の堕文は当初、がたがたさんのブログ記事(*)へのコメントとして書かれようとしたもの。でもびみょうに長くなっちゃったので、自分ちに掲載。そして話題の石川雅之「もやしもん」は2004年からイブニング掲載中の、『菌類萌え(?)』まんが。ではどうぞ。



この「もやしもん」は、まず原作の構成がありえない軽わざかと感じています。菌萌え、理系大学生ライフ、グルメ、ボンデージ、ゴスロリ、男の娘、まったく存在感のないエスパー主人公、そしてラブコメ要素…って。これらのふつうはまとまらないモチーフらを、ともかくもまとめているのが、まずすごいな、と、考えていました。ことばで言ったら散乱しきっているものが、「もやしもん」というタイトルのもとでは、なぜかまとまっているのですね。

だからこれについて、ことばにしようとすると、やっぱり散乱してしまう。にしても大きく2つに切り分けて、『菌萌え、発酵、開発、グルメ』といったモチーフ群と、『ボンデージ、ゴス、男の娘』といったモチーフ群がある、としましょう。
で、いったいこの両者には、何の関係があるのでしょうか。それらはまったくの無関係ではない、単なる並置並存ではないはずですが、しかし『こういう関係である』と、うまく言えた例があるのでしょうか?(無知にして存じません)

そうして、こちらのレビュー(*)を拝見しまして。わたしの見ていないアニメ版についてのお話ですが、『人間ドラマとしてすばらしい』と言っても何か足りないし、また『男の娘、萌え~』と言ったとしても何か足りない感じ。作品の過剰さに対してことばで応戦すれば、異様に足りないものになってしまう。そのような「もやしもん」という物語の、罠である性格というものを、大いに感じたしだいではあります。

と書きながら1つ思い浮かんだのですが。あえて言うなら今作について、『菌類の変態性』と『人間の変態性』ということが二重写しに描かれている、というのがポイントでしょうか。何のことかというと、『菌類の代謝と生殖のシステムは、ひじょうに変態的』ということが、「もやしもん」の物語の根源にあるようなのです。
つまりアルコール発酵という現象があったとして、生成したアルコールは、言ってみれば老廃物でしょう。それをわれわれは、おいしくいただいているのです。これを一種の、『プレイ』として考えてみる必要があります(!)。
かつ生殖のシステムにおいても菌類は、無性であり、分裂し、気まぐれに異種間でも遺伝子を交換し、そして単体になったり群体になったり、菌糸を出したり胞子を出したり…というトータルなアナーキーさ。この変態性が、『ノーマルな性とはマンツーマンのヘテロセクシュアルである』という想念が崩壊しつつある現在の人間らの変態性、それへと対応させられているのでは。

だから「もやしもん」において、『菌類はグレートである』という主張が通ってしまえば、『人間らの変態性欲はオッケーである』という主張もまた、言われずして通る。そのようなひきょうなしくみ(笑)が、こっそりとできているのかなあ…ということを、御レビュー記事を参考に、たったいま考えついたのでした。



…という堕文を読み返してみると自分は、ふつうの読者なら感じるかもしれない、「もやしもん」作中の『人間ドラマ』などというまともっぽい成分を、完全にスルーしきっている。やるなッ。

2010/05/07

杉本ペロ「俺様は?(なぞ)」 - ぱわふるみらくるガマン大会!

杉本ペロ「俺様は?(なぞ)」第1巻 
参考リンク:作品データベース「俺様は?(なぞ)」
関連記事:杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」 - 心はマジだが、立場的には冗談

人気のないブログで人気のない作品を話題にするなんて、まったくもってのガマン大会の挙行みたいなものだ。とはいえ当家の事情として、ゆうべこの杉本ペロ「俺様は?(なぞ)」全4巻(少年サンデーコミックス)をうっかり読み返してしまったので、そのタイミングで記事にしておきたいのだった。
さてこれが、2003年から2年間ばかり、週刊少年サンデーに載っていたショート形式のギャグまんが作品なのだが。そして参考リンク先のユーザーによる評価を見ると、まず今作の存在は、その時期のサンデー読者たちにとってのガマン大会であったらしく。しかも筆者が見た感じだと、作品の全般的ふんいき自体が、その第2巻あたりから苦しまぎれのガマン大会チックになっているとは痛い!

で、どう言ったら何かが伝わるのか、と苦しみながら。さいしょに筆者の全般的な感想でも書いておくと、少なくとも今作は『たまには読み返したくなる作品』だ、とは言える。そしてそのたびに『これはいったい“何”であろうか?』という疑問で、その『読み』が終りなきものとして終わるのだ。
よって「俺様は?(なぞ)」という今作の題名には、まったくいつわりがなさすぎだ。そしてその性格が、さいしょから答の用意された問いを好む方々の反発を誘っている。

だいたいペロ先生の創作態度として、なぞを提示しておいて答は出さないというところは、これの前作「ダイナマ伊藤」からして見うけられる。で、それはいいと、筆者は考える。こんなところでカフカの名前を出すのも何だが、そっちの超メイ作らにしたって永遠のなぞまみれであり、公式の答などはどこにもないのだから。
ただし『なぞ』というにも、人の喰いつくようななぞと、そうでないものがあろう。まず、『何かのひと押しでとけそうななぞ』には、人を誘う要素がある。またその一方、とけそうになくとも、あまりに重大で差し迫ったなぞであれば、いやおうなく人はそれに向き合う。
そういうところから、事後的・遡及的に申すと、今作のなぞ構成に難がないとは、とても言えない。『とけそうもないなぞ、しかも“俺様には関係ない!”』のように見られては読者の関心を失ってしまうわけだが、惜しくもそっちへ傾いちゃっている感じがぜんぜんなくはない。

ともかくもまあ、この「俺様は?」がどういったお話なのか、その第1話『レッスル馬鹿』あたりを見ておくと。

物語の語り手≪笠井くん≫は、超ネガティブ思考の小学生。ある日、彼のクラスの3年D組に『大物でわがままな』転校生がくるといううわさを聞いて、『きっと 僕は いじめられるん だろうな……』と、朝っぱらからさっそくブルーなことを思考中。
そこへ担任のよし子先生に先導されて教室へ入ってきた転校生は、デストロイヤーのような白マスクをかぶった、身長2mのマッチョマン(!)。あまりに大きすぎて入るさい、戸口にガツンとおでこをぶつけてしまう。そしてそのおでこには、『?』の文字。
みんなあっけにとられ、笠井くんが『小学生なの?』と問いかけると、大男は『俺様はどう 見ても小学生だ コノヤロウ!』と、ひじょうに無理なことを言い張る。まあよく見ると、その着ているTシャツに、大きな字で『小三』と書いてはある。ただしさらによく見ると、『小一』と書かれていたものを、後から修正した気配がある(!)。

で、ともかくもよし子先生が、『みんなに自己紹介を』…と持ちかけるも、大男はものすごい顔をして、『俺様には関係ない!』、『なんだコノヤロウ!』と、そんなことばっかしを言ってやがり、まったく会話が成立しない。しまいに怒った先生が、『関係ないなら出ていきなさい!』と命じるが、そこでまた『俺様には関係ない!』の一点張り。
これらを見ていた≪国鉄くん≫と呼ばれる七三メガネのオタク少年が、『彼はプロレスのマスクマンであるに違いない、覆面レスラーに素性をたずねるのはヤボの骨頂です』的なことを言い出す。しかし大男は自分をレスラーであるとも認めず、あくまでも一介の小学生を言い張る(!)。

と、そんなことでもめているうちに、大男のマスクの内側から、たら~りと血が流れ出してくる。さっき戸口にはげしくぶつかったところから、血が出てきたのだ。それを見た大男は、『壁コノヤロウ~』と怒りに燃え、そしてブチきれて、逆襲の頭突きで戸口の壁を『ドゴッ バゴッ』とこなごなに粉砕!
するとあちこちのものが倒れたり崩れてきたりするので、『ドア コノヤロウ!』、『柱 コノヤロウ!』と叫びながら、大男は超もうぜんと暴れまくり! しばし一同あぜんとしていたが、やがてよし子先生が、『教室ぶっ壊す気ィ!? 馬鹿っ!!』と叫んで、大男にビンタ一閃! ところが大男は『女教師コノヤロウ!』と叫んで、ふらちにもよし子先生にまで頭突きをかましてノックアウトしてしまう…ッ!

ちなみに今作で『女教師』には、『にょきょうし』とルビ。筆者は『じょきょうし』と読むように思っていたが、『にょ』の方が何となくいやらしい感じ。ところがその語感のいやらしさが今作では、まったく宙に浮いているのだ。

と言ったところで今作の『ヒロイン』と言えなくもない人物、われらがよし子先生をご紹介。この方は大分出身、年齢はヒミツだが『婚期を逸しかけ』というあたり、すなわち独身、どうでもいいけど広島カープのファン、そしてブサイクでも美人でもなくて、全般的にはひたすらに地味。
ところがこの地味すぎる『にょきょうし』が、のちに≪俺様君≫と呼ばれる大男の出現をきっかけに、みょうに輝き出すのだ。ただしその輝きが、ひじょうにあやし~い色調ではありつつも。

すなわち。どうしてそんなにタフなのか、俺様君からいいのを喰らっても、よし子先生はぜったい退かずにやり返す(!)。そうすることで教育者としての意地を見せまくるのだが、しかしその反面、ふつうの授業をまったくやらなくなってしまう(!)。
さらに俺様君に関係ないところでも先生は、すだれハゲの教頭からプロポーズされて『セクハラ!』とテンパッたり、急にアイドルを気取ってはでに着飾り『よっしー』を名のったりと、いたるところで大暴走。…かって俺様君の出現以前はまともだった(らしい)D組が、お話の進行とともにどんどんメチャクチャになっていく、プロレスチックな大暴れと下ネタの巣くつになってしまう、その先陣として、われらのよっしーは突っ走るのだ。

さらに先生の暴走は、相手が常人なら10人くらいを一撃で吹っ飛ばす猛者になったり(!)、そうして刑務所とシャバとを平気で往復していたり(!)、というところにまでエスカレート。ルックス的にも、こっけいな有為転変の描写あり。というよっしー先生が、一般的にはあまり好感を持たれなさそうな感じだが…。
しかし筆者はふしぎと、このキャラクターにひかれるところが大いにある。だから『教頭先生からのプロポーズ』というイベント(第1巻, p.42)は、ショッキングではありながら『あることかも』という感じで受けとめられる。
なぜなのかって、『何の説明もなくて異常にパワフル』だという、そこがいいのだろうか? ちょっとそこは、自分でもよく分からない点だ。ただし『何の説明もなく』というポイントはきっぱりと重要で、あさはかな設定がついていないところがよい。逆に申して設定過剰なきょうびのまんがらについて、筆者はいい印象がない。

なんてまあ、わずかを語っただけなのに夜もふけて、そしてこの堕文がすでにじゅうぶん長い(!)。で、それから俺様君の大暴走が相次いだり、その正体等のなぞをつきとめようという動きがあったり、として今作は展開する。…と言ってすませたいのだが…。
けれど今作「俺様は?」について、『その主筋はこう』、ということはひじょうに言いにくい。というか、誰にも言えない。むしろこれについては、『どういう人がどういう期待をもって読み始めても、その期待は必ず裏切られる』、とも言えそうな気がする。

たとえばの話、『俺様君の正体さがし』というモチーフが、第1巻の巻末あたりで盛り上がる。そこがある意味、今作でいちばんトーンの上がっているところなのだが、しかしその上がったふんいきは宙に浮いたまま、どこかへ帰するということがない。
そうして俺様君の正体が分からないばかりか、そのライバルとして出現したような≪うんこマスク≫や≪なぞのボス≫らの正体も分からない。さらには比較的素性の明らかな人物ら、笠井くんや国鉄くんやよし子先生についてさえ、『こういう人』ということがよくは分からないままに、この物語は終わっている。

で、このたび読み返してみたら、さいごの方で『仮想現実』として展開しているところ、そしてなぞのボスによるサイキックな仕掛けが「ジョジョの奇妙な冒険」の『スタンド攻撃』を思わせる、なんてところに、筆者は新たな印象を受けた。けれどもそこらをキーにしたところで、今作に対するすじの通った読み方ってものは、できなさそうに感じられる。
そして、このように拡散しきっているところがいいのだ…とは、さすがの筆者にも強弁できない。ちなみにここらで申すと、今作の15から20%ほどの部分は人物らのプロ野球談義からできており、そこが筆者にはまったく面白くない(ヤキュー知らないし)。

かくて今作については、『ひとにすすめられる作品ではぜんぜんない』、ということばかりが確かだが。オレさまにしたって『俺様には関係ない!』、と言いたい気もするのだが。
けれども筆者は「俺様は?」を駄作とも愚作とも言いきれず、むしろ何かの『挑むべき1つの秘境』かのように見ることがやめられないのだった。そこに何らかのひかれるものがある、それは何かという『?』の究明、すなわちたった1人でのガマン大会を、ふしぎとギブアップしきれないのだった。…とまで申して、さらに続くかも(?)。

2010/05/06

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」 - 心はマジだが、立場的には冗談

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ダイナマ伊藤!」

すごい大むかしのこと、バイト先の職場の休憩室で、1977年の週刊プレイボーイのバックナンバーを見つけた。『わ~い、H本だ!』と悦んでそれを見ていたら(!?)、そこに連載中だった本宮ひろ志「俺の空」の内容の断片が、みょうに心に残ったのだった。
すなわち。放浪中の主人公がヒッチハイクすると、恩人であるいせいのいい運ちゃんが、へんなところでトラックを停める。そして『すこしは恩義を返してもらおうか』みたいなことを言い出し、それからおもむろに自分のズボンをおろして、『ケツ貸せや!』と言う…っ(続く)! わ~おっ、BL展開ッ!?

「俺の空」については、以上のことだけよく憶えていて、それがなかなかに外傷的(トラウマティック)で、『それから主人公はどうなったのだろうか?』と、ずっと少しは気にしていたのだった。そうしてつい先日、やっとこの件を確認できたのだが。

…だがそれが、意外とつまらなくて。ネタバレになってしまうが(失礼)、その続き、主人公が『いや~ん!』とは言わないがイヤがってあわてると、運ちゃんは破顔一笑、『冗談だよ冗談』と言い、そしてズボンを脱いだいきおいでスーツにビシッと着替えて、それから行きつけのソープ、作中の用語では『トルコ風呂』へと向かうのだった(プレイボーイComics版, 第3巻, p.187)。ンだそりゃッ、BLじゃねーじゃん!

だいたい「俺の空」のさいしょのシリーズは、主人公のいい気な女性遍歴を描くようなものなんだけど、それの延長で男子との激闘もありかな?…と、自分はちょっぴり期待してた感じなのだった。まともな読者はそんなこと思わなかったろうけど、ちょうどその時代がJUNEっぽいものの出はじめだったので、あるかもよと?
がしかし、あたりまえだが本宮ひろ志先生におかれては、ヘテロセクシャル『のみ』のお人だったというばかり。

ところで≪冗談≫というものについてフロイト「機知」(1905)は、『実はホンネが言われているに他ならない』、くらいを主張している。『機知(Witz)』という語がかたくるしいが、これは『ジョーク(joke)』と英訳されていることばなので、その書をわれわれは「ジョーク論」と受けとってよさげ。そしてその主張の1つとして、『ふつう言えないホンネを主体が言うための手段がジョーク』、なのだ。
だから筆者は腐男子じゃないけれど(?)、いちおう美少年とも言える「俺の空」の主人公に対して、この運ちゃんが『実は』邪欲をいだいていなくもなかった、と考えたい気持ちが現在もなくない。

そういえば、以前の同僚でうっとうしいやつがいて、いつも仕事が立て込んでくると、『iceさん、ボクはもう帰りますから』と、やったら何度も言っていた。それが毎度すぎたのでしまいに、『じゃ帰れ、二度と来んなッ!』と言いわたせば、向こうはしれっとして、『やだなァ、“冗談”じゃないスか』などとぬかすのだった。
これについてまず言えることとして、彼においては『職場を放棄したい』というのがホンネに他ならない。言われたオレの方だって、大して気分は変わらなかったんだから、そこは別に責めないが。けれども彼の言語活動がジョークとして大失敗していたのは、『誰をも笑わせていない』という問題点による。

なお、ここでジョークが成り立つために笑うものは、横で聞いている第三者であってもかまわない。かつ、もしもさきの『冗談』で笑えるようなすなおな人がいたら、その受け止め方はこうだろう。『あははっ、職場放棄とかありえないし!』。かくて、言われたホンネが出まかせとして受けとめられるすれ違いから、ジョークの笑いが生じる。
ところが筆者は『ジョークはホンネである』という事実を知っており、かつ善意に乏しいひねくれ者であり、しかもはるかに洗練されたギャグまんがに毎日目を通して感覚をきたえているのだから、彼にとっては相手が悪かった、としか言いようがない。ちょっとは笑えるようなことを言ってこそ、『言えないホンネを言う』ことが許容されうる。これは憶えておきたい。

と、ほとんど同じことを、世紀をまたいで週刊少年サンデーに載っていたギャグ作品、杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」が描いている。
その作中、なぞの中年ヒーロー≪ダイナマ伊藤≫の身体から、爆発物反応が検出される。そこへかけつけたデカ長は、さいしょだけ石原プロ作品的に勇ましいが、けれどもまじで爆発物があるらしいと知ったとたん、若い刑事の相棒に『あとは頼む』(!)と言い残し、自分だけさっさと逃げようとする。
しかしとうぜんながらきっつく呼び止められて、デカ長はしぶしぶ現場まで戻ってくる。そして言いぬけするには、

 『冗談冗談マイケル ジョーダン。
 心は本気だが、立場的には 冗談だ』

というのだった(少年サンデーコミックス版, 第1巻, p.44)。
しかしこの『冗談』は、『冗談もダジャレも やめてください!!』と、彼の相棒にはまったくの大不評に終わる。そこで第三者として見ているわれわれが笑うにより、やっとデカ長の発話行為が、からくも『冗談』として成り立つ。

このように『心は本気だが、立場的に』、いちおう否定されている言説、それがジョークなのだ(なおこの堕文では、ジョークと冗談とを区別していない)。そういえば、ギャグに限らずまんがには、やたら人へと『死ね!』なんて『冗談』(?)を飛ばす人らが出てくるが…ッ!
かつ、『言えないホンネを“冗談”として言う』、という行為の心理的な効用は、フロイト様も述べておられる通り。そしてその逆には、『聞きたくない他者のホンネを、“冗談”かのように受けとめて笑殺する』、という行為がある。一方はそれを言いたい、もう一方はそれを聞きたくない、そのような言説らが『冗談』として笑いを介するにより、やっとこの世に発生しうるのだ。

また。『このさいオレたち、付きあっちゃったらどうよ?』なんて言い方でなされる『“冗談”めかしての告白』、ということが話題になるが。それが出てくる理由は、『相手が告白を聞きたくないかもしれない』という、一種の善意(?)にもよる。
何せ女性たちはやさしいから、真剣な告白を真剣にことわるということもたいへんだ。そこでそうじゃなく、『ウフフ、iceクンてば、ふざけないでよ~』のようなかわし方を相手に残しているのは、こちらの善意とも考えたいわけだが?

とまあ。それこれによって、われわれはここにおいても、フロイトの理論とギャグまんがのなしている『意味』とのシンクロを見たのだった。
ところで杉本ペロ「ダイナマ伊藤」という作品だが、しかしそれは主としたら、こんな『意味』の分かることばかりを描く作品でもない感じ。どっちかと言ったら≪不条理系≫なので、その主な内容についてはいずれまた別の記事にて!

【余談】 ほんとに余談だが、「俺の空」についてもう少しだけ。その第3巻の巻末に野坂昭如がそれへの『解説』的な文章をよせているのだが、これがけっこう手きびしい。ほめているようには、ほとんど読めない。
その文中の印象的なフレーズらだけ抜き書きしとくと、『古典の形式を踏襲』はまだしもいい方で、『月並みの本領』、『確実に男を癒楽させてくれるという原則』、『せちがらい昨今、せめて束の間でも』、『鼻毛抜きつつ読んで楽しむ』、『不毛のロマン』、『時に見るに忍びない』。そうして、『これをいかに血肉にとりこむか。それは読者の側の問題である』、というのだった。

2010/05/04

氏家ト全「生徒会役員共」 - 少子化があまりに深刻で…!

氏家ト全「生徒会役員共」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「生徒会役員共」
関連記事:カテゴリ“氏家ト全”

筆者がかってに考えた『下ネタギャグまんが家の御三家』の一角として、竹内元紀・古賀亮一らとともに高みに並び立つ、われらが氏家ト全センセイ。以下で話題になる「生徒会役員共」(2007)は、その現在の少年マガジン掲載作で、『ほぼ』題名どおりの内容の学園4コマ。単行本は第3巻まで刊行中(KC少年マガジン)、そして『近日TVアニメ化』とのアナウンスもあり(4月28日付・少年マガジン誌上)。

で、まずは作品の周囲の話題から。生徒会とその活動を描くまんが作品が、近ごろみょうに多いような気がするのは、おそらく錯覚じゃない感じ…と考えて調べていたら、Wikipedia「生徒会を題材とした作品」(ライトノベルを含む)という資料がめっかった。
これでも十分に『多い』と言えそうだが、さらに、このリストからもれている作品の数が、おそらくかなりにのぼりそう。何せ、当代の少女まんがの大ヒット作「会長はメイド様!」すらが、もれているくらいだから(現時点において)。
ともかくそのリストをざっと眺めてみると、その中にヴィンテージ級の名作は、一条ゆかり「有閑倶楽部」(1980)だけ。あとの大部分は、せいぜいLate 1990's以降の作品っぽい。するとやっぱり、筆者の感じは錯覚でなさそう。

そして、『なぜいま、生徒会のまんがなのか?』という問題についてちょっと考えると、まんが全盛期の作品らが基本『反権力』で、反抗を大いに肯定的に描くものだったのに対し、いまはそればかりじゃないらしい、というふしがある。
そういえば、日本という国家自体が衰亡に向かっているのではないか、という認識が、むかしはなかったように思うし。また、うかつに反抗を実践すると体制が根本的に壊れてしまうのではないか、という心配が、いまはなくもない感じだし。そういう時代のふんいきに対応したものとしての、『生徒会のまんが』なのだろうか?
というところでギャグの作例らを見てみると、河田雄志+行徒「学園革命伝ミツルギ」(2005)の主人公らは、少子化にともなう生徒数の減少、という問題にギャグで対応しようとしてるのだし。また今作「生徒会役員共」の舞台の学園もまた、『少子化の影響』によって、女子校から共学になったのだし。

てなわけで、尻すぼみに衰亡している社会と、それを(ともかくも)支えようとしている体制の危うさ、といった認識が、『生徒会のまんが』出まくりという現況の背後にあるのかな、という気がしてきた。

 ――― 氏家ト全「生徒会役員共」, 『ストイック学園』(第1巻, p.26)より ―――
女子校の名門だった『桜才学園』の男子生徒1号となったヒーロー≪津田くん≫が、むりやり生徒会の副会長にさせられてしまう。で、彼が生徒手帳を見ると、学校の校則がきびしいのでびっくり。恋愛禁止、ヘアカラー禁止、買い食い禁止、等々と。
にしてもきびしすぎなのでは、という相談になったところで生徒会長の女子≪シノ≫は、思い切った大英断をおこなう。いわく、『では 恋愛はダメだが オナ禁は解禁しよう』。

あたりまえだが、いくら厳格な学園でも、オナ禁という校則はないのだった。ここでは、『禁じられていないことの実行を許す』ということで≪何か≫をしたような気になっている権力、その根本的な戯画性、ということが描かれているかな、という気がする。

さらにまた、生徒会役員らが、この社会の少子化が深刻だ、という話をしていると、シノはみょうにまじめな表情をして、『我々生徒会も できるかぎりのことを やろう』と言い出す。すなわち、『将来 性行為 する際は 常に○出しだ』(第1巻, p.50)。
…と聞いて『よく臆面も なく言えるな』と津田くんがツッコんでいるように、くだらないのではあるが。しかし『場当たりの策にすぎる』という点でそれは、現在までの政府の少子化対策案らと、何ら選ぶ所がない。

それこれ見ていると。これ以前の氏家作品に関して筆者は、『風刺的』という特徴をあまり感じたことがなかったが、ここらでそういう面が出てきているかな、という気がしてきたのだった。
かくてこの作品「生徒会役員共」は、権力の中枢にとぐろをまく下劣さを遠廻しにえぐり出しながら、しかしそれを完全に撥無しているのではない。くそまじめでありつつもおかしいことばかり言っているシノ会長の前でわれわれは、ヒーローの津田くんとともに、反応に困る。この困っている状態の、甘からく痛がゆい心のうずきが、今作のひとまず描いているところであろうかと。

とまでをイントロとして見ておいて、「生徒会役員共」の話題は、遠からずまた!

2010/05/03

氏家ト全「アイドルのあかほん」 - She's So Cold!

氏家ト全「アイドルのあかほん」 
参考リンク:Wikipedia「アイドルのあかほん」

筆者がかってに考えた『下ネタギャグまんが家の御三家』の一角として、竹内元紀・古賀亮一らとともに高みに並び立つ、われらが氏家ト全センセイ。そのさんぜんたる作品系列の中で、唯一の失敗作かのようにも見られそうなのが、以下で見る「アイドルのあかほん」(2006)。
で、だ。筆者はさっきまで、ト全センセの現在進行中の作品「生徒会役員共」(2007)について書いていて、まず「アイドルのあかほん」への言及の必要を感じたのだった。そこで「役員共」の話へのイントロとして、以下に「あかほん」についての当時の旧稿を、ちょっと直して掲示させていただきたい。



 『She's So Cold - 「アイドルのあかほん」と呼ばれる本』(2007/01/17)

道を歩いていたら急に発売日だと思い出したので、われらが氏家ト全センセの最新刊「アイドルのあかほん」第1巻(2007, KC少年マガジン)を買った。
そしてまた痛いめに遭ったのは、実態としてはそれが『全1巻』なのに、『第1巻』かのようなていさいで出ていることだ。いずれは続刊があるものかと思ってたら、だまされたッ。ふつう『全1巻』の本の表紙に【1】とは刷り込まないだろうに、どうなってんだか。
つまりこんなことになってそうな気はしていたのだが、ようするに打ち切りに近いかたちで、その少年マガジンへの連載は終わっちゃってたらしい(2006年28号~48号, 全20話)。ということの間にも、同じト全センセがヤンマガに連載中の「妹は思春期」第8巻(12/6発)は、大洋社コミック総合チャートのTOP10入りを果たす…と、ずいぶん両作の明暗が分かれている。

しかも自分がなお困るのは、この「アイドルのあかほん」第1巻を通読した上で、あんましほめるところがない(!)。これを掲載誌で見ていた頃から思ってたんだが、まずアイドルという題材が面白いように思えないし(!)、それとヒーローっぽい男子が23歳のイケメンマネージャーという点も、よくない。もしこれが少女まんがなら、そんなヒーロー像もありだったかもだが…(ト全センセのお作には常にどこか、少女まんがを意識しているような感じはある。あるのだが…)。
そうじゃなく、メインキャラクターのやたら年齢差がある少女3人(16歳、13歳、そして 10歳)は活かしつつも、≪少年≫と呼べるようなヒーローを配して違う世界でのコメディにしていたら、もう少し何とかなっていたのでは?
…というようなことも言えるが、けれども筆者が見る最大のポイントは、≪真理≫…それも≪外傷的な真理≫に乏しいギャグまんがはよろしくない、ということだ。

というのもこの作品の中では、13歳のヒロイン≪シホ≫による『かみぐせ』(“言いまちがい”の頻発)が、われらが大フロイト博士の名著「日常生活の精神病理」(1901)が描き出したような回路で、≪真理≫っぽいものを回帰させている。またもやここにも≪フロイト-ラカンの理論≫に対する挑撥が、ある。
つまり、えっと、この場でご紹介できそうな例は…。ちょっとしたステージの上で、人前に出たら『てれちゃいます』、と言おうとしたところでシホは、『ぬれちゃいます』と発語した(氏家「アイドルのあかほん」第1巻, p.71)、など。そこらに最大のフィーチャーがある(!?)わけだが。

しかし問題なのは、その言語活動の表している≪真理≫と状況との距離が、離れすぎ。すなわちシホの≪パロール≫(人に向けて語り、かつ騙る実践)の失敗が明らかにする『人間は“必ず”性的な存在である』という≪真理≫が、このような状況で飛び出したのでは、個々の人間に対してあんまり痛くない。つてもぜんぜん笑えないとまでは言えないのだが、しかしパロールの受け手らに対しての≪外傷的な真理の現前=ギャグ≫という境地にまではいっていない。

つまりさきの例で言えば、じっさいには(おそらく)シホはその場で発情なんかしていないのだから、そこではパロールの過激さばかりが宙に浮いている。…という印象を与えるようでは、マズいかと。だのに、それの連続があるのだ。
しかしあたりまえのことだが≪下ネタギャグ≫を飛ばせば人は笑う…というほどかんたんではないし、かつそれを言うのがいたいけな少女だったとしても、そのこと自体の≪外傷性≫はそうそう持続しない。よってそこでは、ヒロイン独りがかってに『痛い子』へとなり下がってしまっている(…涙)。
そうして「アイドルのあかほん」という作品の失敗ぶりを見る時われわれは、先行した氏家ト全センセの2作品の偉大さを、遡及して逆にかみ締めるようなことになっているのだ。少なくとも1人の『発情している誰か』がいるからこそ、 ≪下ネタギャグ≫は活きる…という事実を知るに至りながら。

で、その『発情している誰か』が、見ている“われわれ”であったとしても、別に悪くはない。ところが『アイドルの世界の舞台ウラを見せちゃう』という今作の趣旨は、“われわれ”を発情させはしないようにできている。もちろん舞台裏を見せないがゆえの、≪アイドル≫という存在なので。
だいたい今作の冒頭でシホは、『私も この身体 売るぞ――!!』というたいへんなことばで芸能活動への意気込みを語るが、ほんとにじっさいのところ作中でなされていることは、≪ビジネス≫以外の何でもない。よって“われわれ”がそこへ幻想を投影する余地があるようには、描かれていない。

しかしそのようには言いながらも、読了する頃には、3人組ユニット≪トリプルブッキング≫をなすヒロインらへの愛着が少しは湧いてきている…という自分の中途はんぱな人情が、この中途はんぱなところで終わっている作品の中に『自分の一部分』を残してしまっているようで(=ラカン用語で言う≪対象a≫の敷設)、何とも中途はんぱかつ歯がゆくも切ない読後感があったのだった。

ところですぐに分からねばならないことだが、この「アイドルのあかほん」最終話の中でおしゃべりしているなぞの少女たちは、同じ作者の前の連載「女子大生家庭教師 濱中アイ」のわき役の3人娘。つまり意外だが(!?)、お話がつながっていたらしい。
そうしてまたこれの続きか何かとして、いつか少年マガジン誌上にわれらが氏家ト全センセの新連載はあるのだろうか? ぜひあって慾しいのだが…ッ!!



と、そんなことを、2007年初頭に書いていた。見ていて自分で、いまならこのようには書かない、と感じる点が多いが、それはともかく。
そして続いた「生徒会役員共」は、仕切りなおして関連誌のマガジンSPECIALからスタートしつつ、たぶん好評によって週刊のマガジンへと昇格して現在に至る。かつ「役員共」の単行本・第3巻の巻末作品では、「濱中アイ」と「役員共」の作品世界らがリンクされている。
つまりこの件に関しては、とんでもなく珍しいこととして、筆者の希望がかなったのだった。そのことをまず喜びと申し上げつつ、この話は「生徒会役員共」の記事へと続く。そこではもっと、かみくだいたことばで、ト全センセのお作を語る予定。

2010/05/02

三上骨丸「罪花罰」 - 倫理としての美学、または口唇期の次の段階から

三上骨丸「罪花罰」第2巻 
関連記事:三上骨丸「罪花罰」 - 巴里の憂愁、帝都の腐臭(?)

近年のジャンプ系のギャグまんがで目立っているものには、ボケツッコミというよりも『ホームズ-ワトソン的』と形容したくなるような、Wヒーローのコントラストをフィーチャーしている作品が多い感じ。まず、うすた京介の2大傑作(「マサル」および「ジャガー」)がそうだし。また「ギャグマンガ日和」にしても、その中で主要な『芭蕉と曽良』や『聖徳太子と小野妹子』らのシリーズはそうだし。
そしてこのジャンプスクエア掲載作「罪花罰」もまた、何かと超越的すぎるヒーローと読者の代表っぽいキャラクターとの凸凹コンビをフィーチャー。前者がもちろん『罪花罰』の店長こと薔薇紋であり、後者はバイト店員の桔梗クンだ。

そして今作中ではその桔梗クンが、薔薇紋をはじめとする変態たちから、やたらに好かれたり、またはねちねちとからまれたりしてしまう。薔薇紋の暴走をおさえて自分のおしりを守るだけでもたいへんなのに(!)、彼たちのもとには次々と変質者たちが現れる。
その変態らの主なところを見ておくと、まずは薔薇紋のいとこでいいなづけを名のる、手芸と華道の天才少女≪ひなぎく≫。次に桔梗クンと同じ学校の、一見兇暴そうな不良だが実はドMのパンク少年≪蘭クン≫。さらには『罪花罰』の近くの八百屋の主人で、ふだんは知的な好青年だが『野菜コンプレックス(ベジコン)』というなんぎな性癖をもつ≪柚子≫、等々々。

で、こいつらがいずれもたちの悪い変態ではありながら。しかしわれらの桔梗クンは、そいつらの暴走に対してツッコんだりガードしたりしつつ、だがそのいずれにも、わりと一目おいている感じ。そして薔薇紋たちが、変態とはいえ何かに秀でたものであるに対して、自分にはそういう≪何か≫がないとなげくのだった。

 『みんなそれぞれ 才能があって(中略)
 なのにボクだけ なんにももってなくて』(第2巻, p.95)

そしてそこらに、われわれの視点がある。われわれの大部分は、天才でもなければド変質者でもないがゆえ(…例外もあろうけど)。
かつ、このように『何かになりたい』と痛感している桔梗クンに対して薔薇紋は、ときどきやさしく『きみはすでにそのままで≪何か≫なのですよ』的なことを言う。その甘言こそわれわれが、『実は』聞きたいことばでもある。がしかし薔薇紋は、まずは桔梗クンの若いピチピチボディに注目しているのではありつつ(!)。

で、見ていくと今作「罪花罰」は、巻が進むごとに、ちょっとお話が軽快さを失い気味。常人の代表として出ているはずの桔梗クンの根のクラさが、じわじわと目立っているストーリーが多し。
そういえばどこだかで、桔梗クンがつらい目に遭いすぎて放心し、『どうせ死ぬのに…』(!)、みたいなことをつぶやく場面があったようだが(いまちょっと発見できない)、それこそが今作の裏のテーマではありそう。
そしてそうした『どうせ…。なのになぜ?』、という問いかけに対しての今作の答が、薔薇紋たちが言っている『生をまっとうし、かつ、美をまっとうすべし』というような、倫理としての美学なのではなかろうか?

だからわれらのボードレール様がブチあげたものとしての『耽美』、言い換えて『腐敗と滅亡の美学』みたいなものは、たいへんに不健全そうでもありながら、実は人間肯定のきわみに他ならないのだ。『どうせ』人間なんて死ぬまで(もしくは死後まで)美しくはいられないわけだが、そのさいごの過程までをも『美』として高みに見よう、という趣旨なわけなので。
そしてそこいらの甘くも苦い認識を≪ギャグ≫として表現している今作「罪花罰」は、筆者が申す『ほんとはあまりゆかいでないネタを、むりにでも笑いという反応に方向づける』という≪ギャグまんが≫、そのど真ん中の創作と言ってまったくまちがいない。

ここでその≪ギャグ≫の黒いとこを、1つご紹介。ボランティアで近くの幼稚園のハロウィンを演出することになった、薔薇紋と桔梗クン。『コレに着替えてください』と言って薔薇紋は、黒地にガイコツの描かれた全身タイツを渡す。
そこで桔梗クンが着替えるとそのタイツのもようが、胴体の真ん中あたりから、臓モツやなまなましい死骸の絵になっている(!)。びっくりして、『なんだコレわぁぁあ』と桔梗クンが叫ぶと、薔薇紋は晴ればれと愉快そうに言うのだった。

 『腐敗してゆく経過を リアルに表現してみました
 ハハハ 滑稽でしょう?』(第2巻, p.69)

と、そこらまでを見てから筆者の言い訳(!)。ちょっと自分が疲れ気味なので、人さまの創作の重さを指摘する前に、この堕文がいつも以上にきれてなくて、諸姉兄に対してはひじょうに申し訳ない。この「罪花罰」は大好きな作品なので、これについては近くまた必ず見ていくこととして。

で、この堕文のさいごに1つ、筆者的に大注目してしまったエピソードをご紹介。そのハロウィンのお話の続きで、園児たちに見せる人形劇に薔薇紋は、桔梗クンにそっくりでおしりの大きさとツヤを強調したキャラクターを登場させる。名づけてそれが、『妖精の“尻ック”』。
というセクハラをこうむった桔梗クンは怒るが、しかし尻ックを見て園児たちは、『おしり~ ギャハハハ』とか言って、意外と大いに喜んでいる。そこで解説して薔薇紋がいわく(p.80)、

 『彼ら(註・園児たち)はリビドー発達 段階で言うと
 ちょうど 口唇期の次の段階に いますからね
 この時期にトラウマを 与えてやると 将来アレな感じに… ククク』

はっきりとは言っていないのがにくいところだが、ここで薔薇紋が参照しているフロイトの性発達理論でいうと、口唇期の次の段階は≪肛門期≫なのだった。
というわけで薔薇紋サマもまた、いまこそフロイトに学ぼうというわれらの同志であったのだ。それを『イエ~ス!』と一瞬は悦んでしまったが、しかしその理論を『逆に』悪用しようというのは、ひじょうによろしくないぞッ!?

2010/05/01

三上骨丸「罪花罰」 - 巴里の憂愁、帝都の腐臭(?)

三上骨丸「罪花罰」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「罪花罰」

いちおう『新興』の媒体と言えそうなジャンプスクエアは、その前身の月刊少年ジャンプから移行の「ギャグマンガ日和」が看板連載ということもあってか、びみょうにギャグへと力が入っていそうなふんいき(だった)。その2007年12月の創刊と同時に、ポンセ前田「世界の中心で太陽にほえる」、服部昇大「魔法の料理 かおすキッチン」、そして今作と、フレッシュな作家らのそれぞれ新味あるギャグ作品を送り出しており。
で、その3本の中で、1つだけ現在も連載中なのが、今作こと三上骨丸「罪花罰」。題名の読み方は、『つみかばつ』。どんな作品かって宣伝文句によれば、『お耽美変態フラワーギャグ』(第2巻・帯)。
さいしょに1つ感動したところを述べておくと、この作品のジャンプ・コミックス版が第3巻まで出てるのだが、そのカバーの色味がひじょうに美しい。そのへんに置いといても、気分がいい。飾りものにもなるようなギャグまんがの単行本なんて(再刊ものは除外し)、これ以外には知らない。

ところで。筆者は人と知りあうと、その運の悪い人に対して、『あなた何か、心に残っているギャグまんがってありませんか?』、などとたずねてみる場合がある。その問いに対して1人の女性は、『う~ん、「パタリロ」とか?』と、答えてくれた。
そっか、そんな作品があったなあ…。筆者から見ると≪ギャグまんが≫というものでなく、『国際アクションコメディ』って感じだけど。ただし『耽美』っぽい要素と笑いとを結びつけた創作として、それは初期の重要な貢献ではあろう。

『耽美-と-笑い』というと思い出すことがあって、1983年の山上たつひこ「JUDOしてっ!」のヒーローが、すごいナルシストの美少年で、そして世界を耽美チックに見ているのだった。その彼が、なぜかむっさい柔道部で活動しなければならない、というギャグだった。
そうすると。ギャグまんがのヒーローに美少年をもってきて画期的だった鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」、ギャグと耽美を組み合わせた「パタリロ」、それぞれがもろに山上「がきデカ」の影響下の作品だと考えられているが、追っての「JUDOしてっ!」では、それぞれの発展させた要素が、再び「がきデカ」の作者による創作へと回収されているもよう。しかし惜しくも「JUDOしてっ!」は、あまり成功作とも言えないものに終わったけれど。

と、そんな時代から細々と描きつがれてきた『耽美系ギャグまんが』の中で、2004年からのマガジン系の作品、やきうどん「主将!! 地院家若美」には、また画期的なところが大いにある。なぜか再び柔道部のお話になっているが、そうとしても「地院家」の描くような、マッチョと巨乳が格闘技でぶつかりあう『耽美』などという発想が、いにしえにはなかった。その萌芽的なものとして、中途はんぱな作品だが田丸浩史「超兄貴」(1993)の存在もありながら。
そのような「地院家」の発想がどこから出てきたものかというと、Mid 1990'sにはやったSNKやカプコンの格闘ゲームの『やおい』パロディとか、そんなところかもとは思いつつ。…が、よくは知らない世界なので言い張らない。ともかく「地院家」は超重要なので、詳しくはそれを主題にしたときに。

で、このたびの主題の「罪花罰」は、もっと1970's的なニュアンスの『耽美』を描く、よい意味でのレトロなテイストがある作品。いっそ、竹宮惠子先生が表紙を描いていたころの『JUNE』っぽい、というか。またレトロというなら、さきに見たスクエア創刊時の新鋭のギャグ3作、なぜだかぜんぶがレトロっぽいテイストの作品でありつつ。
また、これはいちおう少年まんがと見ておくけど、スタイル的には少女まんがの方に近いかも。ただし少女誌に載せてうけるようなものとも考えがたいので、これこそいわゆる『ニッチ』の創作というものだろうか。

ではその『罪花罰』の概要を見ておくと、どこかの町のいかしたお花屋さんの屋号が『罪花罰』。その店長の美青年≪薔薇紋(ばらもん)≫は、華道の家元の跡継ぎという立場を棄てて、独自の崇高なる美学を追求しまくっている耽美ガイ。何せ彼自体があまりにも≪美≫なので、ほっとくとすぐに服を脱いで、その美しさを誇示してやまないのだった。『耽美』とはとうぜんそういうものだが、彼の実現しようとしている美は、俗世間から見て、あまりにも過剰であり尖鋭すぎるものなのだった。
そしてバイトの美少年≪桔梗クン≫は、その店長から注がれるむやみな愛の大いさに、そして薔薇紋の先鋭的美学の押しつけに、いつもまいっちんぐなのだった。薔薇紋から桔梗クンへの随時のセクハラとストーカー行為こそ、今作が『基本』として描いているものなのだった。

ところで今作をず~っと見ていると、桔梗クンの脳天のいわゆる≪アホ毛≫(へんにはねている毛髪の束)の描き方が変わってきている。さいしょは地味にとがっていたものが、その第3巻を見れば『もっこり』と、たいへんにパワフルなしろものに…っ!
そこにとうぜん何らかの≪意味≫を、うっかりと見出してしまいそうなわれわれではある。そしてたいへん申し訳ないが、この話の続きは明日かあさってに…!