2010/09/29

ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」 - オトコには男の乳頭が、あるっっ!!

ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」第2巻 
参考リンク:Wikipedia「ロドリゲス井之介」

「踊るスポーツマン ヤス」、これは確か2年くらい前に秋葉原のブックオフ店頭で、初めて見て知った作品。1999年からヤングサンデー掲載、単行本は全4巻(ヤングサンデーコミックス)。
ただし筆者の手元には、その初エンカウント時に買った第3巻までしかない。例によって全国のスポットを探し廻っているけど(誇張あり)、いまだ第4巻を見たことがない。

そもそも全4巻だという情報も、いま調べて初めて知った。関心がないんじゃなくて、現物がないのに『情報』があってもしょうがねえ…というのが、オヤジの感じ方らしかった。
もともとが筆者はレコードマニアなので、『“目の前の”ジャンクの山を掘る』ということが好きなのもある。そしてアナログレコードを掘ることに比べたら、背表紙だけ見て分かるような古まんがあさりの方がぜんぜん楽なので、『趣味悠々』的にアダルトたっちで成り立つ。

で、買ったころに職場の男子更衣室で、ちょっとまんが談議のようなことになり。そこでオレは、今作「ヤス」の第2巻をカバンから取り出して見せた。

 【オレ(アイスマン)】 いま、こんなん読んでんスよ! ククッ、見てくっさいよコレ!
 【同僚】 (カバーを見ていきなり、)な~んスかこりゃっ! ギャハハッ、くだんなそー!

これが、オトナ同士の漢の会話だ(キリッ)。そして、くだらなさ以外は何もないような今作について、このようなリアクションがあったことは、その1つの大成功と言えよう! とは言ってもたぶんセールスがいまいちだったので、その単行本が無意味にレア化しているわけだが!

さて今作「踊るスポーツマン ヤス」の内容につき、筆者が概要を書いていると例によってくどくなるので、版元さまのサイトから宣伝文を引用いたせば(*)。

『全世界のスポーツを牛耳る組織ゼロンが支配する学園に突如降臨した。スーパースポーツマン・ヤス!! 超絶バトルの連続に笑うしか術はない!!』。
…とは、途中の『。』の入り方が何となくおかしいが、しかしこれでよくお分かりですねっ!?

その宣伝文が、ともかくも簡潔なのは見習うべきだなあと思いながら、ちと補足いたすと。『ゼロン学園』という弱肉強食の世界で、ぞんぶんにしいたげられている語り手≪ミチル君≫らのどんくさい『補欠部』。そこへ、なぞめいた長い修行を積んで『スーパースポーツマン』に生まれ変わったヒーロー≪ヤス≫が、ふいにカムバック!
そして親友だったミチル君を救うべく、ヤスは補欠部をスーパースポーツ部に生まれ変わらせ、ゼロンの支配体制にバトルを挑んでいくっ! かつ銘記せよ、スーパースポーツ部の標語は、『スポーツ・セックス・サイエンス』の≪スリーS≫だっ!

というわけで、盛り上がってきそうだが! だがしかし! われわれがつい期待しちゃうような『スポーツ・セックス・サイエンス』の様相などは、今作には1つも描かれていない! いやまじで!

そもそもだ、常人らの2~3倍ものスポーツ能力を有するらしきヒーロー≪ヤス≫、彼の風貌がしまらない。ちんちくりんの小太りで、へんにハネている前髪とタレ目型の銀ぶちメガネにアクセントがあり、そして目が小さくて鼻が横にでかく唇がブ厚い。…と、一見、単なるスケベな中年オヤジ風なのだった。
いやじっさいにヤスは、とほうもないドスケベでもありつつ。そして眉間の深~い縦ジワだけが、唯一、彼の顔をキリッと見せている要素なのだった。
なお、ミチル君の記憶する過去のヤスは、背も高くてもっとカッコよかったらしい。もしも人物の入れ替わりが『なかった』とすれば、スーパースポーツの修行の過酷さが、彼を変貌させちゃったらしいのだが。



なんて、ご紹介のようなことはこのくらいにして。この「踊るスポーツマン ヤス」の作中で、筆者のとくに関心ある部位の話をさせていただこう。
すなおに申して今作は、読んだ範囲内、その第1巻がいちばん面白い。追ってだんだんグダグダ気味に、とは思うけど言わない。そしてその「ヤス」第1巻とは、主に≪何≫が描かれたものかというと?

…≪男の乳首≫というアイテムについて、われわれはどう考えるべきだろうか。かの竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」のどこかには、『男の乳首なんか なくなってしまえー!!』とかいうせりふが出ていたが。
またちょっと違うところを見ると。ご存じ、梶原一騎&辻なおきの名作プロレス劇画「タイガーマスク」(1968)。その原作では『ほとんど』、そのアニメ版では『まったく』、男の乳首が描写されていない(*)。その存在が、≪抑圧≫をこうむっている。幼時の筆者はその表現を真にうけて、『大人になれば、または強いレスラーになれば、そんな要らなそうなものは消失しちゃうのだろうか?』、などと本気で思い込んでいた。
さらに、今作「ヤス」から約10年後。同じヤングサンデーの掲載作「ジャパファイブ」のヒーローは、相棒のおデブ君のおっぱいを接写した映像を見て、分かっているのにうっかり興奮しちゃってから、天に向かってこんなことを叫んだのだった(佐藤まさき「超無気力戦隊ジャパファイブ」第4巻, ヤングサンデーコミックス, p.31)。

 『教えてください、神よ!! なぜ男にも乳首を おつけになられたのです!!』

と、このように話していると、≪男の乳首≫というものは、まるで哀しみの代名詞でもあるかのように思えてくるのだが…。

ところが今作「踊るスポーツマン ヤス」は、これらの問いかけに対し、『否、否! しかりっ!』と、超パワフルかつ肯定的に答えているものなのだ。そしてその力強いメッセージ性が集約的に描かれているのが、今作第1巻の、『乳頭つまみ』という凄絶さをきわめたバトル編なのだった。

だいたい物語の冒頭から、今作は≪男の乳首≫という物件を、ひそやか&ろこつに大フィーチャーしている。ゼロンの惨状をミチル君から聞いたヒーローは、男の憤激に燃え立ち、そして『ぬうううぅぅぉぉぉ!!』と叫んで気合いを入れれば『ビビビビッ』と一帯に電光が走り、そして服を突き破って、怒張しきった彼の2つの乳首が飛び出す!(第1巻, p.26)

 【ヤス】 怒りは、乳頭をも 鋼鉄と化す!!
 【ミチル】 ヤスくん… キレイな… 乳頭だね…!!

ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」第1巻追ってヤスたちの反逆に対抗し、ゼロンの生徒会長のお色気キャラクター≪優香≫は、『ビキニ隊』という刺客をさし向けてくる。一瞬なにかを期待させるわけだが、これが実はビキニの海パンを身につけたマッチョの集団であり(!)。そして優香はヤスたちに、『乳頭つまみ』という競技でビキニ隊と闘え、と言うのだった。

『乳頭つまみ。10m×10mの囲いの中で 1人vs1人で互いに半裸になり 単純に相手の乳頭を指でつまむ競技。勝敗は、タッチ&エクスタシー方式によって決められる。(民解堂書房刊「古代格闘技大辞典」より)』(第1巻, p.50)

で、双方3人ずつによる勝負となり(一方の2勝で決着)。まずはわれらがスーパースポーツ部の先鋒たるミチル君が、レフェリーの『つまめ!!』という合図で闘いに臨む。がしかし、セコンドのヤスの指示がでたらめすぎたせいもあり、あっさりとやられてしまう。
その、さいごのやられ方というのが。目の前で宙返りした相手に軽くバックを取られ、次の瞬間には背後から巧みに、両方の乳頭を激しく責められて…。そしてわれらのミチル君は、『あぁあぁ あぁあぁ!! だめぇ~!!』と悲痛な叫びを上げながら、パンツの中にて『ピュッ ピュッ ピュッ』…と、あえなく果ててしまうのだった(第1巻, p.70)。

そこへレフェリーの『エクスタシー 1本!!』という宣告が、たぶん数万人の観客を収容した、巨大な特設コロシアムの中に響きわたる。
それから続いた第2戦の描写も面白いんだけど、このさいさくっとそこは略し。

で、その第2戦も惨敗しちゃったので、われらがチームの敗戦が確定(!)。そのあんまりなふがいなさには、優香も少々呆れるし、かつ大向こうからは、『おまえらウンコだ!! しょせん補欠部!』…等々の激し~い罵倒がヤスらへ。
それにたえかねてヤスは憤激に燃え、『オレ一人で即攻 ビキニ隊全員を倒してやる!!』と宣言。特例が認められて延長戦が始まり、闘志まんまんでリングに上がったヤスは、レフェリーの『つまめ!!』という合図を聞くと、すかさず即攻でラウンドガールの乳頭を、つまみにかかるのだった。『コリコリ』と。

…いや、ま、それは余興で! あっという間にわれらのヒーローは、2匹のビキニ隊を、『ドピュッ ドピュッ』と絶頂に導いてしまう。
そこで束になってかかってきた残りのビキニ隊は、≪乳頭隣抓(にゅうとうりんそう)≫という恐ろしい大わざを出してくる。これは横一列に並んだオトコらが、手を伸ばして隣りのやつの乳頭をつまみ、あらかじめ仲間同士で乳頭をガード、という鉄壁の布陣に他ならない。と言ってる間にもタイムアップが迫る、あやうしッ!

しかしヤスは、そこで『スーパースポーツ右脳』とかいう特殊な器官を用いて、乳頭隣抓の弱点を発見。つまりこのフォーメーションだと、列のはじっこのやつの乳首が片方、ノーガードになっているのだ。
という指摘を聞いた優香は、不敵な笑みをもらし、そしてリング上のビキニ隊に『乳頭輪抓よ!!』と、別の布陣を指示する(第1巻, p.108)。
この≪乳頭輪抓(にゅうとうりんそう)≫とは、乳頭隣抓の欠点を克服すべく編み出された超荒わざだそうで。互いの乳頭をつまみあったオトコらが、内側向きの輪になって、すべての乳頭らを完ペキにガードするのだ。まさに難攻不落の陣形、あたかも万里の長城のごとし…ッ!

しかし、われらのヤスは! 敵の乳頭輪抓フォーメーションが完成する前に、何と自らもその輪の中にまぎれ込んで!
そして隣りのやつの乳頭をコリコリと責めながら、『乳頭連鎖!!』と叫ぶのだった。するとまさしく連鎖反応で、輪になったビキニ隊たちは、互いの乳頭をコリコリ、ギュリギュリと責めあい始めるのだった(!)。
だが、なぜこのような≪連鎖≫が生じるのだろうか? …というミチル君の心の声による疑問にすかさず応えて(友情の以心伝心っ?)、ヤスは言う。

 『人間とは!! 自分が 相手に気持ちよく してもらったら、
 その相手にも気持ちよく なって欲しいものだぜ…』

これを見てやばいと感じた優香が、リングの下から『何を やってるの!! 乳頭連鎖解除よ!!』と叫ぶも、彼たちの≪連鎖≫は止まらない。そしてビキニ隊のリーダーらしきやつは、高まる興奮と快感に鼻の穴をおっ広げながら、優香に言う。

 『優香さん… 僕達も人間なんです…
 自分が気持ちよくして もらうだけなんて… できません…
 相手も 気持ちよく してあげない と!!』

ここにてすでに、勝負は決していたのだった。こんなところをあまり精細に描写するのもなんだが、やがてビキニ隊たちは全員が、ほぼ同時にオーガズムを迎えてその場にパタリと倒れ、リング上に立っているのはついにヤスだけだ。
で、それを見てミチル君は、『みんな… イって しまったのか…』と心でつぶやく。自軍の勝利の瞬間なのに、なぜか哀愁めいたものを、ふと彼は感じたようなのだ。
そして、すっかりイカ臭くなったであろうリングのド真ン中で、レフェリーはヤスの手を高々と上げて、『セブンオール エクスタシーズ!! ヤス優勝!!』と、はえある勝者の名を満場へと告げるのだった…ッッ!!

ここらがおそらく「ヤス」全編の、最大のピークかつ絶頂にしてアクメっぽい部位。何せ、計11人もの人物らが堂々と『ピーク』に達しているので、まったくまちがいない。
かつまた、上記のエピソードをギャグまんが史的に見れば、かの「行け!稲中卓球部」に描かれた『カンチョーW杯』以来の名勝負、とは軽く断言できよう!

そうしてわれらのテーゼとして、かのイヤミ氏の『シェー!』を第1号とする、『オーガズムを婉曲に描くものとしての“外傷的ギャグ”』。それがここでは、『オーガズムにいたるまでの手段が婉曲的すぎるという“外傷的ギャグ”』、と変形されていることを見よう。また、もはや言うまでもなかろうが、≪男の乳首≫は『外傷的なシニフィアン』に他ならぬものとして(…シニフィアンとは、意味不明だが意味ありげな記号)。
かつ、人間性の数少ない美点の1つを逆手にとって攻めるというヤスの戦法は、正義のヒーロー(?)としてどうだったのか? そして、ミチル君が勝利の瞬間にうけた感じは≪何≫だったのか?…等々と、なおも考えるべきことは多くありそうだが。

だが、それらは宿題にして。筆者はガッコの宿題をほとんどやったことのないダメな仔だったが、でもそれを言いはって。
堕文のさいごに筆者は、作中にも出ている≪性感帯≫という概念にふれようと思う。これはもちろん、われらの偉大なるフロイト様の創出された用語でありつつ。

…先に見た場面、ビキニ隊の輪にまじっているヤスは、自分も同じようにきびしく乳頭を責められているのに、ふしぎと独りだけ涼しい顔だ。それはなぜかと問われて、『鍛え上げているオレだけに、性感帯も“変幻自在系”!』、などと答える。
と聞いてリング下の一同は、ヤスの主張がイミフで思わず首をかしげる。けれどもフロイトの理論構成からすれば、そのりくつには大いに一理ある。
つまり、性感帯とは、どうして≪性感帯≫なのか? というとそれは、本人がその個所を≪性感帯≫だと考えているから、くらいのことがフロイトのご主張なのだ。
むずかしく言うなら、その個所に≪リビドー≫が備給されているので≪性感≫が生じる、とかいうことらしい。この議論にあんまり深入りしてもなんだが、しかしそのようでなければ、特別な受容体もない場所に特別な感覚のあることを説明できないはずだ。

そしてこのように、エログロナンセンスをきわめていそうな≪ギャグまんが≫こそが、人類最高の叡智たるフロイト様の崇高なるご理論へとシンクロし共振し、そしてお互いを強めあい讃えあうのだ。そのような、歓びと感動あるのみの眺めをわれわれは、ささやかにもこの場にて見ようとしているのだ。



…追って書く機会もなさそうなので、やっぱり筆者の思いつきを追記しておこう。以下、別にぜひのご高覧には及びませぬので! いや、ほんとは見てほしいけど!

まず、男の乳首は≪ファルスのシニフィアン≫『である』。ヤスはそれを『鋼鉄』までに鍛えあげ、そしてそれを『去勢するものとしてのファルス』にまで高める。
また、彼以外の男子らにとっても、その乳首が≪ファルスのシニフィアン≫であるには違いない。ところが鍛えていないせいで(?)、それが逆に弱点になり、そして攻め側によって≪去勢≫をこうむってしまう。ここにおいて、男の乳首は≪去勢のシニフィアン≫になり下がる。
で、あたりまえなのだが、去勢をこうむる側の方が圧倒的多数なのだ。ヤマ場でミチルくんの感じたさびしさは、そこからのものだろう。永遠に『雄々しく』勃起し続け、それ以外の“すべて”を去勢するものとしてのファルスは、この世には存在せず、人々の頭の中でおっ立っているものでしかない。そして一瞬だけにしろ、ヤスは『それ』としてそこへ現前するのだ。

とまでを見てくれば、≪タイガーマスク≫らのカッコいい系ヒーローについて、その乳首の存在が≪抑圧≫され気味な理由もわかってくるだろう。
タイガーマスクがコーナーポストの上につっ立って登場するまいどの見せ場、あれがまた≪ファルス≫の現前をにおわせるポーズでありつつ。で、それを、本人の乳首が怒張しまくっている、という表現に置き換えたら、今作「ヤス」になってしまうわけだ。「タイガーマスク」がぎちぎちと抑圧したものを「ヤス」は大っぴらに描いて、そして≪ギャグ≫にしているのだ。

あと、もう1つ。さきの文中、ミチル君がエクスタシーを迎えちゃうところの描写がくどいな、とお感じの諸姉兄もおられると思うが(…ぜんぶくどいッスか? スイマセン!)。
たまには正直になってみると、あそこで筆者はミチル君に感情移入して、ついつい興奮させられてしまうのだった。そのコーフンが、記述にまで表れちゃったかと。まあそのミチル君が、美少年というほどでもないけれど、ひょろっとしててちょっとかわいいし。
そしてそのような性的興奮を(意識にて)否定しようとしてわれわれ読者は、少年がその乳首をムキムキのマッチョ野郎によってなぶられ、そして大観衆の前でオーガズムに達してしまう…というたまらない描写を、≪ギャグ≫として『笑い-飛ばす』のだ。残された≪何か≫を、無意識へと沈めながら。

川島よしお「ナックルボンバー学園」 - 去勢をされまいとして虚勢を?

川島よしお「ナックルボンバー学園」第1巻 
関連記事:川島よしお「グルームパーティー」 - 新宿西口、メトロポリタン・ディルドー

われらの川島よしお先生、またの名を『ナベちゃん』先生。その私生活でのニックネームが、ナベちゃんであるらしい。
そしてこの「ナックルボンバー学園」は、ナベちゃん先生の少年チャンピオンでの『最新』の連載作(2001-02)、少年チャンピオン・コミックス全1巻。ただし第1巻というていさいなので、例によって未収部分がかなりありそうなのだけど。
そして、なぜにいまこの作品か…という理由が特にない。例によって、たまたま目についたので見ちゃったから、でしかない。

で、たまには素朴な感想も言わせていただくと。ナベちゃん先生の週チャン掲載作が、「グルームパーティー」、「O-HA-YO」、そしてこの「ナックルボンバー学園」と続いたが、自分には「グルーム」がいちばん面白い。何か、読者に挑んでる感じがいい。特に第1~2巻の、≪さそりちゃん≫の大暴れがいい。
さらに、ナベちゃん先生のご創作ぜんぶから言うと、いちばん自分が好きなのは「さくらんぼ論理」(1999, ヤングチャンピオンコミックス全1巻)。いやもうこれは、まじぇで探しましたYO!…探しに探したあげく、赤羽のブックオフで見つかったような気がする。青年誌掲載だったので、たぶん作品系列でいちばん下ネタ度が高い。これはいつか、この場で必ずレビューするつもり。…だがいまは、その貴重なるご本が自室内で見つからなくて。

そして「ナックルボンバー学園」の話に戻ると、わざわざ『学園』と題名に出ているように、少年誌っぽく学園もので…という意図があったのかなあ、というふんいき。その前のシリーズらがけっこうフリーダムだったので、そこらを引き締めてかかった感じあり。
かつまた、同じく題名にある『ナックルボンバー』ということばだが、これはただ単なる力強さを意味しているのではない。作中に、何度か出ているギャグのことをさしている。

どういうものかというと、これは女の子専用のギャグで。たとえばブルマーを着用しているものとして、その上の方から手をつっこみ、脚の出るところからそれぞれの手を出し、そして股間の前のところで、両手をがっちりと組み、『ナックルボンバー!!』と叫ぶ。
…実作で見てもあんまり笑えるものでないのだが、こうして字だけで書いたら、さらに寒い感じだろうか? この『ナックルボンバー!!』というギャグがもっとウケていたなら、少なくとも、今作の連載がもうちょっと続いていたはずでありつつ。

で、別に分析理論がどうこう以前に、これがペニスを、それも勃起したものをさしている所作であることは、どうにも明らかすぎ。そして≪ギャグ≫として成り立ってはいるのだが、しかしこの手のネタをやたら好む筆者に対しても、もうちょっと来ないのだった。

いちおうかわいいかのように描かれた女の子に、そんなこっけいなしぐさをさせるというところが、ちょっとダメだった気がする。言うとたとえば、『魔女っ子のそうび品の魔法のステッキ』…あれがまた≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを象徴するもの)なんだけど。つまり同じなんだけど、それがいちおうかわいいアイテムなわけで。
たとえばの話を重ね、かわいい女の子がハンマーでバカな男を撲殺しまくるとか、そんなお話がいまはどこかにありそうだが、そっちの方がまだしも機能しそうだ。今作中の『ナックルボンバー!!』には、あまり好かれないようなタイプのこっけいさに加え、ポーズで終わって動きがない、という難点もあるようであり。

しまらない話のさいごに、なぜか筆者の心に残ったネタをご紹介しておこう。この本の巻頭の4色カラーページの、題して『ラグビー』という作例(p.4)。
題名どおりラグビーのかっこうをした少年たち、前景の1人が『とられて たまるかッ』とモノローグしながら、丸っこいものを抱えて走っている。やや引きの画面になると、彼が抱えているものは、異様に大きな彼のタマキンであると分かる。

 『とられて…… とられて たまるかあ~~~ッ』

と内心で叫びながら、彼はドドドド…と走り続ける。けれどもさいごのコマを見ると、他の選手らが、そのタマキン君を追いかけて走っているのかどうか…というところが、実はいまいちよく分からないのだった。
これを見て。本人にとってはひじょうに大切なものであっても、他者らがそれを欲しがっているとは限らない…と、そういうことはある気がするのだった。

2010/09/28

「ルノアール兄弟の愛した大童貞」 - Let's ビギン! みんなで童貞を語ろうZEッ!

ルノアール兄弟「ルノアール兄弟の愛した大童貞」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ルノアール兄弟」, 少年シリウス Web漫画「ルノアール兄弟の愛した大童貞」, 関連記事:ラベル「獣国志」

関連記事で見た「獣国志」に続いて、こちらの作者さまが崇高な『童貞論』をとうとうと物語る作品、「ルノアール兄弟の愛した大童貞」。童貞ブーム渦中の大いなる話題作(?)、少年シリウスのWebにて掲載中(2006-)、シリウスKCとして第1巻が既刊。

念のためだけど、お話の概要を記しておけば。エロに飢えまくった中坊3匹がある日、見張りのゆるい書店でエロ本を立ち読み中、そこを自主的に警備していた青年に、『袋とじを開けようとするとは言語道断!』などと叱られてしまう。
その、白のランニングに白ブリーフいっちょ、そしてサンバイザーにハダシという姿のあやしい青年は、≪土毛智樹(どげ・ともき)≫と名のる。そして『そんなに見たければ』と言い、『袋とじの中が透けて見えるメガネ』というSFふしぎアイテムを、一瞬だけ貸してくれる。その効果に少年たちは驚倒し、一瞬だけうっかり感動してしまう。
そして土毛の言うに、それは江戸時代の≪大童貞・ドゲレツ斎≫という偉人の発明品なのだとか。『その生涯を シコることのみに捧げた偉人』が、『現代科学をも凌駕する ジョークグッズを次々と 発明したのだ』…うんぬん、という土毛の長々しい口上を聞いているうち、やがて少年たちは興奮からさめて引きの態勢へ。

ところが土毛の方はノリノリで、運の悪い少年らを彼の拠点の空き地へ連れ込んで、えらそうにも正座までさせて、

 『おまえらは 全然気合いが 足りない!! もっと真剣にシコれ!! 
 若いうちの シコリ方で 全てが決まるんだ!!』

等々と、まったくど~でもい~い訓話を延々~と聞かせるのだった。ドゲレツ斎の遺した『ドゲレツ大百科』という、たぶん貴重そうな和とじの書物をふりかざしながら。
で、これをきっかけにあわれな少年3匹は、押しかけ師匠の土毛から『おまえらが 平成の大童貞なのだ!』と見込まれて、彼の噴飯もの的な『童貞学』を、さんざんに仕込まれるハメになるのだった…っ!

といったお話が、現在まで続いている感じ。ところでこの、かなりさえない少年ら3人の名字が、『錦織・東山・植草』というのだが。
だがしかし、こんなお話らに20話以上もつきあって、筆者にはいまだ、彼らの顔と名前とが一致しない。…あっ、ここでボケ気味とか言わないで!
そのネーミング、『少年隊』メンバーの名前の借用は、出オチギャグとしては、けっこう面白かったと思うが。けれどもそれは『名は体を表す』の反対すぎであり、人間心理の傾向に逆らいすぎなのだ。いにしえまんがの、≪タンク・タンクロー≫とか≪コロッケ5円の助≫とかいう異様に印象的なネーミングがあったが、あれらに対するアンチテーゼではありつつも。

あと。ここまで書いてきてから何だが、通販のページに『出版社・メーカーからのコメント』として出ている今作の宣伝文を引用いたしとく(*)。

『立てよ、童貞!! 江戸時代より受け継がれてきた称号、大童貞!! その第12代大童貞である土毛智樹が街にやってきた。奇跡的邂逅により、土毛に魅入られた中学生三人組、錦織、東山、植草は次代の大童貞候補生にされてしまう。土毛の珍奇な指導によって、次々と騒動が!! 愛すべき読者諸君よ!! これが青春だ!!』

な~るほどねえ。オレがわざわざへんなこと書かず、はなからこれを引用して、『このような作品であるっ』と、すましていればよかった! ただしこれを見て、『宣伝文』と『紹介文』とでは調子が同じにならない、ということも分かりつつ。



さてなんだが、このお話のおかしいところのほとんどは、すでにいま見た第1話へと、集約的に描かれてしまっている。

まず。中学生である少年3匹が童貞であること、そしてエロ本を見たくてたまらないことは、ひじょうにノーマルな状態だとしよう。…あっ、万がいちそうじゃなく、中学のときからヤリチンだったような子は、いますぐ教室から出て行きなさい! 先生プンプンだよ、もうっ!!

で。こっちのノーマルな中学生クンらは、性交を実行するまでに成熟していないので童貞であり、そして性交の代替として、エロ本鑑賞やマスターベーションをしたいのだ、としておこう。
が、その一方、土毛および彼の先人らは、すでにりっぱな大人のような年齢になってまで、童貞でありつつ自慰を超はげむ。そして、ただ単にそれをはげむのは本人らの自由だが、しかし『ねばならぬ』という義務っぽさが、そのあり方についていることがふかしぎだ。
そのまた一方、僧侶的な方々の方面にむかしから、享楽としての≪性≫をけがれと見てそこから自分を遠ざけ『ねばならぬ』、というアチチュードがあるようだが。しかし土毛らはそれとも異なり、享楽としての≪性≫のイメージを消費することには、まったくためらいがないどころか。

つまり、トラディショナルな童貞のあり方には、≪少年型(=未成熟)≫と≪僧侶型(=ストイック)≫、という2種類があるとする。そしてニューウェイブ童貞の土毛らは、≪少年型≫からは『エロ本等により自慰にまい進』という行動スタイルを受けとり、≪僧侶型≫からは『せねばならぬ』という義務っぽさを受けとっているのだ。

それこれ見てくれば、作中の少年らが土毛に対し、半分惹かれて半分ドン引き、という心境にあることのふしぎ(?)も理解できてくる。とりあえず自慰にはげもうとしている彼らにとって土毛は、『何か(ノウハウ的なこと等)を知っていると想定された者』ではある。がしかし土毛が、いいトシこいて童貞であるという部分は、ぜんぜんうらやましくないし見習いたくない。
自慰という行為を少年たちは、『(きもちいいけど)経過的なもの』、と考えたい。そしていずれはヤリチンだか『リア充』だかになりたいと思っているのに、しかし土毛はその自慰を、目的として追求せよ、みたく言うのだ。そこがおかしいと、少年らは(無意識にも)考えているはず。

で、「獣国志」を論じた関連記事でも述べたことだが。『童貞』という熟語を1文字ずつ、『童』と『貞』とに分割してみる。すると、その前者が≪少年型≫、後者が≪僧侶型≫を表しているような気にもなってくる。そうすると、この語はもともと、コンベンショナルな童貞の2タイプをあわせて表現しているのかな、という気もしてくる。
で、関連記事でも述べたようなことだが。けっきょく土毛らのニューウェイブ童貞は、口先ではやたら『貞』を訴えてカッコをつけながら、しかしその実、『童』であり続けようというところに真の目的があるのではなかろうか、と。
…どこらが『童』かって、説明するのもめんどうになってきたが、もはや子どもでも学生でもないのに、土毛はりっぱな無職だし。そしてまともな住所もない彼は、『土管の置かれた空き地』という、いにしえの子どもたちの魂の集うような場所、言わば≪童≫らの聖なるトポスに住み着いていやがるのだった。

そして筆者は、そのニューウェイブ童貞と呼んでみたものを、『オーセンティックな童貞の2タイプを止揚した、すばらしい新境地!』などと言う気はしない。ただし、土毛のように怠惰なナルシストが自分の中にはいない、ともけっして言わない。
これを娯しんで見ているわれわれ“誰も”は、土毛に見込まれてしまった少年らと同じで、彼に対して『半分惹かれて半分ドン引き』という状態にあるはずだ。そしてそのわけのわからぬ心境の受けいれ難さに対し、『笑い』という肉体の反応を返しているのだ。

ルノアール兄弟「獣国志」ところでなんだが、この堕文のさいごに。今作こと「大童貞」を、同じく童貞を語ったルノアール兄弟の初期作品「獣国志」に比べると。
テーマがはっきりしている分だけ、よけいっぽい情報性がなくなっている分だけ、こちらの「大童貞」の方が、すなおに笑える作品になっているとは思う。だがしかし。
がしかし筆者は「獣国志」の、『“何”を描いているのか作者にも分かっていない』…のように見えるところから、描くことの継続によって、その無意識の≪何か≫がうっすら描かれてくる、そうしたあり方にも魅かれるところがあるのだった。ただしそのような描き方は、たぶん『初期作品』ならではのものなのではあろう。
あと、まともな女性キャラクターがほとんど描かれていなかった感じの「獣国志」に比すれば、今作にはいちおう『かわいい』とも言えそうな女子や女性が描かれている。そこもまあ、作品の見やすさ読みやすさに貢献してはいよう。

そうして筆者が、一種のヒキをかますと。土毛的なニューウェイブ童貞のことは、もうわれわれは、よぉ~く分かったとして(!)。
だが、そのまた一方に、『一見りっぱな社会人でありながら、特にわけもなく童貞』という、もう1種類のニューウェイブ童貞がいることをも、われわれは見なければならないだろう。いま言う『草食系男子』とは、そういうやからのことなのだろうか?
われらがいままでに見てきた作品だと、桜井のりお「みつどもえ」のヒーロー格の≪矢部っち≫が、わりとそう。そして今作「大童貞」では、第16話から登場の、少年らの担任≪兜川先生≫が、またそのタイプ。

ま、矢部っちにしろカブっちにしろ、教師であって一種の聖職者なんだから、大いに童貞でけっこうなんじゃねーの?…とは思うのが正直なところだが。けれども本人らはそれをびみょうには気にしているらしいので、何ら問題でない、とも言えないようだ。
そこらをいつか、追って追求できれば! そうしてさいごにご唱和くださいませ、かわいいボクらの合い言葉は、『Let's! みんなで童貞論!』。

2010/09/27

鴨川つばめ「ドラネコロック」 - わが逃走、父と息子のわがままな逃走

鴨川つばめ「ドラネコロック」秋田文庫版 
参考リンク:Wikipedia「ドラネコロック」

今回は、オールドスクールの超大ネタをご紹介! で、まずそのイントロ。
自分が『ギャグまんが第2世代』と呼んでいるものの中に、ギャグまんが史上のちょっとした『アノマリ(例外的存在)』と言いたいような作品が3つある。それは、鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」(1977)、江口寿史「ストップ!! ひばりくん!」(1981)、そして岡田あーみん「お父さんは心配症」(1983)の3作。

何がアノマリかというと。その3作いずれも時代性の濃ぅいぃ作品でありながら、しかしなぜだか常にフレッシュな感じを維持し続け、そして常に新しい世代の読者を獲得し続けている。だからか、コンシャスな書店の書棚には、たいがい常に入っている。そこがすごいし、ざらにない。

それらに比したら、第2世代の第1号であり“すべて”の源泉たる山上たつひこ「がきデカ」(1974)にしろ、またその世代で最大のヒット作かと思われる高橋留美子「うる星やつら」(1978)にしろ、もうちょっと時代の垢がついてしまっている感じかと。…すると、そのアノマリ3作につき、『それぞれの時代のまんが界のNo.1にまではならなかった』、『びみょうにだがマイナーだった』、という点もまた、それらのエバーグリーンな感じに寄与しているのだろうか?

かつまた、そのアノマリと呼ばれた3作は、それぞれの作者らをたいへんに消耗させた創作でもあった。鴨川先生がいちばんはなはだしい例であり、江口先生がそれに続いて、いずれもそのあたりから調子を落とし、以後にあまり大きな作品がない…とも見られそう。
あーみん先生についてはやや異なり、「心配症」の後にも「こいつら100%伝説」(1989)、「ルナティック雑技団」(1993)、とすばらしい創作が続いていたが。しかし現在の時点から見ると、等しくいわゆる『幻のまんが家』の一員になっており(惜しくも!)。そしてその遺した代表作として、われわれの前に「心配症」があるのだ。
…というポイントに、何らかの意味が、あるのかどうか? ジミヘンやモリソンやジャニスと異なり、こっちの作者らはりっぱに存命中で『まだまだこれから』があろうけれど、しかし(どこかで)その作品に『白鳥の歌』的なニュアンスの出ちゃっていることが、何か機能しているのだろうか?

で、ともあれその3作がいずれも、われわれのギャグまんが研究の超じゅーよーな課題であろう、とまでは確認しつつ。

けれどもこの稿では、ストレートにはそこらへと取り組まず斬り込まない(!)。『手のつけやすそうなところから』という筆者のイズムによって、「マカロニ」と並ぶ鴨川つばめ先生の代表作「ドラネコロック」(1977)を、ちと見ていきたい。
いや、なぜこの「ドラネコロック」かって、自室で何かを探していたら、たまたまその秋田文庫版(2007, 全1巻)が目についたので、つい読んでしまったから…ということもあるが。



さあて、ここまでの前置きがいいかげん長すぎているので、掲載情報や書誌情報などは参考リンク先をご参照(*)。ようするに今作「ドラネコロック」は、「マカロニほうれん荘」とほとんど同時期に、月刊の方の少年チャンピオンに出ていた作、ということ。で、どういったお話かというと…。

そのヒーローの≪泉屋しげる君≫が暴走族の副リーダーで、人さまの迷惑かえりみずに徒党&ソロで暴走しまくる、いまでいう『ヤンキーまんが』という性格が、まずある。やがてその向こうみずきわまる明日なき暴走に、対抗サイドの警官2匹も加わり(!)、さらにはしげるの父の≪おやじ≫もが加わる(!)。
『ロックとバイクが オレの命!』と文庫版のあおりにあるように、当時イカしてたスコーピオンズやUFOらのハードロックサウンドに乗って、彼らの大暴走が果てしなく続くのだ。かつそのあいまには、ラブコメやホームドラマの要素も多少ありながら。

また今作は、高校生の主人公たちが、いきなりくわえたばこで登場。そして暴走や飲酒喫煙どころか、暴行・窃盗・器物破損・故買・セクハラ等々の行為らを、のびのびとおおらかにやりまくり(!)。かつパチンコ店や成人映画館にも出入りするという、いまの少年誌ではちょっと描けないような、ものすごいフリーダムなお話でもある。
といったような特徴は、先行したチャンピオンのギャグでいうと「がきデカ」や吾妻ひでお「ふたりと5人」(1972)にしてもあるのだが。しかし今作はびみょうに表現がナマっぽいだけ、いま見るとインパクトある感じ。

そして今作の、「マカロニほうれん荘」に対して対照的なところを、まず見ておこう。これは、いずれ書かれる「マカロニ論」への予習をかねて。

【1】 「マカロニ」が『荘』というひとつの場所を中心として展開したお話だったのに対し、こっちの「ドラネコ」は『暴走』というテーマ性に即してか、『移動』というモチーフがひじょうに目立っている。そしてその『移動』全般には、何かからの≪逃走≫という性格が常に濃くある。

【2】 ヒーロー像の相違。“すべて”においてハイパーな「マカロニ」の3人組に対し、「ドラネコ」のしげる君は、相対的にはコンベンショナルなギャグまんがの主人公、という感じあり。その特徴は3等身とぜったいに外さないグラサン、そして『オー マイ マザー、カーチャン フロム トーキョー!』、『ハロー ハニー ダーリン! ユー アー ボクの ルイジアナ!』、といったおかしい英語まじりのしゃべり。

【3】 「マカロニ」に登場した≪そうじ君≫のような常識あるツッコミ役が、今作にはぜんぜん不在。しいて挙げればしげる君のマザーだが、そうじ君ほどには機能していない。そもそも、泉屋マダムは基本的には家庭内でしか活躍しないので、その外でのバカどもは文字通り『野放し』(!)。だから彼らの暴走には、ほとんど歯止めがかからない。

【4】 また、「マカロニ」の表現を(相対的に)ファンタスティックでドリーミィなものと見れば、こちら「ドラネコ」の表現は(相対的に)リアリスティック。「マカロニ」で特徴的な『シュール』と形容されるようなギャグは、今作にはめったに出てこない。

と、いまさいごに申し上げた、「ドラネコロック」の『リアリスティック』と形容できそうなところを、ひとつ見てみようかと。文庫版の序盤すぎの、『みんなで一緒に!』の巻(p.119)から。

そのエピソードのイントロで、暴走族『ワイルドキャット』の首脳2人は、おしゃれっぽい街の道ばたで露店を営業中。そして二枚目のリーダー≪光二≫が女の子らを呼びとめ、しげる君がぺらぺらと口上をまくしたてて、『資金カンパ』と称し、明らかにガラクタっぽいグッズらを売りつけようとする。
それに対して女の子たちは、『ロクな物 ないじゃない!』、かつ『盗んで きたもんばかりじゃない!』と、きわめてすなお&クレバーに反応なさる。そこでしまいにしげるが出してきた『目玉商品』と称するブツが、例の≪桜の代紋≫と呼ばれる警察のエンブレム(!)。作中で20~30cmくらいの直径で描かれたソレは、確かにレア品には違いなさそうだが…。
しかし『当社が命がけで 仕入れた特選品!!』とやらの訴求力がギャルたちにはいまいちで、彼女らはしげるの≪フーテンの寅≫ばりの売り口上を『わあ おもしろーい』と聞いた上で、かしこくもさっさとその場を立ち去る。そして残されたツッパリ2人は、『チェッ しけてやんなー』と苦情を言っている。

鴨川つばめ「マカロニ2」…これが意外と、なかなか生々しいお話なのだ。パー券(パーティ券)の押し売りとかグループのステッカーの販売とか、まあいろいろと暴走族の資金稼ぎもあったものだった。
さいわい筆者はそのてのものを買わされたことはなかったが、そんな時代には確かに『あったこと』なのだ。その一方の「マカロニ」にもインチキな商売のお話が出ているけれど(パッと目についた例、「マカロニ2」の『路地裏ブギウギの巻』)、しかしその描き方は、もっともっとファンタスティックだ。

なお今作「ドラネコロック」については、そのような不良ワールドのリアリティが目立っていた序盤、続いてはおやじ大活躍の中盤、そして何だか壊れぎみな終盤…という3部構成、という見方が、遡及的には可能そう。あまりよく読んでないが、Wikipediaにもそんなことが書いてあったような感じで(*)。



そして筆者の見るところ、今作「ドラネコロック」は、主人公のしげる君をさしおいて、ハゲとヒゲ以外は息子にそっくりな≪泉屋おやじ≫が大暴走し始める中盤から、異様なる精彩を見せてくれるのだった。そこいらが全編のピークかと思うのは、筆者もほとんど中年なので、仲間びいきも(?)あるかとは自覚しつつ。
本人によれば、このおっさんは元禄8年の生まれで当年54歳、元陸軍オートバイ上等兵、自称『鋼鉄の中年』。その初期の口ぐせは『オオッ グレート!!』というので、「エア・ギア」の作者でなければジョジョの4代目にも影響を与えているようだ。まあ、「ジョジョの奇妙な冒険 第4部」も一種のツッパリ系ドタバタギャグなので(!?)、通じるところは大いにあるな…と独りがてんしつつ。

で、このおやじは、そのトシで定職もなく、わりとふだんはパチンコびたり。たまに職につくと、それが必ず車両の運転関係なのだが、そして必ずあっさりと、クビになるようなことをしでかす。
いやむしろ彼は、意図的にクビになろうとしてあれこれ工作している(!?)、というふうにまで見えるのだった。ちょっとそこらを見てみれば。

『おやじの就職』シリーズの第1弾、そのサブタイトルも『さあ働こう!!』の巻(p.137)で、路線バスの運ちゃんになったおやじ。われらのマダムは夫の就職をひじょうに喜んで、彼の朝ごはんやお弁当をスペシャルに奮発するのだが…。
ところがおやじは勤務中、タクシーじゃないのに『手を 上げん客に車を止められるかっ』と、超おかしいことを言い出す。さらには、お客らを途中で強制的に降ろしてしまい、

 【おやじ】 90円で いつまでも乗れると思っ たら大マチガイだっ!!
 こっちはちっとも 商売にならん!

などと言って、ものすごいカスタマー虐待に走る。ついでにバス90円という当時の運賃もすごいけど、それはともかく…。

続いたシーンで、しげるが女の子と2ケツで単コロ飛ばしているのを見ちゃったおやじ。100パーセントお呼びじゃないのに、彼は猛然と息子をバスで追い廻す。やがてその暴走に、まいど出ているパトカーの警官たちも参加して、しまいにはとんでもない大惨事に!
それからボロボロになった親子はさらに、バスの料金箱からかすめたお金で、夜の街へ酒を喰らいに行くのだった(!)。そして、いさいをバス会社からの電話で聞かされたマダムは、家から湯気が出るまでのカンカン状態で、バカ2匹の帰りを待つのだった。

といった『おやじの就職シリーズ』が作中に何本か、いずれも似たような展開。すると、息子のしげるもりっぱな問題児には違いないが、しかしそれにも増して! いいトシこいて社会性がゼロ以下のマイナスな、このおやじの方がよっぽどやばい人物…ということは明らかになってくる。
じっさい作品の中盤から、おやじの暴走があんまりなのでしげる君がツッコミ役に、というエピソードが目立ってくるのだ。そんなおやじの活躍で、とくに筆者の好きなところを、ご紹介いたせば…(『愛のフィナーレ!!』の巻、p.297)。

…しげるたちのグループとポリス2人組が喫茶店に入って、そしてつまらぬことからケンカをおっ始めそうに。そこへ、みょうにタイミングよくおやじが飛び込んできて、『兄弟! 楽しくやろうぜ!』と、バカどもをいさめる。人生なんて短いんだから、できるだけゆかいに過ごそうじゃないか…と、年の功ありげなことを言って、みんなを少々感心させる。
で、何とか落ち着いたところでウェイトレスが、『おじさま ご注文は?』とたずねると、われらのおやじは『しじみ貝のみそ汁!』と答え、持参の弁当を取り出す。それで一同がズコー!となって、しげる君が『そんなもん あるかってーの!』とツッコむと、そこでおやじの反応が尋常でない。

 【おやじ】 なに~~~~~ (中略) それはできないとゆーのかっ
 そっちがその気なら きさまらを殺してみそ汁の ダシに使うだけだっ!
 わかったか このどぶねずみ野郎っ!!

ときてはもはや、年の功も何も、あったものではないのだった。おやじは戦地で人死にを見すぎたせいなのか、人命尊重の概念がひじょうに乏しいようなのだった。このお話では口で何か言っただけなのでまだいいが、もっとひどい作例はいろいろとある。

なんて、うかつに面白いところをご紹介したせいで、さいしょから散乱ぎみな筆者の話が、さらにまとまらなくなっちゃったけど…!

◇まとめ、その1。筆者の感じ方によると、わりとスタイルのまとまった今作「ドラネコロック」の中盤は、それ以前の名作でいうと、赤塚不二夫「天才バカボン」に近い感じなのだった(!)。手八丁口八丁なおやじの活躍ぶりに加え、ポリがやたらにピストルを乱射するところも似てて。ぜんぜん異なるのは、スピーディなアクションによるドタバタを、クールなスタイルで具体的&立体的に描いているということだが。

◇まとめ、その2。見ていて筆者は今作について、『甘え』と『甘やかし』の共犯関係、ということを感じるのだった。そしておやじやポリ公らをも含めた作中の≪ガキ≫どもは、『甘やかされている環境がひじょうに不自由である』、と、実にわがままかってな感じ方をしやがるのだ。

第2の点について、少し補足。われらのおやじはめっちゃ甘ったれた人生を送りながら、突発的に『ぬくぬくとした環境で おいぼれていくなんざ まっぴら御免だぜ!』と叫び、そしてバイクで家を飛び出す(『青春市街戦!!』の巻, p.233)。
…と思ったらやがて戻ってきて、しげるとポリ2匹を巻き込み、自宅の庭に電話ボックスで別荘を作って(!)、そこでの自立した生活をもくろむ。それからのいさいを略して、けっきょくはマダムらに大めいわくをかけるばかりなのだが…。

ところがマダムは、なぜかおやじにはベタぼれらしく、常にひじょうに態度が甘い。それとまったく同じ構図として、しげるには幼なじみの≪渚≫というガールフレンドがいて、なぜかこの子がしげるに超ベタぼれ&態度が超甘い。
そしてしげるが、ふだんその渚をウザがって彼女から逃げ廻っていることが、お話としてひとつの円環をなして、もはや『それはなぜか?』もへったくれもないのだった。

まったくもって教訓的でない教訓だが、そのようにわれわれが『ぬくぬくとした環境で おいぼれていく』ためには、まず愛される必要があり、そして、ポーズとしてその環境から逃げようとしてみせる必要もある。…のだろうか?
ということをまず見たとして、このレビューをいったん終わろう。そして今作「ドラネコロック」、および文中で名が出た傑作らについては、ぜひ近くまた!



『終わろうZE!』と申し上げてからの余談(ゴメン!)。秋田書店のまんが刊行、特にその再刊のやり方については、すでにあちこちでいろいろ言われているかと思うが…。
にしてもわれわれが見てきた文庫版は、「ドラネコロック」の本編が全36話くらいありそうなものから、『作者自選』にしても28編収録とは、ずいぶん中途はんぱな感じ! これなら同じ秋田文庫で、かの「がきデカ」をたったの全2巻(!)で出していることの方が、思い切っているだけよっぽど好感がもてそうかもっ?

2010/09/26

佐藤秀峰「海猿」 - BLACK イズ ビューティフル!

佐藤秀峰「海猿」 
関連記事:『佐藤秀峰「海猿」 - パンチラと ウンコとゲロ と 人命救助(字余り)』

関連記事を書いた後、夜ふかししてパソコンにかじりついて、『漫画 on Web』で公開中の「海猿」を(*)、がんばってさいごまで読んだ。

超かんたんにご報告いたすと、ずいぶんまじめなお話だった。いや、それはまあ、主人公らの海上保安官がまじめでなかったら、みんなが困っちゃうとはいうものの。
また、まれに作家サイドの文脈に即して申せば。こちらの佐藤秀峰先生は、これに続いた作品が、医療もの「ブラックジャックによろしく」、そして戦記もの「特攻の島」…と、その主要作の“すべて”が、目に見えるものとしての『生か死か』の極限状況を扱っておられる。別にいいか悪いかではないが、そういう作家性はあるっぽい。

あと、自分の頭がはっきりしてなかったせいか、前記事には、やや飛躍になっていた部分があった感じかと。そこを手短に、補足させていただけば。
あえて独断的にまとめると、佐藤秀峰先生のまんが観(の一部)として、『編集者ごときは不要』、『出版の仕事とは事務作業』、だとする。そして先生の主宰される『漫画 on Web』は、そのような理念が具体化されたもの、とも見うる。で、そのポリシーから成功作が生まれてくるかどうか、ということをわれわれは気にしているのだ。

が、それはそれとして、われわれの文脈に戻ると。前記事で見た、今作「海猿」第1話のおかしな過剰さ、『パンチラ・ウンコ・ゲロ』が大フィーチャーされている件…。
そのポイントが、続いたお話で、ちゃんと継承され展開されている、と言う気はしない。ヤングサンデー掲載作特有のものと見られる、露悪的とか悪趣味とかいう要素は、第2話以降の「海猿」には、あまり出ていない。
いや別に、ことさらそういうものが見たい、というわけではなかったが。そして、出てきていっきなり下着や排泄や嘔吐を見せあったヒロインとヒーローはどうなるのか…と心配してたけど(?)、この2人のラブ展開もまた、イントロに比すればけっこうきれいなお話になっているが。

ただし、『ヒロインのおパンツの色は黒』という要素、これだけは別。なぜかこれだけは継承され、続いた全編の中の決まりごと(?)にまで昇格しているのだった。

ちょっとネタバレっぽいところを説明いたすと、長い航海から帰ったヒーローが、ぐうぜん街角でヒロインを見つける。すると彼女は、新聞社の料理記事担当になったせいで、ブクブクに太ってしまっている。
そのことを恥じてヒロインは、『人ちがいです!』と言い張って走り去る…つもりだったが、逃げきらぬ前に路上ですっ転んでしまう。するとヒーローは何かを目にして、『その黒パンツは!』と言い、相手をヒロインと認定する。

さらにネタバレ度の高いところを見ると、やがて恋人同士になった2人。ところがいろいろあって、彼女は別れる決心をして、黙ってアパートを引き払ってしまう。からっぽの部屋をあさってヒーローは、彼女の黒パンツだけを見つける(彼がかくしていたもの)。
で、ヒーローは浜辺に出て、その黒パンツを頭にかぶってひとしきりおセンチにふけった後、『くそっ!』か何か叫んで、その黒パンツを海の沖に向かって投げ込むのだった。

…なぜに、そうまで、このヒロインのパンツが黒でなければならないのか? 否、これでは逆にむしろ、『パンツの色が黒なのでヒロインである』、と言わぬばかりではなかろうか?

で、そんなんなので、ぼんやりした筆者はヒロインの顔も名前も憶えないままに全編をさっさか読み終えてしまって、彼女のイメージが『ミス・黒パンツ』としか記憶に残っていない。そしてそのことを、自分だけのせいとは思っていない。

2010/09/22

佐藤秀峰「海猿」 - パンチラと ウンコとゲロ と 人命救助(字余り)

佐藤秀峰「海猿」 
参考リンク:Wikipedia「海猿」

この「海猿」は、『リアリティと社会性あるヒューマンドラマの名手』くらいに評価されていそうな劇画家・佐藤秀峰(さとうしゅうほう)先生の出世作。1999~2001年のヤングサンデーに掲載、単行本は全12巻(ヤングサンデーコミックス)。TVと映画でたびたび映像化されているので、そちらでも有名なタイトルらしい。

ところで、この作品と作者さまについては、筆者はぜんぜん詳しくない…というか、むしろ『ついさっき知った』と言いたいくらいだ(!)。だいたい自分は大してまんがに詳しくない、ただ≪ギャグまんが≫というものに粘着してるばかりなんだけど。
それがどうしてここでの話題になっているかというと、それらが単なる1つの作品・1人の作家だというのでなく、まんが界全般に対する『何か』だと、ついさっき知ったからだ。

と申してから確認しておけば、ギャグであろうとなかろうと、すぐれたまんが作品とは『社会に対しての“何か”』であるものであり、よってまんが(にかかわる実践)には、一種のジャーナリズムを志向するもの、という性格が必ずある。ただ単に、≪創作≫であるばかりではない。
その反証に見えそうなものとして、かのつげ義春先生を筆頭に、世捨て人さながら(?)の作家さまたちの細々とした創作活動があるわけだが。しかしそれらにしたって、このせせこましい一般社会とコマーシャルなまんが界に対しての『何か』と見られうるからこそ、びみょうにも存在意義を認められているわけで。

で、つげ義春先生らの『リトリート(退却, 後退)』戦術とはもろに正反対な方向を志向しながら、こちらの佐藤秀峰先生もまた、現にあるまんが界、その業界の構造、等々にそむいておられる勇者だと、ついさっき自分は知ったのだ。
あまりくどくならないように、自分の知ったことを説明させていただこう。数日前、ツイッターの『TL』上のリンクをつついて『サイゾー』のサイトに飛ばされた自分は、そこで次の記事の見出しを見つけたのだった。

『日刊サイゾー:「マンガを正当なビジネスにしたい」マンガ家・佐藤秀峰 爆弾発言の裏にある思い』

この『爆弾発言』らによる騒動もたぶんひじょうに有名なので、どんだけ自分が世間にうとく『情報』を知らないか、ということは痛感させられる。オレってまったく、どっちかと言ったらつげ先生的なヤツなんだなあ(よく言って)…ということはともかく。
いろいろ調べてみると、秀峰先生がWebによって出版社や編集者とのトラブルの『暴露』を始めたのは、2009年02月からであるらしい。そして上のサイゾーの記事はおろかにも日付が不備だが、しかしURLから推理すると今2010年6月のものかと思われ、ここまでの一連のことの総集編的な記事になっている。
この間に先生は既存のまんが出版界との関係を大いに縮小し、そして自ら立ち上げたオンラインコミックサイト『漫画 on Web』(*)へと、その活動の場の中心を移されたのだった。

で、佐藤秀峰先生のこの間のさまざまな発言と行動らについて、いま自分がひとことで、総括したり評価したりするということもむずかしい…。とりあえずは、七分三分あたりまでそれらには共感している、くらいの立場を示しておいて。

ところで先生のおしゃべりをうかがっていると、その底流には、こういうメッセージが常に流れていそう。すなわち、『作品は作家が作るもので、編集者などは本来いらない存在』。
で、そこからもうひとつ広げたら、こんなことも言えるのではなかろうか。『まんが作品らはおのずと売れるもので、出版社はそれの事務関係をやっているだけ』。いや、そこまでは言っておられないのだけれど!
もちろん先生は、世には売れない作品と売れないまんが家らの方が圧倒的に多い、という事実はしっかりと認識されている。にもかかわらず、作品らはおのずと売れるもの、のようなニュアンスがそのご発言に見られるのが、ちょっとオレには面白いのだ。

そしていま言われたようなテーゼらは、あえて申してみれば、『小中学生的なまんが観』なのではなかろうか? 自分が子どものころ、まんが誌の編集者の仕事は、原稿のさいそくと、あとは受けとったものを印刷所に運ぶだけ、くらいに思っていた。それは子どもの考えだが、そんなむかしの自分の思い込みに、意外なところで再会しちゃったような気分になった。
が、それがコケの生えたようなまんが読みになってくると、それだけでもなさそうということが分かってくる。さらに進んでは、まんがというものを『“プロデュース”されたもの』、とばかり見るようなギョーカイ通の読者になったりもするが…(オレはならないが)。
しかしそいつらの大人げありそうなりくつを、われらの佐藤秀峰先生は、超あっさりと一蹴しておられるのだ。

そしておそらく、先生の見方によれば、子どもの筆者が思っていたような編集者が、むしろ『いい編集者』なのだ。それが大した役にも立ってないくせに(!?)、あれこれと口出ししてきたり、または制作についての貢献を言い立てたりするのがうっとうしいらしくて。

 ――― 前掲『サイゾー』のインタビューより(*) ―――
【聞き手】 マンガ家と編集者の関係というと、週刊少年ジャンプ連載中の大場つぐみ&小畑健『バクマン。』や、土田世紀『編集王』でもその内幕が描かれていますが?
【佐藤】 『バクマン。』は読んでないんですが、『編集王』はアシスタントのころに読んでいて、「これからこんな編集者と付き合っていくのか、でも、ここまで悪い人たちはいないだろう」という思っていたら、もっと悪かったという(一同笑)。

これには思わず、筆者も爆笑をきたしたが。…だがしかし、すべてのまんが家たちが、編集者について、同じように感じているのではなさそう。むしろ編集者のおかげで何とかなったという報告もかなり多い、その半分くらいは社交辞令だとしても…という事実もまたある。
ここにて筆者も、聞いたことのあるいくつかの『編集美談』をご紹介したくはなったけれど、しかしいまはそれを控えて。

で、佐藤先生は、彼が主宰される『漫画 on Web』にて、編集的な行為の介在しない創作らを、よい意味でのビジネスにしようとされている。その媒体に、有名無名を問わず、あらゆるまんが家の出品を『無審査で』受け容れる、と宣言して。
そしてその、作家たちが自治する場から、新たな人気作と人気作家らの登場するようなことがあれば、それがひとつの立証、佐藤秀峰先生による『編集者不要論』の立証にもなるだろう。なお、『漫画 on Web』の日記コーナーにも佐藤先生のまんが観・業界観が大量に出ているので、興味のある方はご参照なされては(*)。

かつ、一般のまんが産業に対するオルタナティブ(対抗軸)といえば、『コミックマーケット』という語によって代表される同人誌(即売会)、というものも無視はできない。Mid 1970'sにそれを立ち上げた方々は、明確にその『対抗軸』というところを意識されていたはず。それが現在まで、そういうものとして機能しているかどうかはともかくも。
で、それは(いちおう)アマチュアリズムからの挑戦だったわけで。しかし佐藤秀峰先生は、プロ中のりっぱなプロという立場から、いまの業界とその構造に『No!』をおっしゃっているのだ。売れている作家が業界に異議申し立て、というのはいままでにあまりなかったことで、そこが注目される理由ではあろう。その一方、売れてないまんが家のうらみ節なんて、基本的には人の聞きたがらぬ平凡なものであり。



そして話は、やっとここから作品「海猿」のことになるのだ。さきからうわさの『漫画 on Web』にて、太っ腹にもその「海猿」全編が無料公開されているので、とり急ぎ筆者はそれの第1話を見てみたのだった(*)。
するとだ。筆者もけっこう長くまんがを見ているけれど、連載作品の第1話として、これは申し分ない、すばらしい、ということは断言できる。今作の題材たる海上保安官らのつとめ、そこには大して興味がないにもかかわらず引き込まれ、さいごのヒキのところではほんとうにしびれた!

が、しかし。ここで筆者特有の、おかしい見方を申し上げてみれば。

晴れがましき新連載の第1話に、この作品が描いているものは≪何≫だろうか、と考えてみたら? するとまず、いきなり全編のヒーローが、パンチラを眺めながら脱糞しつつ登場、というところがすごすぎる!
ところでだが、『新連載の第1話にパンチラをフィーチャー』ということ、それはいい。大いにいい。それは少女まんがで(さえ)もよく使われて機能する序盤のパンチ(ラ)なのであり、矢沢あいの名作「天使なんかじゃない」の第1話にもそれがある。
がしかし、『脱糞しながらヒーローが初登場』、これは他の例を思い出せない。やや比肩しそうなものとして、山上たつひこ「喜劇新思想大系」のヒーローが放尿しながら初登場するけれど。にしても。

しかも続いて、『若手の美人記者』として登場したヒロインらしき人が、ヒーローにつられて便意を覚えてしまい…ということまでは、まだいいけれど。
しかしそのトイレの中のことを、やたら過剰にはっきりと描きすぎなのではなかろうか? ただし、彼女がトイレにこもっていたので下船しそこね、そして緊急の出動に巻き込まれ…という作劇の流れはうまいと思いつつ。

それからこの「海猿」第1話では、いろんな方々が嘔吐をなさる。荒れた海を往く小っさな船の上のお話なので仕方ないにしろ、ヒロインもヒーローも盛大に吐きまくり、かつわき役の方々もまた。吐かないのは、ベテランの船乗りたちだけだ。
で、またそれをはっきり描きすぎな気がするのだが…? ただし、そのわき役の吐いたものが手がかりになってお話が急展開、という終盤の作劇には、これもうまいと感心しつつ。

あともうひとつ申すと、わりにねちねちと描かれている、ヒロインらしき人のおパンツの色が黒、ということも何かのふんいきを作っていそうだが、まあそこは強くは言い張らない。
…ともかくもこの『ヒューマンドラマ』でありそうな作品「海猿」の第1話には、海難救助のスペクタクルにあわせて、『パンチラ・ウンコ・ゲロ』といったものらがみっちりと大フィーチャーされているのだ。しかもそれがまんざら対比的要素だけとも思えず、まずは作劇に組み込まれフィットしているものであり。
かつひょっとしたら、『ヒューマンドラマ』の訴える人間肯定の主張の一環として、そういうものらがことさら出ているのかもなあ…という気さえしてくるのだった。ゆえに筆者はびみょうには引きながらも、このお話のそういうところをいちおう肯定的に見たいのだった。

と、そこまでは作品自体の話だ。ところで筆者にはもうひとつ思うところがあって、過剰に『露悪的』で悪趣味にも近いようなお話や描写といえば、今作もそうであるヤングサンデー掲載作品らの大特徴、ということ。
ストーリー部門では、こちらもいつかは論じたい山本英夫や柏木ハルコらのお作らを、その傾向の代表と見つつ。また筆者の専門のギャグまんがについても、ヤングサンデーの作品らは、『ギャグにしたって、あまりにもストレンジ!』ということはたびたび申し上げてきた(*)。

で、今作「海猿」第1話の『露悪的』にも見える表現が、ヤンサン編集者の指示によるものなのか、それとも作者さまが掲載誌のふんいきを読んだ結果なのか…。それは、別にどっちでもいい。
けれどもわれわれはこの目ざましい作例から、こういうことを感じるのだ。すぐれた作品とは、作者の創意や能力はとうぜんとして、かつそれと媒体とのぶつかり合いや相乗作用によってこそ、生まれてくるものなのではなかろうか、と。



上の文中、サイゾーの記事からの引用について注記。聞き手の質問は意味を変えず表現を簡略化、佐藤秀峰氏の発言中の『という思って』は元記事のまま。

2010/09/21

西田理英「部活動」 - 路傍に立ちつくす≪外傷≫

西田理英「部活動」第2巻 
関連記事:『西田理英「部活動」 - もはや『触れること』は…』

西田理英「部活動」について関連記事で、『全2巻のうちの第2巻が行方不明』なんてことを申し上げたけど、それがさっき自室のあらぬところで見つかった。それをここに歓びをもってご報告、ばんざぁ~い!

で、再会の歓喜とともに、ひさびさそれに目を通してみて…。『これは謝罪記事もんだな』と反省させられたのは、自分の記憶ほどにはラブコメ要素が多くなかった、ということ。何せ少女まんがのラブコメを、自分がひところすごい勢いで読んでたので、それらと印象が混ざり込んでいた感じ。
というわけで、これは実質、謝罪記事なのだった。ここは謝罪会見でブレイクした有名人の、『反省してまぁ~す』という名言を借りておいて(!)。
そして、反省文だけってのも何なので、この機会に第2巻から1つお話を見ておくと…(p.45, 『運転教習』の巻)。

新米教師の南部顧問は、車の免許を取ろうとしている最中。そこで教本を見て自主的に勉強していると、彼の安下宿の玄関、窓、さらに床下から、おなじみの部員ども3匹がヌッソリと登場してきやがる。
もはや南部センセはびっくりもしないが、でもいちおう『今日は学校休みで ここは俺の部屋 なんだけど…』とまでは申し立ててみる。すると部長の赤井は、やたらでかい文字で『一切問題ない』と断言するのだった。

で、免許を持ってない高校生の部員らが、南部センセの免許取得の心配をしてくれるのだ。そして先生が『標識がむずかしい』みたいなことをうかつに言ったので、すかさず赤井が冷静に大ハッスル。

標識:歩行者専用道路 【赤井】 では突然ですが この標識は何でしょう
 【南部】 (略)「歩行者専用道路」 だっけ?
 【赤井】 いかにも 表向きは そう呼ばれている
 だが正解は 「夏子と三郎」です
 【南部】 人名!?

ここでちょっと思うんだが、すでに仮免までは受かっているという南部センセが、そんなざらにある標識を見て『…だっけ?』とは、少々やばい感じでは? そして赤井の、『いかにも 表向きは そう呼ばれている』、というセリフがいすぎ!
で、いさいかまわず赤井のおしゃべりは続くのだった。『その日 三郎は いつものように 娘の夏子と 散歩をしていた――』と、ここから回想っぽい表現になって、仲むつまじそうな父と娘のハートフルな物語がスタート。

 【夏子】 夏子ねえ 今度学校で 運動会があるのよ
 【三郎】 そうかそうか じゃあお父さん 応援に行かないとなあ
 【夏子】 え― いいよ別に
 だってお父さんの事 友達に見られたら 恥ずかしいじゃん

そこで背景が暗転し、手をつないだ父娘は、標識の図柄のかたちで凍りつくのだった。

 【赤井】 そんなこんなで できたのが この標識とか
 【南部】(モノローグで、)そんなこんな!?

南部顧問は『なぜそうなるのか、わけわからん』のように苦情を言うが、しかしいっしょに聞いていたヒラ部員2名は、『この事をバネに 頑張ったと思うぞ 三郎は』、『さすがだね 三郎』と、みょうに感心している。たまらずに南部センセは叫ぶのだった、『そもそも 三郎って誰だ!!』。

それからエピソードはドタバタへと展開するのだが、このさいそこは略。で、追ってその日、路上教習に出た南部センセ。やたら緊張しているので、教官が彼をリラックスさせようとしてか、ひじょうにやさしい質問をしてくる。

 【教官】 あの標識は何か わかりますか?
 【南部】 えっ標識!? ひょ…あっ 夏子と三郎

かくて『夏子と三郎』の≪外傷的≫(トラウマちっく)な物語は、標識のかたちになって、全国あっちこっちの路傍に現前し続けるのだ。てゆうか、南部顧問のような人には免許とか交付しないように、ぜひとも行政ががんばってほしいところではある! と、この堕文に交通安全の願いをこめて…っ!

2010/09/19

kashmir「百合星人ナオコサン」 - みんな女の子たちはそれが好き!(らしい)

kashmir「百合星人ナオコサン」第2巻 
関連記事:ラベル「百合星人ナオコサン」

前の記事から連射でご登場のナオコサン。けさ歩いてて、公園の植え込みにキノコが生えているのを見て思いついた話があるので、それをちょっとだけ。

関連の記事らにて筆者は何度か、『ナオコサンがどうして≪百合≫星人なのか、実はいまいち分からない』くらいなことを書いた気が? いや、確かに書いたはずで。
で、まれにナオコサンが≪百合≫星人らしいことをしようとするお話があったのを思い出したので、以下ちょっとそれを見ていこうじゃなイカ、と。

第2巻の巻末近くの第38話(p.139)、たぶんみすずの同級生で≪さくら≫という女の子が登場し、上級生の≪明(あきら)先輩≫と百合的なおつきあいがしたいような、ふとどきなことを言い出す。なんでそんな相談が出てきたかというと、さくらはみすずと柊が、百合交際をしてるものかとかん違いしているのだった。
で、そこは否定しつつも彼女たちが、とりあえず下校中の明の後をつけると、何と男子が登場して明と並んで歩き始めるのだった。するとさくらはテンパって、『清純な明先輩 がそのへんの 男なんかに』…うんぬんと、おかしいことを言って取り乱す。

そこへ、われらのナオコサン登場。さくらに対して柊はナオコサンを、『百合の専門家 みたいなもの』として紹介する。で、ナオコサンは、さくらのために一肌脱ぐ気になってしまう。そして、そっこうで言い出した作戦が…。

 【ナオコサン】 そのセンパイの 道を正すには先ず
 深層意識に 陰茎に対する 恐怖を植え付ける しかないな!

『道を正す』、ときやがった。そしてどうでもいいことを1つ申すと、オレはその『深層意識』ということばがキライ。意味がよく分からんが、ともかくもオレらにケンカを売ってる感じしかしない。あ、ま、それはともかく…。

Led Zeppelinで、ナオコサンはどうするかというと、『ZEPPELIN(ツェッペリン)』と胴体に書かれた巨大な飛行船をどっかから出してきて、いきなり背後から『ズン』と明に衝突させる(!)。
…こうして『カシミール』先生のご創作に『ツェッペリン』号が出てくるのはある種の必然で自然、とは言えば言えるのだが(*)。しかしその直撃を喰らったセンパイは、気の毒にも救急車で搬送されていくハメに…っ!

どういうつもりかってナオコサンのアイディアは、あれこれと陰茎っぽいものを使って痛い目に遭わせれば、やがて明が『それ』自体を恐怖するようになるだろう…てことらしい。
その珍作戦に、なぜかさくらは『さすがです!』と、大感心。そこで彼女を狙撃手として、続いてその『それ』っぽいものたちが次々と、明に向かって発射される。ナマコとユムシが明の顔面に『べち、びちゃ』と着弾し、そしてアザラシが『ポフ』と明の目の前に出現する。

ところが明は『それ』らを大いに気に入って、ナマコ等を自宅の水槽で飼育し、そしてアザラシをペットとして愛玩し始めるのだった。特にアザラシを、ハートマークをやたらに飛ばすまでのかわいがりよう。
と、計算がぜんぜん狂ったので、ナオコサンは『ここはひとつ 臨機応変に』と作戦変更。そしてツェッペリン号にさくらをくくりつけ、進水式用のシャンパンらしきものを用意しつつ言う。

 【ナオコサン】 君自身が陰茎化して アタックしてみたまえ
 【さくら】 がんばります!
 【みすず】 ナ ナオコサン! おかしいよ こんなの

…それこれで。さくらをくくりつけた飛行船が、超あさっての方へ飛んでいってしまった後の、さいごの場面。明はアザラシ君を抱きかかえて外を歩いており、そして赤く顔を上気させながら、みょうにHOTな視線で『それ』を見つめている。
そこで、さっき登場した少年が引きながら明に言うのだった。『姉ちゃん…… ヘンなもの 持ち歩かないでよ』←オチ。

さてこの第38話のサブタイトルが、『マーガレットにリボンに快楽天』というのだが。前の2つの名詞は少女まんが誌、さいごの1つはエロ漫画の誌名だと受けとって。
そしてまたどうでもいいことだが、少女誌のりぼんを『リボン』と書いてすましているやつらがオレは許せない…。あ、いや、いいけど。
で、このお話は。『実はきょうだいでした!』というオチのつけ方が(いにしえの)少女まんがっぽくあり、そして『女子たちはそれ(風なものら)が大好き♥』という結論の出し方がエロ漫画的、ということなのだろうか?

かくて見てきたように、われらが『百合の専門家』みたいな人は、それ自体についてはまったく役立たずなのだった。ま、『深層心理』などというくだらぬ用語をふり廻しているうちは、どうもならんはず。
そうして筆者が申し上げたいのは、この作品「百合星人ナオコサン」は超でたらめきわまるしろものだが、しかしウソは描いていない、ゆえにりっぱな≪ギャグまんが≫であり『正気』の作品である、ということだ。ウソを描いている作品があるとすれば、それはギャグじゃない『百合まんが』だろう。そんな狂ったしろものが、もしあるとすれば。

2010/09/18

kashmir「百合星人ナオコサン」 - 幼女は、『プロ』に限ります!

kashmir「百合星人ナオコサン」第1巻 
関連記事:kashmir「百合星人ナオコサン」 - 増殖を命じる声 と、不毛でありたい私

関連記事の続きだが、本題の「百合星人ナオコサン」を見る前にちょっと。実作を読んでおられる方々には、おのずと関連性が見えそうな余談から。
この堕文を書き始めた9月8日、日本は台風9号に襲われていた。そこでヤフーの天気予報をチェキしていたら、ついついヘッドラインに目が行って、しまいにはおかしなページにたどりついた(*)。

この『MSN産経ニュース:トピックス 性犯罪』というページが、まったくどうしようもなく、言うも情けないような事件の報道で埋まっているのだった。軽めのところではのぞき(盗撮)や露出行為から、ちかん・幼女にいたずら、そしてしまいには言いたくもないような蛮行らにまで。

その産経ニュースのページ内容が、いずれは変わっちゃうと思うので、ちょっと見出しらだけ引用しておくと。

 『あと絶たぬ“センセイ”たちのわいせつ事件』
 ・学校行事中に眠る女児の下着ずらしパチリ…小学教諭逮捕、静岡県警(9月4日)
 ・わいせつ容疑で鹿児島の元中学校長逮捕 小学生女児の体触る(8月30日)
 ・少年にわいせつ行為、少年院の教官を減給(8月27日)
 ・教え子へのわいせつ容疑で佐賀の高校教諭を再逮捕(8月17日)

 『ハレンチ教員のあきれた性犯罪』
 ・カラオケ店で教え子にキス、胸触る 県立高教諭免職 埼玉県教委(8月26日)
 ・教え子に淫行、容疑の町立中学教諭逮捕 北海道(8月23日)
 ・「猫の霊を除霊」と教え子に強制わいせつ容疑、塾経営の男を逮捕(2月25日)

…何かもう言語道断すぎて、掘り下げたくもないような気分だ。いろいろと考えるべきことらはありそうだが、それらは他の方々におまかせしつつ。

で、イヤなんだが、もう少し見出しをご紹介。

 ・女児は精神不安定に…わいせつ「見守り隊」72歳に有罪判決(7月22日)
 ・強制わいせつ容疑、どこが「さわやか先生」(9月8日、これは読売Onlineより)

『見守り隊』および『さわやか先生』らとは、本来は善意のボランティアで、こんにちの児童(教育)についてのリスクが勘案された上で存在しているものらしい。ところがその方々までがわいせつ行為などに及ぶのでは、児童らはまったく立つ瀬がない。
いったい児童らが、何をしたというのだろうか? あるいは人間らが『子ども』として生まれてくること、それ自体が何らかの罪なのだろうか? かつまた、幼さや弱さの顕在を≪挑撥≫と受けとるような精神構造が、なぜにここへと生じているのだろうか? それらが問題だ、とはしておいて。

でだ、これらを見てきてオレ的に思うのは。われらが21世紀の≪ギャグまんが≫で、田丸浩史「ラブやん」や松林悟「ロリコンフェニックス」らを筆頭に、もろペドフィリアという≪症候≫をテーマにしたものがあるが。
あれらの作品たちについて筆者は、わりと『ないこと』を、面白おかしく描いたもの、と受けとってきた。いやじっさいのところ、それらの作品を見て『笑い』という反応を返している限りで、読者においてそれらの描写は『ないこと=あってはならないこと=ありえないこと』だ。前の「ウミショー」についての記事で書いたが(*)、オーガズムをめざして必死な人間らはくそまじめというモードに入っているわけで。

ところがさきに見たヘッドラインたちは、『ありえないこと』らが現にある、ありすぎるという外傷的な事実を示している。で、そのような報道を『ネタニュース』やら『痛いニュース』やらとして面白そうに(?)取り上げるようなネット上のリアクションもまた、『“ありえないこと”に対しては、笑いをもって反応すべき』という心的機構の発動ではあろう。

けれども、そんな事実が遍在しすぎれば、『ありえないこと』がやがて、ありえなくはなくなる(!)。筆者がちょっと興味を感じた産経ニュースの見出しを、もう1つご紹介いたせば。

 ・「性的に興奮するため」強姦事件の裁判記録コピー600枚 元旭川地裁職員(8月5日)

ニュース本文をよく読むと、この地裁職員は、すでに連続強姦事件の犯人として起訴されているのだそうだ。たぶんそこから、この所業が明らかになっている。時系列化すれば、2008年から今2010年1月までにその裁判記録の窃盗がなされ、追って2月と4月に、強姦事件が実行されているもよう。
この事例が示すように、わいせつ関係の事件などに過剰に興味をいだいているような方々は、口先で何を言っていようと、彼たち自体がりっぱなリスクである、という事実もありげ。これは認識しておきたい。

田丸浩史「ラブやん」第2巻よって、消防士による放火事件がわりと毎年発生しているように、ことさらな『見守り隊』とやらのメンバーがわいせつ事件を起こすのも、ひじょうにに不ゆかいだが一種の必然(!)…と言えなくはない。その一方、「ラブやん」や「ロリフェ」のヒーローたるロリコン君らが劇中で、独りでかってに『少女たちの味方』を気どり始めることは、こうした現象を逆方向からわかりやすく戯画化している。
しかしなんだが世間がこんなでは、『ありえないこと』を描いているはずのギャグまんが、「ラブやん」や「ロリフェ」らの表現に対し、『ねえよ!』という笑いを返しにくくなってしまう。『それはあるな』、みたいな冷静な感想が真っ先に出てしまっては、ギャグが成り立たない。
正直なところ、オレは見通しが甘かった気がした。自分の生きているこの社会を、もう少しくらいは『正気』のあるところかと思っていた。

そういえば。うろ憶えだが、竹内元紀の崇高なる大名作「Dr.リアンが診てあげる」の作中、確かセクハラの王者的な人物が、『ちかん・露出・のぞき等々の性犯罪はよくないぞ!』のような、みょうにあたりまえのことを言う。それは、どの口から…という感じも大いにありながら。
そうすると、物語のヒーローたるさわやかボーイのナオト君は、

 『そうだよ! ボクだって、必死にガマンしてるんだよ!』

などと言い、またき同感の意を示す。で、それを聞いたナオト君にホの字の女の子は、『必死にガマンしてるの!?』と、オウム返しで彼女のこうむったショックを表現する。
これを見たら、「Dr.リアン」はほんとうにさえまくった大傑作だと痛感せざるをえない! つまり、そうしたことらへの≪欲望≫を『必死にガマンしてる自分』という外傷的な認識を抑圧することが、ろくな結果を意外に招かない。無意識の欲望は、意識化されねばならない。

かつ、そうは言っても『ガマンをしない』ということでもない(…とうぜん!)。それは今作こと「百合星人ナオコサン」を扱った関連記事(*)で、『近所にちかんが出没』ということが話題になって…という個所に、ちゃんと引用しておいたとおり。

 【母】 みすずちゃんも エロ本とかで 我慢しとかないと ダメよ?
 【ナオコサン】 がまんだ みすず!

で、やっとここらから本題、「百合星人ナオコサン」の話になるのだが…。

その題名になっている≪百合星人≫とやらが、まともに女の子たちを追いかけまわすような、そんなストレートなおまんがで、これはない。そもそも、そんな作品が面白くなるとは思えないし。
だいたい筆者には≪百合≫ということが、バカな男らの性的妄想の1つの趣向、すなわち『ふたなり』や『触手』に並ぶもの、としか考ええない。そうして今作の内容が、そのような筆者の思いを大いに肯定してくれつつ。

で、このナオコサンはどこらへんが≪百合≫星人なのか…ということがいまいち明らかにならないまま、しばしお話が続いた後で。その第6話の冒頭にて、きわめてとうとつに前ぶれもなく大々的に、今作の決定的なキーワードが登場してしまう。
それがどうやら夏の掲載誌に出たお話だったらしく、われらのナオコサンは食べかけの焼きトウモロコシを中空へとさし上げ、ついでにつぶつぶを空中に散乱させながら、声も高らかに大宣言なさるのだ(第1巻, p.41)。

 【ナオコサン】 日本の 夏と言えば まず海!!! そして 水遊びする 幼女!!!
 あと 山!!! 山で 水遊びする 幼女!!!
 花火大会!!! にも かかわらず 幼女 水遊び!!!
 甲子園!!! には 脇目もふらず 幼女水遊び!!!

ここで画面は、幼女水遊びのイメージカットから、そんな宣言を聞いて引いているみすずへ。そしてその背後の遠景でナオコサンは、通りすがりのオッサンに、『リピート アフター ミー! YO U JO!』と、超かんじんきわまるキーワードを教え込んでいる。
それに続いて、またまた前景にナオコサンが割り込んできて、カメラ目線でシリアスにいわく(ビシッ)。

 【ナオコサン】 だって新聞だって 普段堅いこと書いといて
 幼女が半裸になった 途端一面トップ じゃないか―
 君らの正体は わかっている わかっているとも

と言ってナオコサンは、『あと絶たぬ“センセイ”たちのわいせつ事件』とかいった見出しをぬけぬけと書いている偽善者ども(!?)、その正体をズバリあばいてしまうのだった。で、この第6話から、今作を特徴づける決定的なキーワードは『幼女』、さもなくば『ようじょ』か『YOUJO』、それにきっぱりと決まってしまうのだった。
ところで重要な余談だが、大宣言の画面のナオコサンがいろいろと食いかけで汚いはずなのに、見た感じは汚くない。内容がダーティきわまっても画面の印象が常にきれいなのは、今作のすばらしく欺まん的なところではある。こんな方向性でなくとも、絵づらの汚いギャグまんがは、だんだんとうけにくくなっている。

で、そこから続いての展開で、ナオコサンがこっそり計画していた『水遊び幼女祭り』という夏の風流な企画が、ある理由で中止になってしまう。と聞いてからみすずが見ると、すでにその場へ、ブッキングされた幼女らが大挙して待機している(!)。
そしてナオコサンは幼女らに『スミマセン』と言いながら、キャンセル料を渡す。すると幼女らはきわめてビジネスライクな態度で、次の現場へぞろぞろと移動していくのだった。そのありさまを眺めたみすずは、びっくりしながら『…プロ?』とつぶやく(p.45)。

夏の新聞の紙面を活気づけるため等々のお仕事で、ひそやかに『プロ幼女』である方々が活躍されている、というお話なのだった。もちろんそれはナンセンス、だがしかし!
がしかしだ。ロリコンの人々からそのお小遣いを巻き上げるためのモエモエ諸商品、そこに描かれたイメージであり商品であるところの幼女らを、『プロ幼女』と呼んでみるのも1つの言い方なのでは? そういう意味で、『プロ幼女』はりっぱに実在するのだ。
とすればモエモエ関係のクリエーターやプロデューサーの各位は、『幼女を売っている』、『幼女に稼がせている』、という言い方もできよう。…というのがおかしげな人たちの脳内的な真実(しかし真実!)なのに、その言い方を過剰に真に受ける方々もおかしいが。

そうしてここから今作で、『幼女』なる語が出ていないエピソードがめったにない。さもなくば、ほとんどない。その中で…といっても『ほとんど』の中からだが、筆者の好きなお話を、1つご紹介させていただけば(第2巻, 第32話)。
中学校の学園祭の演劇で、みすずと柊がヒーローとヒロインを演じることに。…と聞いたナオコサンは『なるほど!!』と叫び、そして言う。

kashmir「百合星人ナオコサン」第2巻 【ナオコサン】 最新の 学説によると 一般尿と 幼女尿では
 厳密には 差はないそうだ みすず!

で、さらに2コばかり連発でナオコサンが、幼女ギャグをさくれつさせた後に。みすずが『私に主役なんて 無理だよ…』と弱音を吐くので、ナオコサンは『いくじなしっ』と叫び、≪泌尿器界の権威≫こと増田権蔵博士のもようのクッションを、『ポム』と彼女に投げつける。
そこで≪メガネ≫と呼ばれているメガネ少女の柊がナオコサンをとりなすと、ナオコサンは『ちっちっ 甘いな メガネ』と言い、そして自らのスパルタ教育(?)を正当化すべく、例によってカメラ目線で、次のように力強く訴えるのだった(第2巻, p.94)。

 【ナオコサン】 百獣の王ライオンは 自らの子供を 千尋の谷に 突き落とし
 代わりに幼女を 育てるという
 【柊】 (思わず感涙にくれて、)愛情なん ですね
 【みすず】 子供は?

とは、もうばかばかしすぎて何も言いたくないが。だがしかし、今作が連発しまくっているこのての幼女ネタを、“われわれ”が笑えるのはなぜなのだろうか…と考えたら?
まいどまいど申し上げちゃうわけだが、それは『無意識における肯定が、意識において否定される』、そのさいに生じる≪ギャグ≫の作用なのだ。さようなのだ。

そうして、さきに見たターニングポイントの第6話から、今作のふんいきは、プロ(っぽい)幼女らとロリコンどものなれあいを、ナオコサンがなまあたたか~く見守る、という感じになっているのだった。その第6話から1年後に出たお話だろうか(第1巻, 第17話)、夏のレジャーに出かけた一同は海の家に入り、ナオコサンはかき氷を食して、そして『はっ』と何かに気づく。

 【ナオコサン】 この氷は もしや…
 幼女の 自然な甘みを 利用して作られた 伝説のかき氷だ! 間違いない!!
 【みすず】 自然な甘みって…

という問答を横で聞いていた海の家のしぶいオヤジは、『…… わかるかい 若けーの』と言って、ナオコサンの妄言を平然と肯定するのだった。その伝説の≪幼女氷≫とは、氷塊に接して幼女らがたわむれる→幼女の熱で氷が溶ける→再凍結、というプロセスを繰り返して作るものだそうで。

 【オヤジ】 手間ひまを惜しんでは 納得のいく味には ならないんだ
 近頃は小学校入るのも いろいろ面倒だしな

いやそんなことをしても、びみょうにしょっぱい氷になるだけなのでは…等々と反論しても、ここではまったくしょうがない。どこの誰が何を言おうとも、仮にわれらの増田権蔵大先生がそれを否定なされたとしても、その方々のおつむの中で、幼女らの汗には『自然な甘み』がどうやらあるらしいのだった。
で、そんなことを言ってナオコサンと意気投合した店主が、やがて警察にしょっぴかれてしまうけれど、しかしナオコサンはいっこうに気にしない。内容はともかく≪百合≫と呼ばれた趣向を広めることだけに熱心で、その後のことを彼女はかまいもしない。

追ってそれから、お話のひどさがどんどん増していって(?)。第2巻の第25話、太り気味なのを気にしている柊のために、ナオコサンは『百合星式 高機能体脂肪 その他測定器』なるマシーンを持ち出す。そしてためしに通りがかりの健康で健全そうなスポーツマンを測定してみると、ディスプレイにはあっぱれ『健康』という文字が出る。
だがしかし『健康』だけとは測定結果が大ざっぱすぎかと、ナオコサンがマシーンのマニュアルをひもといてみたら。

 【ナオコサン】 えー 赤字で健康と 出るのは…と
 健康で かつ ペドフィリアの 場合だそうだ (親指を立てて、)Yeah!
 【スポーツマン】 (ギクリ!的に青ざめ、)ええっ

それから彼女たちが測定を続けると、オッサン・子ども・警官・覆面のあやしい人・等々…ことごとく、健康(かつペドフィリア)な人ばかり! それでそこへとパトカーが大挙出動してきて、人々は次々しょっぴかれてしまう(第2巻, p.38)。
これではまるで、さいしょにご紹介の腐った現実の世相が、ここへと『すなお』に描かれているがごとし。つね日ごろ『ペドフィリアはけしからん』ようなことを言っている方々もまた、ひと皮むいたらほとんどペドである、と…! しかも、『健康 かつ ペドフィリア』という言い方の皮肉が超ありえな~い!

で、せっかくなのでもう少しご紹介を続ければ、やがてそのマシーンは測定してないのに『健康』という文字を示しながら、そして『ハァハァ』とへんな音声を発しつつ、通りがかりの幼女らにからみつき始める。それは、『幼女分』と呼ばれる≪何か≫を吸収しようとしているらしいのだった。

 【ナオコサン】 しまった!! 機械自体が ペドフィリア だった!!!

そこで柊に促されてナオコサンは機械を止めようと…する前に、カッコいいらしきポーズをきめながら、またもカメラ目線で、そしてやたら大きな文字でこのように宣言するのだった。

 【ナオコサン】 ペドフィリアとの戦いは 始まったばかりだ!!!!!

先にこれを宣言しておけば、仮にこの後、ページ数の都合やらで何かがあったとしても『大丈夫』、であるらしい。ところがナオコサンが何かする前に、マシーンはかってに爆発してしまう。そしてそのさいごを見て、われらのナオコサンは言うのだった。

 【ナオコサン】 愚かな…
 自分の幼女器{うつわ}を超えて 幼女分を 得ようとしたんだ…
 (涙ぐみながら彼女は、高橋名人が『幼女は 一日一時間!』と訴えているパネルを示す)
 己の力量を 見極められなかった者の 悲劇さ…
 【みすず】 悲劇かなあ(…引用者註、{}内はルビ)

で、ともかくも何かが落着した感じなので、ナオコサンは今度は高いところを見上げ、『ペドフィリアとの戦いは 終わったばかりだ!!』と、誇らしげに宣言。が、そもそもほんとうにペドフィリアと戦う気があったのかどうか?…というところに大きな疑問を残しつつ。
そうしてみすずがふと横を見ると、いつの間にやらマシーンに代わり、柊がその場の幼女らにタッチして、幼女分をズイズイズイと吸収している(!)。そして彼女の顔や体が、みるみるうちに『ブクブク』…とふくれ上がっていくのだった。

…知りもしないが、近ごろ筆者の腹部に『やや』たまり気味な≪何か≫もまた、その幼女分とやらなのだろうか? さもなくば、その一方に『熟女分』というものも存在しているのだろうか?
どっちにしろ、そんなものらを吸収している気がしないのだが。にしても『己の力量』というものだけは、しっかりと見極めておきたいところだ!
と、ここで『熟女分』という文字を書いて思い出したが、今作には中学生よりも上の年代の女性らが、『なぜか?』と問うのも愚かないきおいで、ほとんど登場しない。ナオコサン(&行方不明の奈緒子)とみすずの母くらいしか出ておらず、それがわれわれの用語でいう≪排除≫をこうむっている。

で、こんなお話らを延々とご紹介しつつ、筆者は何を申し上げようとしているのだろうか? …見てきて筆者は、だんだんにナオコサンが女性、という感じがしなくなってくるのだった。
口では≪百合≫を言いながら『幼女中心主義』のアジプロに余念がなく、よってペドフィリアたる諸氏らと(薄っぺらにも)共感しあい、そしてここまで説明しなかったが、みょうに喰い意地が張っていて常にジャンクっぽいスナック菓子を手放さない、ナオコサンと呼ばれるキャラクター。筆者にはそれの内面が、一種の『通り過ぎた』ロリコンデブヲタの男子なのではなかろうか、という気がしてくるのだった。

そして、その『通り過ぎた』というところを実現しようとしてか、また別の大モチーフとして今作には、(例によって)≪去勢≫というテーマが頻出しているのだ。けれども、そのポイントは次の機会に見ることとして…。
そうしてこの「百合星人ナオコサン」という作品は、じっさいシャレにならぬほどペドフィリアがウヨウヨしているらしいこの社会に対し、≪何≫として機能しているのだろうか? 『幼女は、プロに限る!』、とでもいうメッセージ性?
その機能するるところが、おかしい意味での≪挑撥≫ではなくて、ちゃんとした社会風刺であるのだ、と断言できるならわれわれは幸せだが…っ!

2010/09/17

田丸浩史「レイモンド」 - まんがにおける≪自由≫とは何か

田丸浩史「レイモンド」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「レイモンド」

トキワ荘世代のまんが家による入門書や創作論を見ると、だいたいは、次のようなことが書かれてあったような気が?

『まんがとは、ペンと紙だけであらゆることが表現できる、きわめて自由なメディア』

と、そこまでは必ずしも言ってないとしても。しかしまんがという媒体について、『きわめて不自由なしろもの』と言われている例は、いまだ見たことがない。

がしかし。いまの21世紀におけるまんがについて、『きわめて自由なメディア』と考えている人々が、いったいいずこにいるのだろうか? 逆に申せば、いずこにそのような『自由』を表現し体現している作品らがあるだろうか?
で、だ。媒体のつごうや社会的制約による不自由…ということらは、問題でないとは言えないが、しかしいまは度外視する。いまここでは、誰かの頭の中にある何らかの壁、それによる不自由、ということを考えてみたい。

たぶん皆さまもご存じの、田丸浩史先生のご創作、「レイモンド」について(2005, ドラゴンコミックス, 全3巻)。これは現代日本の女子小学生の机の引き出しから、≪レイモンド≫と名のる米海兵隊員のような黒人(のアンドロイド)が出てきて、映画「ターミネーター」の設定をちょっと変えたような理由で、彼女の護衛をかってに買って出る、といったお話だが。
で、その海兵隊型ロボットのレイモンドが、未来のおかしな道具らを現代に持ち込んできて、まいどまったくいらんような騒ぎを引き起こすのだが。

ここでわれわれが、『それは「ドラえもん」のパロディですね?』などと言っては負けなので、それは避けたいのだが。かつ、さりげないが(?)、『レイモンド』という題名と主人公の名前にしても、いわゆるアナグラムで『ドレイモン』とでも読ませたいのかな…と考えないでもないが。

そうして、筆者の談議は≪作者≫というものをまったく問題にしない前提だというに、にしてもこれを見ちゃっては、『どうしてそんなに不自由なの?』と、作者さまに聞いてみたくもなってしまう(=大惨敗!)。

すなわち田丸先生に関しては、その最大の…というよりも唯一の傑作「ラブやん」(2000)にしてから、だんぜんきっぱりと『それは「ドラえもん」のパロディ』だというに。さらには作家さまがどっかで語ってらしたけど、未刊行の「やくざもん」という初期の読みきりが、また『それは「ドラえもん」のパロディ』であるらしいし。
そもそも古く、高橋留美子先生の「うる星やつら」(1978)にしてから、『それは「ドラえもん」のパロディですね?』ということが言われているというに。だのにどうして“われわれ”は、この21世紀にまで、その挙を反復し続けないではいられないのだろうか? 確かに「ドラえもん」は面白いお話だとは認めるが、にしても、なぜそんなにまでそこへと粘着する理由があるのだろうか?

…もしもそこいらを分かると、これが大傑作に化けるのやも知れないが。というよりも、明らかに原作のほうがずっと面白いという場合に、『パロディ』が成り立っていると見うるのだろうか?

でまあ。筆者がつい先日、この「レイモンド」の最終巻を読んで、思わず『しょうもなっ!』というつぶやきを発したことは、ともかくだ。
…いや、そもそもこの本、体感的にはその内容の30%くらいが、田丸センセと誰かとの対談によって占められており、そんなでは田丸センセへの特殊な興味を前提としてできているとしか思えず、まるで田丸ファンクラブの会報みたいなのだが。かつその対談が、最初の方はまだしも、追ってどんどんまともな話題がなくなっていき、最終巻では目を通すのもむざんかつあほらしい、というありさまだが。
しかも、さっきからこの堕文に、『田丸センセは…』うんぬんというフレーズが多いのは、そのような、この本が演出している『へんに作者をスター扱い』(?)というムードに自分が巻き込まれているわけで。それが、まったくもって不本意なのだが!
(にしてもちょっとはほめておくと、多少ならずロリコン的な興味があれしてそうな作品の中で、かんじんのヒロインが粗暴な腹黒いちゃっかり者…というところは、ちょっとよい)

トキワ荘時代のまんが家先生たちが言ってらした、『まんがは自由なメディア』というテーゼ。それを現在のまんが家の1人であらせられる田丸浩史先生は、「ドラえもん」と「ターミネーター」をてきとうにこき混ぜて、ロリコン風味をまぶし…といったような、先行の物語資源らを『自由に』乱用・流用(アプロプリエート)しちゃってもよいかも、という『自由』にすり替えておられるのではないだろうか?

で、ここでは、そうした田丸センセの創作態度について難色を示したいとか、そういうわけでは別にない。『そうだ』と断言もいたしかねるが、おセンセの『パフォーマンス』は、見かけ上の自由さが実質的にはとんでもない不自由であると示す、作家人生そのものをかけてのギャグ実践にも見えなくはないので。
そもそも『これ』が、あまりにも中途はんぱな創作であることは、まったく“誰”にでも分かることであり。そんなものを人々が囲んでいる状況、それこそが笑うべきこっけいでありグロテスクなのやも知れぬ。

また、別の言い方をすれば。こんにちのまんが界で、そのていどのものをご創作として提出されているのは田丸先生1人だけとも思えず、むしろ明示的にだんぜん空疎なだけ、田丸作品らはちょっとあいきょうがある方やも知れぬ。何度も申し上げすぎだけど、「ラブやん」はすぐれた例外として。

さいごに1つ、あるかもしれない誤解をといておくと。『パロディ』(正しくはアプロプリエーション)という手法を即・面白いものかのように考えるのは、『だじゃれ』というものを即・面白いものと考えるオヤジの発想と同じだ。まれには面白いダジャレもあるように、まれには面白いパロディもある、そのていどに考えたほうがよい。

2010/09/15

はっとりみつる「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」 - ≪快感原則≫の勝利っ!?

はっとりみつる「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」

以下で話題の「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」は、『ショート形式のスポ根系ギャグラブコメ』という、めったにはない形式の作品。2005~08年の週刊少年マガジンに掲載、単行本は全9巻(KC少年マガジン)、略称「ウミショー」。
これが、湘南および沖縄を舞台にした、ひじょうに夏っぽいムードの作品なので、できれば夏の盛りの記事の題材にしたかったところだが。それがいつのまにか季節は初秋で、『行く夏を惜しんで』的な記事に…(むねん)。

まずそのスタイルについてちょっと見ておくと、掲載誌で当時、先行してショート形式の作品、ギャグの「魁!! クロマティ高校」やラブコメの「スクールランブル」などの成功例あり。とくに、小林尽「スクールランブル」の構成に新しさがあった。
で、それらを追って今作もショートで…という事情だったのかも知れないが。しかし「スクールランブル」に比べても、今作「ウミショー」はひじょうに冒険的な構成だったように感じる。かつ今作は、のんびり描いてたら軽く16ページにもなりそうなお話を10~12Pで描いている、その情報密度の高さに、21世紀のまんが作品というふんいきが大いにある。

『情報密度の高さ』などと申し上げたが、それを『ごちゃごちゃしてる』と言い換えてもよい。あまりうまくもない絵で、みょうに小さなところ、本すじに関係ないようなイベントやダイアログらをちまちま描いているので、楽しいが見ていて目が疲れる作品でもある。
そして今作に関し、『ごちゃごちゃしてる』や『展開が散漫ぎみ』は、何とりっぱなほめことばだ(!)。
というのも。今作は江ノ島っぽい海辺の町の『海猫商業(ウミショー)』という高校の水泳部を舞台に、競泳水着の女の子たちがやたら画面をウロウロしている作品なのだが。そこに情報をしぼってしまうと、ふんいきがいやらしくなってしまうところを、『ごちゃごちゃ』や『散漫』という表現の特徴が、ひとまずそれを救っている。

だいたい作品の序盤で言われる『ウミショー水泳部』の特徴が、『(校内で)不まじめ度 No.1』(第1巻, p.68)。その作中人物たちは基本的に、スポーツへと純粋にまい進しないどころか、恋や性交にもがんばりはせず、ことらをまったくつきつめない。そうして今作は、内容・ふんいき・表現らすべての面を『ごちゃごちゃ』と『散漫さ』で“逆に”統一し、そして“すべて”をゆる~い≪快楽≫のムードに染め上げているのだ。
(少々ご説明。この場で言われる≪快楽≫とは、ぬるま湯チックな安楽さのこと。それは、エキサイティングでホットなお愉しみ=≪享楽≫と対になるもの。分析用語の≪快感原則≫とは、できる限り平静安楽でいようという心の傾向。『快楽, 快感, 快』などと異なった訳語があるが、それらは同じもの)

しかも、そうではありつつ『情報密度が高い』とも言いうる表現になっているわけで、ただ単にゆるい作品ではない。今作「ウミショー」がいちおうは1つの成功作っぽい感じなのだが(たぶん)、その成功のひみつの一端は、上記の独自のアプローチにあるかと見る。
さて、この世のどんなに不まじめな人間であっても、オーガズムの最中に笑っているということはない。よって、おかしなことを申すようだが、人間らの『まじめ』の極致はオーガズムだ。≪享楽≫のきわみ(=オーガズム)へと向かって必死!…という態勢になった人間に、冗談はけっして通じない。
そうして今作「ウミショー」は、≪享楽≫のピークに向かって何かが高まりそうなところを、不まじめさや『天然ボケ』の鈍感さ等々の介入により、それがチンタラムードの≪快楽≫へと薄められてしまう…という現象を反復として描く。スポ根っぽくもありながら人々はスポーツに必死にならず、ラブコメっぽくもありながら人々は恋や性交を必死に追求しない。

ところで、これの第1巻の発売日に書店へと走ったオレ(めったにしない行動)、そんな筆者が今作「ウミショー」にもっとも入れ込んでいたころ、その描くところとして強く感じていたのは、『水の感触のこころよさ』ということだった。
今作のヒロイン≪あむろ≫は沖縄からの転校生で、やたら泳ぎが速いので水泳部にスカウトされるが、ド天然の彼女は『スポーツとしての競泳』をまったく解さない。彼女にとって泳ぎは遊び、またき遊びであり、そしてその遊びの核心は、おそらく『水の感触を楽しむこと』なのだ。
そうして今作では、そのような皮フの全体で味わうぬるめの≪快楽≫が、ヴァギナとペニスの性交による≪享楽≫へと対立させられている。かつ、人が『競技』へと過剰にシリアスにとりくむようなことがまた≪享楽≫の追求(=性交やオーガズムの代替)なので、あわせてそこが否定され気味。が、それらが否定されきっている…とも言えないのが、それまた今作らしい散漫さの美徳でありつつ。

中西やすひろ「Oh! 透明人間」第1巻ここで誰も聞きたくないようなことを平気で申し上げると、少年まんがには『性交やオーガズムを回避する』という大テーマ性が、もともとある。『それ』の代わりとしてヒーローたちは、冒険やスポーツやケンカ等々の≪享楽≫を追求するのだ。
1つのきわまったものとして、1980'sの月刊少年マガジン掲載の、中西やすひろ「Oh! 透明人間」という作品があり。これは透明になれる少年がいろいろと性的っぽい『冒険』をするが、しかしこのヒーローが性的に興奮しすぎると透明状態が解除される(=ヤバい!)、という設定。つまり『性的っぽい冒険はOK、しかし性交やオーガズムはNG』という縛りがあって、その上でからくも『少年まんが』として成り立っているのだ。
(性交そのものである享楽と、性交の代替である享楽のあれこれ。それらは対立の関係にもありながら代替の関係にもある、ということに注意)

だから。もしも「ウミショー」の作中人物らが、うかつに競泳へと真剣に打ち込んだりしたら、それはいたってふつうの少年まんがになる。その一方、お話のベースの開放的なムードに流されて性交がなされてしまえば、それは少年まんがとして失墜する。
そしてそのはざまで実作がなしているソリューションが、『水の感触のこころよさ』に代表される、ひじょうにぬるめな≪快楽≫の提示なのだ。かつ、そのぬるいものが提示されているからといって、『スポ根か性交か』というテンションが消失しきっているわけではない。それは根底には常にあって、“逆に”お話を支えているのだ。ただ単におきらくな作品がある、のではない。そこらに筆者は、今作の構成のふしぎな巧みさと新しさを見るのだ。

…とまでの前説が、すでにひじょうに長くなってしまったので、ここでいっぺん話を切り上げて。続いて次の記事で、作品の細部をちょこっと見ていこうかと。

あと、ひとつ余談。追って世に出たTVアニメ版の「ウミショー」(2007)は、筆者が申し上げた『ごちゃごちゃ』と『散漫』という特徴を失っていた。原作付きアニメというものの工程、およびわずか全13話の短さから、たぶんそうなろうという予想通りに。
で、それらの特徴がいやらしさを薄めていたという前提により、アニメ版はけっこういやらしい作品になった。少なくとも、原作よりはずいぶんいやらしい感じを受けた。見ていて羞恥を覚えたので、第1話しか視聴していない。

2010/09/05

kashmir「百合星人ナオコサン」 - 増殖を命じる声 と、不毛でありたい私

kashmir「百合星人ナオコサン」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「百合星人ナオコサン」

今作「百合星人ナオコサン」は、2005年から月刊コミック電撃大王に連載中の、SF系(?)ショートギャグ。毎回がたったの6ページぽっちだけに、すでに5年間も連載していて、いまだ単行本は第2巻まで(電撃コミックスEX)。そこまでの刊行ペースからすると、この2010年暮れあたり第3巻が出そうな感じも。
どういうお話かと言えば、『百合星からやってきた宇宙人』を名のるなぞの女性≪ナオコサン≫が、現代日本のどこかの少女≪みすず≫の家に居そうろうしつつ、異星のテクノロジーらしきものを乱用し、大きなお世話をいたしまくる。

 ――― 第1話『粘膜保護同盟』より(第1巻, p.7)―――
 【みすず】 ナオコさんは 宇宙人なんだそうです
 太古の昔より 地球の生命の進化を
 調整してきた種族なのだそうですが ホントかどうかわかりません

そのヒロインの初登場の仕方が、大いに人を喰っておりつつ≪不安≫をかきたてるものでもある。どこかに離れて暮らしていた姉の≪奈緒子≫が帰っていると聞いて、みすずは急いで中学校から帰る。そして姉の部屋のドアを開けると、『やあ おかえり みすず』と彼女をふつうに迎えたのは、見も知らぬへんな人。
そのへんな人、耳のとがったスペイシーなかっこうの女性が、すなわちナオコサンだった(第1巻, 第4話)。喫煙の代わりなのかレトロなガジェットの『ふしぎな指ケムリ』というものを右手でもてあそび、そして「淫獣教育」とかいう官能小説を読んでおりつつ。

 【みすず】 あなたは誰? 奈緒子お姉ちゃんと どういう関係ですか
 【ナオコサン】 だからその お姉ちゃんだってば 信じてないなー?

似ても似つかないのに、平気でナオコサンはそれを言い張る。ところがみすずの家族、母と弟は、『奈緒子→ナオコサン』の入れ替わりを、別におかしいとは思っていないらしい。いや、その2人にしても『奈緒子=ナオコサン』とイコールで見てるのでもない感じだが、しかしナオコサンの存在に違和感を覚えないらしい。そうして、なぜかいつもみょうにきげんよさげにナオコサンは、みすずの家に居すわり始める。
なお、この家には、大してまともな説明もないままに父親のプレゼンスがない。と申せば『またか』という感じだが、『父の不在』という徴候は、その作品世界における『規範の不在』にパラレルな現象ではありつつ。

で、そもそもナオコサンが、みすずの姉の奈緒子でもあり、百合星からやってきた宇宙人でもある、という主張がめちゃくちゃかのようだが。
それについて筆者は、目の前の人物がAさんでもBさんでもある、1つの場所がA地点でもB地点でもある、という『夢表現』のしくみを感じるのだった。かつ、『家族の入れ替わり』というモチーフは、人の子ども時代の夢にはよく出てくるものでもある。

よけいなことかも知れないが、自分が憶えている子ども時代の夢を書いておく。ある日、自分が帰宅すると、茶の間に母と弟がいる。別に何にもおかしくないようだが、しかし何かがおかしい…と感じる。目の前の2人が、本物の母と弟とは違うような気がして仕方がない。そして、不安が高まる。
そうして今作中でも、ナオコサンには及ばないにしろ、みすずの母と弟が、これまたおかしい人物らなのだった。美人の母は、町中のごみ集積場からエロ本を拾い集めることを主婦のメインの仕事かのように遂行し続ける。また外ではおとなしい弟は、姉のみすずに対してだけはエロい好奇心を燃やしまくって、いろいろな挑撥に及ぶ。それらに対してまたみすずは、違和感や不安を覚えるのだった。

そういうふうに見てくると、今作「百合星人ナオコサン」は、Wヒロインの一方で語り手のみすずが、四方八方からセクハラをこうむるお話だとも言える。その第3話(第1巻, p.17)の内容、ナオコサンが路上にばらまいたエロ本を母が拾い集め、『ハイ』とみすずに渡して、『だめでしょ 散らかしちゃ』と言う。
さらにその母から、家に父が不在でみすずはさびしいらしいと聞いて、ナオコサンは目に無償の同情の涙を浮かべながら、そしてみすずの両肩を『ガシッ』と手でつかんで言う。

 【ナオコサン】 これからは ナオコサンのことを 本当のお父さん だと思って
 股間を まさぐるなどして いい…
 【みすず】 許可されてもなあ(汗)

…いちおう生きているらしい実の父をさしおいて、そんな宇宙人が『本当のお父さん』を僭称しようとしているだけでも何だし。まして中学生の娘が、父の股間をどうするとか。ナオコサンのイメージの中で、父娘の関係はそういうものらしい(?)のだった。
そうしてこれらを見ていた、みすずの親友の女の子≪柊≫までもが、『みすずちゃんに だったら ま まさぐられても…』と、何かかん違いして、ありがた迷惑な提案をしてきやがる。さらにそのころ、弟の≪涼太くん≫はどうしているかというと、ナオコサンの指図により、パワードスーツで身長を底上げし年齢を偽装して、新宿あたりにエロ本を買出しに行っているのだった(…はっきりしないが、今作の舞台は武蔵野っぽい土地らしい)。

 『享楽せよ(Jouis!)、という命令がある。
 それに対して主体は、私は聞いている(J'ouis)、とだけ答える』

ラカン様によれば、このことが、人間らの≪不安≫のみなもとなのだそうだ。夢の中で象徴的に表現されたエロシーンを眺めるとき、われわれはうすうすながらもその≪意味≫を察し、不安に襲われる。あえて独断的に言い換えると、その不安は、自分の起源をかいま見ることの不安、性交の結果として存在している自分についての不安だ。
そしてナオコサンをはじめとする人物らがみすずに告げていることは、要してしまえば『汝もまた、りっぱなエロ生物である。よって、“享楽せよ”』。そしてそのメッセージのもたらす不安とショックを、われわれは笑いという反応によって受け流すので、ここに今作が≪ギャグまんが≫としてある。

と、ここまでを見てみると、一見ふつうの少女らしきみすずの愛好物が≪廃墟≫であることも、奇妙だが何らかの意味をなしてきそう。それはもちろん『望ましき自分(理想自我)』のイメージであり、その意味するところは『不毛でありたい』、(当面は)性交や出産をしたくない。これは、ふつうの意味での≪少女趣味≫の、1つのバリエーションでもありつつ。

追って、第8話の『触手エクスプレス』というのがまたひどいお話で、まずは冒頭、近所にちかんが出るということが家庭の話題になる(第1巻,p.56)。そこで母は『心配ねえ…』とつぶやいたかと思うと、おかしいことを言い出す。

 【母】 みすずちゃんも エロ本とかで 我慢しとかないと ダメよ?
 【ナオコサン】 がまんだ みすず!
 【みすず】 …される方の 心配してよ!

それからナオコサンはちかん対策をねって、啓発用のポスターを作成する。すると何と、その絵図でちかんを演じているのがみすずの姿(!)。

 【みすず】 どうして私が モデルなんですか!?
 【ナオコサン】 (とくいそうに、)敵を知るには まず己からと 言うじゃないか!!

ところで今作のおかしいところは、そこに明らかな享楽への扇動があるにしても、いわゆるノーマルっぽいヘテロセクシュアルのそれが、言わば度外視されている。いまのお話でみすずが(ゆえなく?)ちかん扱いされて気の毒なわけだが、しかし『痴女』ではない。なぜなのかふしぎにも、彼女が女性を襲うのでは…ということが懸念されている。
そもそも今作には、涼太くん以外には男性の『人物』などいないに等しいし。何せ作中の『享楽への扇動』のリーダーが、『百合星人』なので…と言えばそれまでだが。

Can“Future Days”1973と、この堕文がもはやずいぶん長くなってきたので、その『百合』とはどういうことか…を宿題にしながら、いったんここらでひと区切り。さいごに1つ余談でも書いておくと。
筆者が今作「百合星人ナオコサン」を『どうであれオレ的に、だんこ注目すべき作品!』と思ったのは、何の意味もなく涼太くんが、クラウトロック(ドイツ製ロック)のカンの1973年の名盤「フューチャー・デイズ」(*)のTシャツを着ていたからだった(第1巻, p.147)。

『レトロ・フューチャー』とは実にうまいことばがあったもので、21世紀の現在に(自称)宇宙人の活躍を描く今作は、俗悪きわまるギャグまんがでもありつつ、われわれがうかつにも忘れそうなものたちを、“ここ”に呼び戻している作品でもある。そしてその呼び戻された“もの”が、カンの名盤はともかく、街角のアースやオロナミンCのホーロー看板のような、これまた俗悪なイメージでもありつつ。
筆者は『広告の図像学』なんてことに興味はないが、殺虫剤にしろ健康ドリンクにしろ、へんに誇示されたそれらが≪ファルス=勃起したペニス≫をさしているイメージということは、ぜんぜんまちがいない。それらのイメージは、びみょうにもわれわれの≪外傷≫をつついて機能する。あんまりな拡大解釈のようだが、それらもまた『享楽せよ!』というメッセージを放つものにまちがいない。
しかもそれらの看板はどちらかというと、われわれがそれらを見ているというより、崑ちゃんや水原弘がわれわれを見ている、として機能しているのがいやなところ。こんなものらは、1986年にみうらじゅん先生が「見ぐるしいほど愛されたい」でネタにした時点でもじゅうぶんレトロだったのに、まさか21世紀の話題になるとは思っていなかった…!

2010/09/04

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」 - 宇宙の法則が乱れる!(イケメンのせいで)

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」第1巻 
関連記事:マツリセイシロウ「マイティ・ハート」 - 『護憲派』ヒロイン、爆誕っ!?

関連記事の続き。で、いきなり引用、『線は延長する。しかし点は、爆発することができる』ということばは、確か花田清輝の著作にあったものかと思ったが…(確認できず)。
そしてわれわれの立場からすると、『爆発することができる“点”』とは≪ギャグまんが≫のことか、と考えもできる。かつ、ギャグ以外のまんがは、『延長できる“線”』として。

そこから「マイティ・ハート」の話にすると、自分という1人の読者がその作品について考えようとしたときに、印象深く思い出せるのは、“点”であるギャグ要素だけだ。それはもち、ギャグまんマニアとしてのバイアスある『読み』の結果だが。
ところが実作「マイティ・ハート」は、たぶん“線”をなしているお話のようにも読めそうかも。おそらく。
そして、と言おうか、けれども、と言おうか、この作品の全7巻は、出だしのところがいちばんギャグっぽくて、続いた中盤はハーレム系ラブコメ(?)になり、そして結末近くは複雑なタイムスリップSFになっている、という感じ。で、自分からすると、その中盤にはあまり関心がもてず、そして終盤はむずかしくてよく分からない。

という、このやっかいな作品な作品について、“ひとつ”のまとまったことをオレごときには、言えそうもない。…と、あれから頭を整理して、やっと気がついたのだった。ほんとうにつまらない前置きだが、いろんな見方がございましょうけど、自分は主として今作のギャグ要素に注目しつつ、この堕文を続けるとして。

…が、なおもへんてこな前置きをひとつ書いておくと。ギャグじゃないまんがが『積分』的なアプローチでねちねちと何かを描くものとしたら、≪ギャグまんが≫のギャグは『微分』的に、ほんのささやかな表現で、ひじょうに多くのことを描いてしまう(成功している場合)。それは『延長-と-爆発』の言い換えだが、この対照性を見つつ。
だからそのピュアっぽいあり方として、ストーリー性もなく、ろくにキャラクターも立てず、頭に入れるような設定もない…そういうのが最上等か、という気もしてくる。その意味では≪バカボンのパパ≫なんてすばらしすぎる存在で、『何をしている人であり、何を求めて行動している』、という描写がほとんどないままに、その存在感がむしょうに大きい…これはすごい!
古い例どうしを並べると、≪矢吹ジョー≫もキャラクターであり≪バカボンのパパ≫もキャラクターであるとは言えども、各あり方がぜんぜん異なるということは見てとれるだろう。



で、やっと「マイティ・ハート」本編をちょこっと見ていくことにして。その第1巻の、ちょうどなかば…(第6話『イケメン襲来』の巻)。
悪の組織の新たなる刺客、≪シヴァルツシルト≫という人物が登場してくる。これは『イケメン怪人』というまたの名をもつだけに、とにかく超イケメンで、そして『横紙破り』をきわめたような野郎なのだった。
そのシヴァルツが、目標のマイティハート(略称・MH)を制覇する前にじゃまなので、味方のはずのヴァルケン隊を先にやっつけたりするほどに(!)、すっごく横紙破りであれる理由。それはひとえに、彼がモテるから、イケメンだからというのだった。
つまり、彼の2つの特徴は、片方が片方の帰結なのだ。モテ一元論にもとづくイケメン中心主義によって、シヴァルツには“すべて”が可能であり“すべて”が許されているらしいのだった。

 【シヴァルツ】 モテる男は 何者にも 縛られない
 モテる男は 全てを 縛るのだ!!
 (と言ってシヴァルツは、あっという間にMHをSMチックに緊縛!)

これを見て、ひそやかにMHへとホの字のヴァルケンは、シヴァルツの暴挙を止めたい。がしかし、体が動かない。なぜならばシヴァルツの放っている『モテオーラ』が、イケメンならざる生物らを軽ぅ~く圧倒し、そして金縛りにしているからだ(!)。
そしてシヴァルツは、身動きできないMHのパンツを脱がそうとしながら(!)、とんでもないことを言いくさるのだった。

 【シヴァルツ】 イケメン流 求愛訓 その一
 自分の 女には 自分の ブリーフを はかせる べし!!

と、ここいらで、真のイケメンたる存在のものすごさが、やっとわれわれにも実感できてきたところで…。
あまりのことにMHは、彼女のファイナル必殺技を、(文字通り)大ばくはつさせる。それのまきぞえでヴァルケンの手下たちは吹っ飛んでいくが、しかし爆心地のシヴァルツは、何らダメージを受けない(!)。そして、大とくい顔でいわく…。

 【シヴァルツ】 これが モテると 言うことだ!!
 イケメンとは… 神羅万象に 愛されし者!!
 (イメージ映像のカットイン:ミケランジェロのダビデ像)
 よって いかなる 物理エネルギーも
 イケメンを傷付けることは 出来ない!

かくて手も足も出ないとわかったので、MHは『ふ…ッ』と失神。そこでヴァルケンは、必死の力をふりしぼって、MHを抱えてその場から逃走! 『こいつは 俺の敵だ! 他人には 渡せん!!』と、何だか苦しい言いわけをそこに残し。
そうして取り残されたシヴァルツは、MHにはかせる予定だった自分の黒ブリーフを、なぜか自分の頭で『グッ』とかぶる(!)。そしてカッコいいらしきポーズをキメながら、『この恋… どうやら 長くなりそうだ』と言うのだった。

もはやウンザリな感じだが、さらにここから第9話まで、みっちりとこの強敵シヴァルツが大活躍しやがり、彼のモテ一元論にもとづくイケメン中心主義、その華々しい実践を魅せつけくさるのだった。そうして作品「マイティ・ハート」において、もっとも筆者がウケたのはこのエピソード群なのだった。

 ――― 第7話『湯煙ラプソディ』の巻より(第1巻, p.112) ―――
 (温泉旅館でバイト中の天河くん=ヴァルケンが、ふいにシヴァルツと遭遇)
 【天河】 てめー シヴァルツ! ここは 女湯だぞ!!
 【シヴァルツ】 フ…ッ 知らんのか?
 (カッと目を見開いて大宣言、)イケメンは 男湯など 入らん!!

などと、ご紹介したいようなシヴァルツの迷せりふが、まだもっとあるのだが。しかしもう、ほんとうに本気でイヤになってきたので、このくらいとして。
にしてもこれらは、どうして≪ギャグ≫として機能するのだろうか? そこら、筆者の自己分析によれば…。

このように横紙破りな絶対的モテ野郎が、いてほしくはないが、どこかにはいるに違いないと、なぜか自分は大確信しているようなのだった。そしてその無意識の肯定を、意識でむりにでも否定しようとするさいに、≪ギャグ≫の作用が生じるのだ。
では、シヴァルツのごとき絶対的モテ野郎が、どこかにはいるに違いないと、自分が確信しきっている理由は何か? それは、そういうヤツ(ら)が過剰に女性たちをキープしているのでないとすれば、自分がモテないという事実に説明がつかん(!?)、からのように思うのだった。
よってシヴァルツは、フロイト様の大名著「トーテムとタブー」(1912)でおなじみ、『始源の時代、“すべて”の女性を独占してやがった“原父”』の再来である(←これは本気では言ってない)。

もはや何も申したくなくなってきたので、この記事をとっとと終わる。ところで当家のお得意さま方におかれては、作品「マイティ・ハート」について前記事から、筆者が超かんじんなところを説明していない、ということは、とうぜんお見通しかと。
いやもう、追ってそこをちゃんとカバーしようという意思は、大いに存ずので。なのでぜひチャンネルはそのままで、キープ・オン・チューニングぅ!